一昨日、こちらの記事を書きました。

 

 

もしかしたらスコトーマが外れた方いらっしゃるかも知れませんし、モヤモヤした人もいるかもしれません。

その心の反応すらも認めるのが自己受容です。

私はもう、前回の記事で答えを言っているようなものだと思っています。

「まず周りの人や環境が変わってくれればいい。そうすれば私も変わる一歩を踏み出せる」そんな思いで受けてきたヒーリングは全て効果がないばかりか、かえって悪化しました。

ヒーリングにつぎ込んだお金があれば、退職したのち開業に対する資金にまわすこともでき大きなゆとりができました。こんなんだったら、全てを敵に回してでもさっさと会社を辞めれば良かったんです。変わるべきは私でした。

でもそのときは承認欲求の塊、依存心の塊だったからそんな勇気は踏み出せませんでした。胃を痛め、通勤時に嘔吐してしまう程精神的に追い詰められるまで考えを改めることはしなかったのです。本当にもっと早く決断しとけばよかったなとすら思います。

 

ちょっと良いことを教えます。

自己受容するとき、何度も同じ思考が湧き起こってくるときがあるかもしれません。

私は実に「将来に対する不安がある」「お金を失うのが怖い」このような思考の受容を何百回やったかわかりませんが、同じ思考が何度も出てきた時は「どうしてそう思うのか?」と疑問を投げかけてみてください。その答えが出て来たらそれを書き留め、更に「どうしてそう思うのか?」と疑問を投げかけてみてください。

それをずーっと繰り返すのです。

いかに思い込みやマイルールに囚われているか知ることになるでしょう。

そうしていくうちに、自分は本当はどうしたいのか見えてくるかもしれませんね。

 

 

タイムリーな動画がありますので紹介します。

今回はデカルトの話です。

 

 

この動画を見て是非スコトーマを外してください。

※恋人の例は、もちろん世間で認知されている恋愛ではなく、正しい男女のパートナーシップに置き換えるようにしてください。

水槽の中の脳はまさに潜在意識ですね。

デカルトは以前にもブログで書きました。

 

 

しかし、その時の私以上に今の私は抽象度が高くなっているのでアップデートしようと思います。

デカルトは、 適菜収さん訳『キリスト教は邪教です!』では良くは書かれていませんね。

 

 

でもこれだけでこういう奴だ!と決めつけてしまうのはちょっと違うと思いますね。

この本はあくまでも、キリスト教のヤバさを知る入門書にすぎず、それでわかった気になるのはどうかと思います。適菜さんの主観が入り、やや癖が強くも感じます。

ルネサンスのところで、「当時のローマではキリスト教という病気は克服されていました」という記述がありますが、ぜんっぜん克服されていませんよ。

ルネサンス期、特に1492年以降多くの人文学者がカトリック教会の手の者に暗殺されています。

私は、『哲学と宗教全史』『キリスト教というカルト:信者になれない、これだけの理由』『「最強!」のニーチェ入門』を先に読んでからそちらの本を読んだため余計にそう感じるのだと思います。知れば知るほど埃が出てくるのがキリスト教です。

やはり多読は必要です。まだ勉強してます。

宗教は歴史、陰謀論絡めてコンプリートしたいくらいです。

 

デカルトは、もちろん完璧ではありません。

しかし、評価すべきこともたくさんあります。

数学、科学、医学にも貢献しています。

ハエが飛んでいるのを見て座標を思いついた話は有名です。

デカルトについては斜め上の視点から解釈しないと見えてこない部分があります。

この人は神を疑い、物質と霊魂以外の全てのものを否定しています。

でも結局神の存在証明をしました。矛盾しますね。何故これをしてしまったか。

GabalaboCHさんは、以前にデカルトの動画をもう一つ配信していました(削除してしまったようです)が、おそらくは辻褄合わせだろうという見解でした。

私もそう思っています。

デカルトの時代は、まだまだ異端審問の厳しい時代でした。

異端審問官がローマ教皇の手足となり目を光らせているんですよね。

正しい歴史が展開されれば神の存在証明なんてしなかったかも…。

同時代のガリレオ・ガリレイが宗教裁判にかけられたときは、当時の科学者や哲学者を震え上がらせたそうです。デカルトもその一人で、完成した『世界論』の原稿の出版を取りやめてしまいました。

 

もし、デカルトが神の存在証明をしなかった場合、デカルトは火炙りになり、彼の著作は全て焚書されていたでしょう。神に抗い、その存在を消されてしまった科学者や哲学者は実際たくさんいたのかもしれません。消されてしまえば真相は永久に闇の中です。

 

 

だからこそ、ぼかしたような表現になるのかもしれません。

そこを上手く読み解くことも必要ですね。

 

デカルトはカトリック教徒であることを自称していますし、イエズス会ラ・フレーシュ学院出身でもあります。しかしながら、本当に敬虔なカトリック教徒だったのかというとそうでもないと思われます。

それは、意識と行動の矛盾を見ればわかりやすいんですけど、1628年以降デカルトはオランダに移り住み、生涯をほぼオランダで暮らします。

当時のオランダはスペインから独立し、この地はプロテスタントカルヴァン派が多数を占める国でもあるわけです。プロテスタントは、元カトリックから改宗の経緯があるからか、商業面の寛容性はややあるものの二元論は強いです。

そんなところにカトリック教徒がいて、大丈夫なのかどうか…です。

実際、カルヴァン派の神学者がデカルトを無神論者だと批判しています。

 

