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マーク・トウェイン(大久保博訳)『ハックルベリ・フィンの冒険』(角川文庫)を読みました。
ハックルベリ・フィンを知らない人はいないと思います。『トム・ソーヤーの冒険』でも活躍していましたよね。学校にも行かず、決まった宿もなく、ふらふらして暮らしていたあのハックルベリ・フィンです。
『トム・ソーヤーの冒険』はともかく、『ハックルベリ・フィンの冒険』はほとんどの方が読んだことがないのではないでしょうか。どんな物語かもあまり知られていないと思います。
『ハックルベリ・フィンの冒険』は日本では児童文学のような扱いをされることが多いですが、実は文学作品としてかなり高く評価されている作品なんです。ヘミングウェイも、アメリカの偉大な小説と位置づけているようです。
ハックルベリ・フィンの成長が描かれるだけでなく、黒人奴隷ジムとの心の交流が描かれ、そのことは宗教的に正しいことと自分の良心とのジレンマを生じさせます。自分の良心に従えば、宗教的に間違ったことになり、宗教的に正しいことをしようとすれば、自分の良心は痛むわけです。
そうしたジレンマが、物語のテーマをより一層深くし、より一層感動的なものにしています。
物語の基本的な流れは、ハックルベリ・フィンと黒人奴隷のジムが筏で河を下る話です。それぞれに逃げなきゃいけないわけがあるんです。その旅の途中で、様々な悪党たちと出会います。ハックルベリ・フィンと黒人奴隷ジムは果たして〈自由〉を手に入れることができるのか?
この小説は『トム・ソーヤーの冒険』の続編的なものにあたり、直接的な話の繋がりはさほどないですが、トム・ソーヤーのキャラクターを知っていた方がより楽しめるだろうというのが1点。
それから冒頭で『トム・ソーヤーの冒険』のラストが明かされてしまっていることもあるので、『トム・ソーヤーの冒険』を先に読んでいた方がより楽しめるだろうと思います。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のところでも多少触れていますが、この小説はハックルベリ・フィンの〈おいら〉という1人称の語りの小説です。つまりアメリカ文学史的に言えば、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の前に位置する作品とも言えます。
翻訳でも多少工夫が凝らされてはいますが、原文は方言が多く使われているようです。
黒人奴隷が出てくることから、人種差別の問題があるとされ、アメリカでは規制されたりすることもあるようです。この辺りは難しい問題ですね。誰かを傷つけることは当然よくないことですけれど、歴史的に価値のある文学作品ですから、改変を加えていいかというとそれはやはりやめてほしいというのが正直なところです。
作品のあらすじ
書き出しは、こんな文章です。
みんなは、おいらのことなんか、知らねぇだろう。『トム・ソーヤーの冒険』ってえ本を読んだことがなかったならな。だが、そんなことはどうだっていい。あの本を書いたのはマーク・トウェインという人で、あのおじさんの言ったことは、本当のことだ。だいたいはな。いくつかは、ホラを吹いているところもあったが、だいたいは本当のことを言っていた。だが、そんなことは、大したことじゃねぇ。おいらの見たところ、誰だってウソをついているんだ。一度は二度はな。(8ページ)
文体の雰囲気はこれで大体つかめるだろうと思います。〈おいら〉が語っていく方式。物語の冒頭はすごく愉快で面白いです。〈おいら〉を養って育てようとしてくれる婦人がいるんです。学校にも行かせてやろうとします。普通は感謝しますよね。
ところが〈おいら〉は1人気ままに森の中とかで暮らすのが好きなわけです。学校なんかに行きたくない。自由な生活を続けていた〈おいら〉の物事の見方は、すごくユニークです。
文学理論に、〈異化〉というものがあります。日常に見慣れたものを、少し異質なものとしてとらえなおすことによって新鮮な感覚を呼び起こすというもの。
〈おいら〉の目にかかれば、日常当たり前のものが異質で新鮮なものに変わります。一番印象的なのは食べ物のところ。お皿に別々に載っているのは当たり前ですよね。ところが〈おいら〉はそれを見て、どうもおかしいなあと思うわけです。こんな風に書かれています。
ただ変なところといえば、どれもこれも、みんな別々に作ってあった、ってえことだけだ。残飯入れの樽の中じゃあ、そんなことはねぇ。何もかもが、ごっちゃになっているんだ。だから、汁の取りかえっこみてぇなことが、まんべんなく行きわたっていて、味がいちだんと、よくなっているんだ。(10ページ)
思わずげええ、ですよね(笑)。「よくなっているんだ」じゃないですよ、まったく。こうした〈おいら〉のユニークな視点は、他の物事でも発揮されます。たとえば天国と地獄の話をされた時。
天国はハープをもって歩き回って、歌をうたっていればいいなんて、へんなのと思うわけです。そして悪ガキのトム・ソーヤーは天国に行けないと聞いて、喜びます。「だって、トムとおいらとは、いつだっていっしょにいてえと思ったからな」(12ページ)というわけです。
