どうも、こんにちは。

 

私たちの生活には、膨大な洗脳がはびこっています。

誰もが当たり前だと思っていることが正しいとは限りません。

まずは、あらゆる物事に「?」をつけていただきたいと思います。

 

 

これを実際に行った人物が、一人いました。

その人の名はルネ・デカルト。17世紀のフランスの哲学者です。

彼は数学者でもあるので、数学に詳しい人は知っている人もいるかと思います。

 

 

デカルトの時代、当時の学問の主流はスコラ学というものでした。
キリスト教の神学者が神学をすべての学問の上位におくことを確立させました。
つまり、当時の物理や自然科学、数学などのあらゆる学問がキリスト教とセットになっていたのでした。これがスコラ学です。
世界の中心は神、神がいるからすべてのものは存在するという神ありきが大前提でした。ガリレオの地動説が異端とされ宗教裁判にかけられたのも、このスコラ学つまりキリスト教のせいです。

 


 

もしキリスト教が存在していなかったら科学技術はもっと発展していたのは確実です。


デカルトはスコラ学を否定しました。
スコラ学は神の存在証明自体があやふやで「疑わしい」ものだったからです。
彼は、神を中心とする世界に代わる新しい真理が支配する世界をつくることを目指しました。そこで、ものごとを徹底的に疑って、もし疑いきれないものが残れば、それこそが不動の基準だとしました。
人間の感覚や知性の存在をはじめとして、すべてのことを疑いの網にかけました。
もちろん神も疑いました。


 

こうして疑っていくと、世界に確実な存在は何もない。
ところが全てを疑っている自分だけは確実に存在している。
それがあの名言「我思う、ゆえに我あり」です。
これだけが絶対的な真理だとデカルトは言い切りました。
しかし、考えることをやめてしまったら自分の存在証明としては不完全です。
なぜ「私」は不完全なのか?
ここから「神の存在証明」に取りかかります。

「不完全」があるのは「完全」があるから
「偶然」があるのは「必然」があるから

完全なものの観念は、完全なものにしかわかりません。
では、なぜ不完全な存在である「私」が、完全な存在を知っているのか?

「完全な存在」とは?
無限・永遠・普遍・必然・全知・全能…つまりそれを表現できるものを「神」としました

不完全な私は、完全なる存在のおかげで存在している、故に神は存在すると結論づけました。


おわかりだと思いますが、デカルトはやらかしてしまいました。
結局「神」です。何と言いますか、神を存在しないと結論付けることだけは避けたかったのかなと思いました。だから無理矢理こじつけたような。
神を疑うのは良い試みだったのですが、やはり根はキリスト教徒なので神を否定するのが御法度だと無意識に焼き付いていたのだと思われます。
異端審問にかけられるのを怖れていた可能性も考えられます。
せっかく良いところまでいっていたのに、キリスト教の毒だけは抜くことはできませんでした。
 

ただ、デカルトは真理を探究するために次のような規則と格率を定めました。

 

【4つの規則】
明証性の規則

疑う余地のない確実なことだけを認める以外は、どんなことも正しいものとして受け入れない。
分析の規則

難問の一つ一つを、よりよく解くために小さなものに分類していくこと。
総合の規則

簡単なことから難しいことを積み重ね、順序にしたがって導くこと。
枚挙の規則

じっくりと全体にわたる見直しをして、見落としがないかと確認すること。

【3つの格率】
1.国の法律と習慣に従い、神の恩寵により幼児から教えこまれた宗教をしっかりと持ち続け、良識ある人々の意見を聞くこと。
2.現状でいちばん正しいと判断したことを貫く。森のなかで迷った時に、あれこれ悩んでいても飢え死にするだけ。ひたすらまっすぐ進めば、いつかは森から抜けだせる。
3.持って生まれた才能や境遇などは変えられない。自分の力ではどうすることもできない状況を嘆く暇があるなら、自分ができることに注力すること。

 

ここに、宗教を入れてしまったのは間違いですが、それ以外の項目は上手く展開していけば自己受容に通じる可能性を秘めておりました。

 

ヨーロッパでのキリスト教批判はニーチェが登場する200年後まで先延ばしとなりました。
もし、デカルトが神は存在しないインチキだと結論付けていたのなら、もし自己受容の在り方を確立できていたとしたら、ヨーロッパの未来は確実に変わっていただろうなと思います。