「今さえよければいい、自分さえよければいい」
昨今よく叫ばれるこの言葉は、
残念なことに現代の日本の社会を
的確に表現し、象徴となっているように思います。
その視野の狭さ、刹那的心情は
どこからきているのでしょうか。
源流を手繰ると、「自由」と「民主主義」を
最高の価値と仰ぐ現代社会の思想的限界、
という実情に行きつくのではないかと思います。
そしてその背景には「自由、平等、博愛」という
欧米由来の価値観があります。
ある思想家の話で「自由、平等、博愛」を
最高の価値とする現代の思想には欠陥がある。
日本は、日本が古来より大切にしてきた伝統を活かし、
「活力、公正、節度」を原則とした社会を目指すべきだ、
という考えを知りました。
確かに本来「活力、公正、節度」を目的とした
「自由、平等、博愛」であるべきはずが、
それ自体が目的となってしまっているところに
あらゆる混乱や、弊害を起こす原因があるように思えます。
目指すべきは「活力、公正、節度」。
「自由、平等、博愛」は
その達成の手段であり、
しかもその手段には欠陥がある。
とすると、その手段にとって変わるものは何か、
という疑問が残りました。
「一隅を照らす」
この言葉に出会い、答えはここある、と思いました。
この言葉は『小さな人生論』という本の
始めの章にも載せられています。
「賢は賢なりに、愚は愚なりに、
一つのことを何十年と継続していけば、
必ずものになるものだ。
別に偉い人になる必要はないではないか。
社会のどこにあっても、その立場立場において
なくてはならぬ人になる。
その仕事を通じて世のため人のために貢献する。
そういう生き方を考えなければならない」(安岡正篤)
「国も社会も会社も自分の外側にあるもの、
向こう側にあるもの、と人はともすれば考えがちである。
だが、そうではない。そこに所属する
一人ひとりの意識が国の品格を決め、
社会の雰囲気を決め、社風を決定する。
一人ひとりが国であり社会であり会社なのである」(藤尾秀昭)
国も、社会も、会社も、家も、
全ては自分の内側、こちら側にあるもの。
目の前に課せられている自分の為すべき事を、
国のため、社会のため、会社のため、家のため、
全ての繁栄に向け、思いを込めて尽くすことができたら、
これほど幸せなことはない、ということに気付きました。
そしてそういう人が増えたとき、
家も、会社も、社会も、国も、
本当の意味での豊かさを得て、
繁栄していくものだと思いました。
今、そのときの気付きが一つの契機となり、
ここで社会の繁栄を目指す
貴い仕事に就かせて頂いております。
二度とない人生を、微力ではありますが自分なりに、
社会を少しでも支えていけるよう
一歩一歩努めていきたいと思います。