今年のツール・ド・フランスもいよいよ佳境に入って来ました。
というわけで、今回は、フランスの自転車競技雑誌 ミロワール・デュ・シクリスムの誌面をたどって、今からちょうど40年前、1983年のツール・ド・フランスにタイムトリップしてみたいと思います。
1983年という年は、フランスのスーパースター、ベルナール・イノーの絶頂期でしたが、史上最多に並ぶ5度目のツール優勝を期待されていたイノーが故障のためにツール欠場を発表。本命不在の中、イノーの代役として出場した同じルノー・エルフ・ジタンチームの無名の新人ローラン・フィニョンが初出場で初優勝を遂げるという波乱の展開となりました。
この年のツール出場チームは14チーム。
なつかしいジャージが並んでいますね。当時はフランスのチームが多く、イタリアのチームはジロ・デ・イタリアの方を重視して、ほとんどツールには出ないという風潮がありました。
序盤戦の台風の目となったのは、エリック・ファンデラールデンです。ベルギー出身で弱冠21歳の新人は、プロローグと第1ステージの二日間、マイヨジョーヌを着ました。翌年、彼はパナソニックチームに移籍し、86年にマイヨヴェールを獲得、その後もパリ・ルーベなどに優勝する名選手となります。
第3ステージから第8ステージまでマイヨジョーヌを守ったのが、クープ・メルシェチームのキム・アンデルセンです。彼は史上初めてデンマーク人としてマイヨジョーヌを着た選手となりました。96年総合優勝のビヤルヌ・リース、そして今日のヴィンゲゴーにつながるデンマーク人選手の系譜はここから始まるわけですね。
史上初という意味では、画期的だったのが南米コロンビアチームの初参加です。ツールのグローバル化を目指す主催者の意図で出場が決まり、エースのパトロシニオ・ヒメネス選手は得意の山岳ステージで活躍を見せました。
この翌年には、山岳王ルイス・エレラが参戦し、80年代半ばの山岳シーンをコロンビア人がリードすることになります。
今日では、山岳ステージでのコロンビア勢の活躍は当たり前になっていますが、そのルーツは40年前のこの年にあります。
オーストラリアのフィル・アンダーソン、アメリカのグレッグ・レモン、そしてコロンビアのエレラなど、新大陸出身の選手がツールで活躍するようになったのが、80年代の大きなムーブメントです。
さて、珍しく、選手の食事内容が紹介されていました。
朝食は、目玉焼きとパン、チーズ、ジャム、シリアルにコーヒーというメニューです。
レース中の食事は、パンにジャム、タルトやパイなどのスイーツ、フルーツ、チューブ入りのペーストなどですが、フルーツが意外に豊富ですね。おそらくジュースにするのでしょう。
夕食は、サラダ、魚、ステーキ、パスタです。
最近ではスポーツ栄養学の研究が進み、各種のエナジーバーやスポーツドリンクなども開発されているので、この時代とはかなり違っていると思われます。
さて、この年のツールは全長3860Kmのコースでしたが、特に後半の第10ステージから第19ステージまでは、ピレネー、中央山塊、アルプスの山岳コースが続くという厳しいコース設定になっていて、ここでドラマが生まれることになります。
ピレネーの山岳ステージで頭角を表したのが、スコットランド出身のクライマー、ロバート・ミラーです。ツール初出場だったこの年は惜しくも山岳賞を逃しましたが、翌年、見事にリベンジして山岳賞を獲得。その後、ジロでも山岳賞を獲るなど、80年代半ばから後半の山岳シーンで大活躍しました。
この年のツールのハイライトは、落車で肩甲骨を骨折しながら、激痛に耐えて第10ステージから第16ステージまでマイヨジョーヌを守り続けたパスカル・シモンの健闘でした。彼の健闘はフランス中の感動を呼び、ツール史上に残る名シーンとなりました。
マイヨジョーヌのシモンとマイヨブランのフィニョンの勇姿が、今年のヴィンゲゴーとポガチャルを彷彿とさせますね。
アルプスのラルプデュエに登る第17ステージで、二人の選手がリタイアしました。1980年総合優勝のレジェンド、ヨープ・ズートメルクと、マイヨジョーヌのパスカル・シモンです。厳しい山岳ステージで7日間マイヨジョーヌを守り続けたシモンも、ラルプデュエの登りを前に、ついに力尽きました。
第17ステージで、ついにフィニョンが総合トップに躍り出ます。
彼はパリのゴールまでマイヨジョーヌを守り抜きました。
山岳賞は、第19ステージのモルジーヌの登りを制したベテランのルシアン・ファン・インプが獲得。彼はツール史上屈指のクライマーで、76年には総合優勝もしているレジェンドです。通算6回の山岳賞獲得は、リシャール・ヴィランクの7回に次ぐ第2位の記録です。
一度もステージ優勝しないまま総合優勝するのか?という声も聞こえた中、フィニョンは第21ステージの個人タイムトライアルで優勝し、マイヨジョーヌを着るに相応しい実力を示しました。
この年、フィニョンの乗っていたジタンの自転車は、ストロングライトにサンプレというフランス製コンポにブレーキはモドロという仕様でした。これはフランス車連が『フランスのチームはカンパ使用禁止』という命令を出したためで、カンパニョーロ全盛の時代らしいエピソードです。
サンプレにとってはこれが最後のツール優勝となり、その後フランスのパーツメーカーは衰退の一途をたどります。
総合優勝したフィニョンは、翌年にも連覇を達成し、この年の優勝がフロックではないことを証明しました。
ちなみに、この年のポイント賞はアイルランドのスプリンター、ショーン・ケリーで、ケリーはこの後、通算で3回マイヨヴェールを獲得することになります。
いかがでしたか?
1983年の出来事については、これまでも何度か取り上げていますが、今から振り返ると、80年代後半のポスト・イノー時代に向けた動きが静かに始まった年であり、今日のツールに脈々とつながる潮流のルーツがある年でもあると思います。