ありのままを…
長男の子育てを軸に以前書いた記事を基に私について書き直してみました良かったらお付き合いください私は一人で本を読んでる時が一番好きな子供でした3歳の時に自宅階段の最上段から転落幸いにも右手を複雑骨折しただけですみましたが母はそのことを自分の責任のように思い私に対して懺悔のような気持ちもあったようで躾はきちんとされながらもとても大事に育ててくれたように思いますただそのせいか私は母さえ居れば友達は必要無い感覚があり小学校高学年まで友達と呼べる存在が居ませんでした人一倍敏感で人見知り、口下手、引っ込み思案自分のテリトリーに土足で侵入されるのがとにかく苦手外からの勝手な何らかの縛りが苦痛大勢でいるのがとてもしんどいだからいつも環境が変わる度に友人関係で悩み仲良くなった人がいつのまにか離れていくという経験を何度もして「私はつまらない人間なんだ」という劣等感に苛まれずっと自分に自信を持てないままでしたそんな私がいきなり京都の女子大に進学何故そうできたのか?今の自分には不思議ですがおかげで一人で行動することに慣れていきました正直なところ母親への依存から距離を取ったことで精神的な自立ができたようには思えますそして大学では社会科の教員免許を取得するも愛媛に戻り一般企業に就職しました約3年後に結婚翌年、重複障害(トリチャーコリンズ症候群、耳介奇形、難聴、軽度知的障害、自閉症、斜視、期外収縮)を背負った長男を37時間の難産の末出産しました愕然としたという言葉しかなく私は更に自信を失いました「健常な子供を産めなかった」何故自分だけがこんな運命に晒されてしまうのか?子供の行く末よりも自分自身を哀れむ気持ちが大きく夜になると不安で呼吸が苦しくなりきっと少なからずパニックを起こしていたのだと思いますしかし先の見えない試行錯誤の日々は始まっていました長男が生まれた当時今のような公的なサポートはほとんど無く親が情報を集め必要だと思える施設を探し訪ねていくことの繰り返しでした重複障害でしたのでそれは県内だけでなく香川、岡山と広範囲に及びとにかくそこで得られる知識を毎日の長男との生活に生かしていくことで少しでも健常な子供に近づけたらという願いが一番にあったと思いますその時はっきりわかっていたのは聴覚障害と耳の奇形だけでしたからその分の遅れを取り返せば追いつけるだろうと知らず知らずの内に同年代の子と比較しながら行く末を案じている私がいましたしかし小学校入学後の長男の不適応行動は目に余るものがありどうみても聴覚障害だけの問題ではなくかなり深刻なコミュニケーション障害を有している可能性を否定できなくなっていきました…小学1年生の長男は集団登校ができない授業中教室から居なくなるクラスメイトとの問題が絶えない全校集会で騒ぎ出す書き出せばキリがないくらいの長男の不適応行動そんな長男に対する担任教師の言葉「授業中静かに本を読んでいてくれたら問題ないです。それにHくんの席の周りにはHくんの妙な行動にのってこない賢い子達を揃えましたから」「もうこの事でこんなに時間を取ってお話することはありません」絶句‼️確かに我が子は問題児です沢山の人に迷惑をかけていますでも授業中本を読んでいることが解決策になるのか?賢い子って、何?教師と生徒の間に信頼関係が皆無であると平然と出てしまう言葉あまりに痛い…私はすぐに校長室に向かい長男のコミュニケーション障害に向き合う決意と担任教師の長男への関わり方についての判断をあおぎたいとの意思を伝えましたその後障害について判定してもらう為松山の施設へ数回に分け詳しい検査に通いその結果は愛媛大学教育学部の先生がわざわざ手書きのお手紙で長男の担任に宛て「今後こういう子供に対してはどういった対応をすればいいか」を丁寧に伝えていただきましたこの時の手紙のコピーは今でも大切にとってあります正直この時になって初めて長男に聴覚障害からきている発達の遅れ以外のものがあることに気づいたと言えば嘘になります知的な遅れコミュニケーション面での難しさ親としてわかってはいました視線が合わない何度説明しても叱っても同じ過ちを繰り返す大事な事が積み上がっていかないのですそして極度な興味の対象範囲の狭さもしかしたら?でも認めたくなかった聴覚障害のせいだと思いたかったのが正直な気持ちですただその我が子のありのままを受け入れられない私の精神的な弱さが発達の遅れを助長してしまい早期の療育を受けさせられなかったことで様々な弊害を引き起こしている要因になっているとしたら…それが怖くてたまりませんでした次回に続きます