なんだかんだ抵抗しながら学校にも通い、時たまベッドを抜け出して森で寝たりもするものの、普通の子供のような生活をし始める〈おいら〉。ところがある時、足跡を見つけます。十字のしるしが、左のブーツのかかとについている足跡。それを見て〈おいら〉は仰天します。
それは〈おいら〉のろくでもない「おとう」つまり父親の足跡だったんです。「おとう」は飲んだくれのごろつきみたいなやつで、〈おいら〉の穏やかな生活をめちゃくちゃにしようとします。そこで〈おいら〉は知恵を絞って、「おとう」から逃げ出します。
デフォーの『ロビンソン・クルーソー』で、ロビンソン・クルーソーは無人島に行って大分苦労しました。子供だけでなく、普通の人間でも一文なしでやっていくのは大変です。ところが〈おいら〉は元々がそうした風来坊な生活ですから、困ることもなく、普通にナマズを捕まえて食べたりします。
やがて焚き火を見つけます。そこで出会ったのが黒人奴隷のジム。〈おいら〉の面倒を見てくれていた婦人の姉妹の奴隷なんですが、遠くに売り飛ばされることを知って、思わず逃げ出してきたんです。
こうして〈おいら〉とジムは連れ立って、河を筏で下っていくことになります。
〈ホームズ=ワトソンの法則〉というものがあります。いやネーミング自体は今ぼくが勝手に名付けただけなんですけど、いくら名探偵シャーロック・ホームズでも、単体では頭がよく見えないんです。ところがホームズよりは知能の劣るワトソンを横におくと、ホームズの頭がすごくよく見えるんです。「ええ? どういうことだい、ホームズ?」「いいかいワトソン君、つまりだね・・・」「ええ? なんだって?」みたいな感じです。
『トム・ソーヤーの冒険』では頭の回転の早いトム・ソーヤーの隣にいたハックルベリ・フィンはとんだかませ犬というか、なにも知らない少年の代表でした。頭が悪く見える。
その一方で『ハックルベリ・フィンの冒頭』では、黒人奴隷のジムはハックルベリ・フィン以上になにもできないし、すごく純粋なんです。様々なジンクスを信じていたりもします。そんなジムと比べると、まるでハックルベリ・フィンがすごく頭がいいように見えます。これこそまさに〈ホームズ=ワトソンの法則〉です。
〈おいら〉とジムは旅の途中で、様々な人物、出来事に遭遇します。〈おいら〉が女装してある家に行くんですが、鋭い観察力で見抜かれてしまったり、家と家同士が争っているところに行ったりもします。難破船を見つけたり。
色々なところで、〈おいら〉は嘘をつくんです。自分がどこから来ただれなのかを偽るんです。口のうまい少年とどこかぼんやりした大人という構図は、キプリングの『少年キム』に似た感じもします。
それから、自称王様と自称公爵との出会いがやはり大きいでしょうか。彼らは悪党なので、少女たちを騙してお金を奪おうとするんです。果たして〈おいら〉はどうするのか。
そしてある時、〈おいら〉は大きなジレンマにぶち当たります。自分の良心に従えば、地獄に落ちることになる。しかし宗教的に正しい道を行こうとすると、自分の良心はずきずき痛みます。迷いの末に〈おいら〉が選んだのは果たしてどちらの道だったのか?
〈自由〉を求めて旅をしてきた〈おいら〉とジムの運命はいかに!?
とまあそんなお話です。〈おいら〉とジムが筏で河をくだりながら、いくつかの短編的挿話が入ってくる感じです。河を下り、途中で出来事が起こり、また河を下り、出来事が起こり、また河を下り・・・という流れ。
トム・ソーヤーも登場するんですが、そこは好きでしたねえ。トム・ソーヤーが登場することによって、物語の構造というか、テーマ的にぶれるところはあるんですが、それでも面白いです。なにが面白いかというと、ここはストーリー的なものには触れたくないのでふわっと扱っておきますけども、現実的なことに対応しているんではないんです。
物語の本の通りにやろうとするんです。現実的なことを考えたら、そうした行動は無駄でしかないのに、物語の本にはそう書かれているから、という理由で無駄なことをやる。この辺りは逆だよ逆! と思って笑いました。現実的に考えたらすぐ済む話なのに。あと名前を偽るのも面白いですねえ。
この物語はまとめるとですね、「良心」この一言に尽きます。ぼくらは正しいことと分かっていても、なかなかそれを行動には移せませんよね。大人になればなるほど、他人に対してだけではなく、自分に対しても言い訳をして、自分自身すら無理やり納得させてしまう。
迷いながらも自分の良心に問いかけるハックルベリ・フィン。人を疑うことを知らないジム。まっすぐ行動する2人の姿は、時にはおろかに見えるくらい、純粋です。ところがだからこそぼくらの心を打つんです。トムにあることが起こった時、ジムが言ったあのセリフ。すごくぐっときます。
単なる児童文学ではなく、少年の成長とジレンマと、〈自由〉を求める冒険が描かれた小説です。ずっと〈おいら〉の視点で物語が書かれていきますし、起こる出来事はある程度くりかえしなので、じっくり読んでいくと読みやすい小説です。ただ600ページくらいあるので、想像よりはボリュームがあるかと思います。
機会があったらぜひ読んでみてください。とってもユニークな少年、〈おいら〉が活躍する物語です。