また、1649年9月からデカルトはクリスティナ女王の希望で、スウェーデンを訪れます。

 

そういえば、クリスティナ女王も世界史の教科書に出てきませんね…。

1632年即位しています。

 

 

むしろ父親のグスタフ・アドルフの方が有名で影が薄くなってしまいましたね。

 

 

教科書選定に男尊女卑の影響があるのだろうか…。

クリスティナ女王は王子のように教育されて育ちます。

手芸や人形遊びのような女子の遊びを好まず、乗馬や射撃を得意としていたし、即位後はずっと男装していて、肖像画のドレスは宮廷目線の女としての理想の姿として描かれたのだとか。もっと注目されてもいい人物です。

そして、スウェーデンはプロテスタントルター派の国です。

こういうところにカトリック教徒が行くのは危険だと思います。実質命がけになってしまいます。信仰心は建前上だけだったのかもしれません。

イエズス会の神父からも批判されているくらいなのですよ。

 

デカルトは、1650年にスウェーデンで客死…肺炎をこじらせて死去となっていますが、その真実は、スウェーデンのフランス大使館付きのカトリック宮廷司祭による暗殺です。ヒ素で殺されたそうです。

 

副島隆彦さん、ベンジャミン・フルフォードさん著『世界人類を支配する悪魔の正体』P270、副島さんの記述にそのことが書かれていました。

 

 

また、驚くべきことが明らかになります。

デカルトは、ボヘミア王女エリザベト(イギリス王ジェームズ1世の孫)と1643年から文通をはじめます。

 

 

この文通は59通にのぼり、デカルトが亡くなるまで続けられます。

エリザベトにとっての最大の関心事は、「幸福に生きる」ことでした。

デカルトは、エリザベトと書簡を交わしながら、哲学者として、医者として、エリザベトを支援します。 ここで展開されるデカルトの幸福観は、大変興味深いものです。

デカルトが勧めたことは、過酷な状況の中にあっても「理性を情念の主人とし」、 「自らにおいて満足を得ること」です。 そして、自らの徳によって魂を満足状態にするための方法を古代の哲学書を読むと良いということで、 具体的には、セネカの書いた『幸福な人生について』を読み、 幸福になるための方法を学ぶことを提案します。

過去記事でも説明しましたが、セネカはストア派哲学の代表的な哲学者です。

 

 

 

デカルトは、セネカの幸福観の説明や批判を通して、エリザベトの反論を受けながら、 独自の幸福論を展開していくことになります。

 

デカルトはまず、『幸福な人生について』の最初の文章、「人間はみな幸せに生きたいと思っているが、 何が人生を幸せにするかということが問題になると曖昧になってしまう」を取り上げています。 デカルトは、この文言をラテン語のままで引用し、それをフランス語に訳す際の問題点を指摘します。

セネカの著作はラテン語で書かれています。

しかし、 幸福に生きる 《vivere beate 》とは何かを知る必要があります。 フランス語では 「幸運に生きること (vivre heureusement)」 と言うことができましょう。 しかし、 幸運 (heur)と至福 (béatitude) との間には違いがあります。 幸運は、我々の外側にあるものにのみ依存するもので、幸運にめぐり合った人たちは、彼らが獲得したのではない何らかの善に行き当たったのだから、賢明であるというよりも幸運だと見なされます。それに対し、 至福というものは、 精神の完全な満足と内的充足にあるように思われます。 それは普通、 運命 (fortune)に非常に恵まれている人たちは持っておらず、賢者たちは運命なくして獲得するものなのです。 こうして、《 vivere beate 》「至福のうちに生きる」とは、完全に満足し充足した精神を持つことにほかなりません。

デカルトは、 「幸福」 について「幸運」と「至福」を分けて考えを巡らせました。 この二つはその内容はまったく異なるものです。 デカルトは、ラテン語のbeateに対応するフランス語としてまず、heureusementを挙げますが、その翻訳が果たして適切なのかを見ています。
幸運にheureusementという語の本質は幸運heurですが、幸運とは人間の外側にあり、人間の力の及ばないもので、そのおかげで利益を得る場合のことです。 しかし、セネカのvivere beateという語の意味は、運のよい人生を送ることではなく、思い通りにならないことを受け入れて善を獲得し、「至福 béatitude」の状態で生きることです。デカルトは、セネカの 「幸福に生きる vivere beate」 を、「至福のうちに生きる vivre en béatitude 」 とフランス語に訳します。

その上で、至福を 「精神の完全な満足と内的充足」 であると定義しました。 

真の幸福は、人間の内での精神の充足(心の平安)なのだと導き出したのです。

幸せは心の内から湧き起こると。

 

外側の思い通りにならないこと、内側の思い通りにできる自分の意識と分ける考え方は既にストア派のエピクテトスという哲学者が打ち出していますが、言葉のニュアンス次第で翻訳の際に全然意味の違う解釈になる可能性もある中で、デカルトは本当の幸福が何かを発見できましたね。

常に疑い、何故そうなるのかを冷静に考えることを習慣にしてきたからこその結果ですね。

 

このようなケースもあります。

キリスト教徒だから即ダメとしてしまうとスコトーマになる場合があります。

有益と毒の情報が混在する中で取捨選択し有益なものを取り出す作業も時には必要になります。本の著者も完璧ではありませんので、これから読書をしていくにあたって取捨選択は必須の能力ともなります。

これも自分の頭で考え行動する力です。

その実践の積み重ねで抽象度が上がり、IQも上がっていきます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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