サンプレが最後にカンパに勝った日 | CICLI LA BELLEZZAのブログ

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愛するヴィンテージ自転車たちとの生活

先日、1983年のレースシーンを集めた写真集を買いました。

これには理由があって、私はこの年にちょっと特別な興味を持っているのです。

1983年と言えば、フランスのスーパースター、ベルナール・イノーの全盛期です。この年、ツール5勝目を目指していたイノーは故障のためツールを欠場し、同じルノー・エルフ・ジタンチームのフィニョンが初優勝を飾りました。ただ、私の興味はその点ではなく、この時イノーやフィニョンが乗っていたジタンの自転車にあります。

 

ルノー・エルフ・ジタンチームのイノー(右)とフィニョン。

<l'annee du cyclisme 1983>

 

この年のシーズン前、フランス車連が『フランスのチームは、フランス製のパーツを使わなければならない。』という強権発動的な通達を出したため、この時のジタンもカンパのコンポではなく、サンプレとストロングライト、マイヨールといったフランス製パーツで組まれていたのです。もっともハンドルはチネリ、ブレーキはモドロというようにイタリア製パーツも部分的に使われていたので、要は『カンパを使うな。』ということなのでしょう。これはルノー・エルフ・ジタンだけでなく、他のフランスチームのマシンも同じ状況でした。

 

当時のレース界はカンパニョーロが絶対的な勢力を誇っていた時代で、『カンパにあらずんばプロレーサーにあらず。』といった雰囲気すらあり、フランス製パーツは圧倒されつつある状況でした。また、ビジネス面ではもっと深刻で、日本のシマノが一般車用パーツの分野でフランス勢を駆逐し、フランスの自転車パーツ産業全体が衰退しつつあった時代でもあります。

そんな危機感から、フランスパーツメーカーを救済するための強権発動となったのだと思いますが、当時このニュースを聞いた私は、『無茶なことをするなぁ。』と思い、正直、嫌々ながらサンプレを使わざるを得ないイノーに同情したものです。

 

ところが、嫌々だったかどうかはわかりませんが、結果的にはサンプレを使ったフィニョンがツール優勝、イノーがヴエルタ優勝、レモンが世界選手権優勝など、この年、ルノー・エルフ・ジタンチームは華々しい成績を残すことになります。この事実から、私は二つのことを学びました。ひとつは『今でもサンプレは世界のトップレベルで通用するんだ。』ということ、もうひとつは『強い選手は何を使っても勝てるんだ。』ということです。まさに『弘法筆を選ばず。』ですね。

 

さて、フィニョンは翌84年にもツールに優勝し、二連覇を果たしましたが、その時のジタンのレーサーには、元通りカンパのスーパーレコードが付いていました。いろいろ政治的な動きがあったのだろうと思いますが、こうしてフレンチ・パーツのジタンは1シーズン限りで消えてしまい、その後サンプレがツールを制覇することはありませんでした。この頃から、サンプレックス、ストロングライト、マイヨール、マファックの4社はSPIDELという統合ブランドでレーサー用コンポを販売していきますが、もはや時代の趨勢にはついていけず、やがて消滅していくことになります。

 

そういった意味で、1983年は、フランス製自転車パーツが最後の一花を咲かせた年ということになるでしょう。

私が買った写真集は、『サンプレが最後にカンパに勝った日』の貴重な記録なのです。