先日芳澤ガーデンギャラリーで素朴派の作品展 を見てきましたけれど、
その中で素朴派の多くが世に出る契機を作ったのが

画商のヴィルヘルム・ウーデだと紹介されていました。


そのヴィルヘルム・ウーデとパントル・ナイーフの一人との交流を描いた

映画があるとたまたま知って、早速ですが見てみることにしたのですね。
日本では一昨年に公開されたフランス映画「セラフィーヌの庭」であります。


セラフィーヌの庭 [DVD]/ヨランド・モロー


そもそもヴィルヘルム・ウーデが扱われたというより、主人公はセラフィーヌ・ルイの方。
と言っても、浅学なものでセラフィーヌ・ルイを知らず、作品も見たことがなかったのですが…。


物語は1914年、パリの北郊シャンティイから程近いサンリスの町から始まります。
セラフィーヌは大きな邸に通いの家政婦として何とか生計を立てている様子で、
アパートの家賃は滞納気味、身繕いもなんとかかんとか整えるのが精一杯といった暮らしぶり。


そんな彼女の生きる支えは絵を描くこと。
全く技術も経験も持ち合わせないながら、信心深い彼女は守護天使のお告げがあったと
次々と花や果実の絵を描いていくのですね。


とはいえ、絵を描くにも材料代が必要だったりするところでしょうけれど、
彼女の場合は自然からの恵まれたもの、例えば草木や土などが主な材料で、
ときには食事の準備でレバーの血抜きをすればその血をストックしておいて「赤」に使う…といった具合。


どうにも作れない「白」だけは町の画商から買っていますが、
キャンバスは使わず板切れのようなものに描いていくわけです。


そんなセラフィーヌはある時、お邸に新しい間借り人としてやってきた
画商ヴィルヘルム・ウーデと出会います。


お邸の女主人の回りに美術通として集まる人々はアンデパンダンテン展をせせら笑うふうで、
20世紀に入ってもどうやらアカデミスムべったりでどうも似非のご様子。
セラフィーヌはそんな女主人に強いられて自分の作品を持ってきますが、
個性の強いその絵には好奇の目を向けるだけでありました。


しかし、ウーデはここで画家を発見したことを悟るのですね。
最初は戸惑うセラフィーヌに言い含めて、もっと絵を描くことを促すウーデ。


やがてはパリで個展をと夢を語らう二人でしたが、
時は第一次世界大戦下、偲び寄るドイツ軍の足音にいちばん敏感に反応したのはウーデその人。
ドイツ人である彼は軍に見つかると脱走者扱いされてしまうとサンリスから逃れるのでした。


やがて終戦。
シャンティイの街に戻ってきたウーデは、サンリスで絵を描き続けていたセラフィーヌと再会します。
一段と腕を上げたセラフィーヌから作品を見せられ、今度こそと画材の資金提供を約して
ウーデはセラフィーヌへの援助を始め、個展開催という夢の実現に向けて歩みだします。
が、またしても世界大恐慌の波が彼らの夢を飲み込もうとしていたのでありました・・・。


野暮になりますので結末は書きませんけれど、
セラフィーヌはどうやらユロージヴィ(聖愚者) の印象を抱かせますね。


画材の資金提供の申し出をお金に不自由しなくなったと思い込んでしまったセラフィーヌの、
まるで子供がもらったお小遣いですぐさまあれもこれも買わずにはいられないといった

無分別な様子で無邪気な様子からも、やはり想像するのはユロージヴィ。


ただそうは言っても、最初のうちはちと人付き合いがうまくなさそうだけれど…といった感が強かったものの、

個展の開催に向けて一心に絵を描き、個展には天使たちを招待してしまったというあたり、

そしてその個展の開催が思うにまかせなくなったことが分かってからというもの、

これは相当に違うところに行ってしまったなぁと。

無垢であるとは思うのですけれど。


ところで、本作の原題は「Séraphine」。

「おや、庭はいずこに?」という感じですけれど、

映画の中でも「セラフィーヌの庭」らしき場所ははっきり出てくるわけでもない。


はて?と思いはしたものの、

考えてみればセラフィーヌはそれこそたっぷりした花の絵をたくさん描いたわけでして、

それらの作品が飾られた(それこそ個展のような)ところは

まさに「セラフィーヌの庭」ともいうべき場所になったのだろうなぁと。

そういう意図で邦題が付けられたのでもないのでしょうけれど…。

雑誌をぱらぱらめくっているときに
「時間」に関する歴史的変遷といったことが書かれたエッセイに行き当たりました。


天文学者の渡部潤一さんという方が書かれたのですけれど、なんとはなしに目を通してみますと、

ご存知の方には何をいまさらながら「知らなかったぁ」ということがあれこれと出てきましたので、

備忘的に記しておこうかと。


まずは何よりも「不定時法」というものですね。
今では「時間」と言いますと、時計が一定のリズムで刻んでいるものを思い浮かべます。
感覚的には「なかなか時間って経たないものね」とか「なんだよ、あっという間だったな」とかいうように
ゆっくりも過ぎれば速くも過ぎるような気はするものの、基本的にはきちんきちんと刻まれて、
1時間、1分、1秒の長さに変化はない(はず?)でありますね。


ところが「不定時法」というのは、ざっくり言うと日の出と日の入りによって昼と夜を分けて、
それぞれの中で単位の数を合わせて分割するものなのだとか。


つまり、1年の中では夏は昼が長く、冬は夜が長くなるわけですが、
長いなら長いなりに、そして短いなら短いなりに分割する母数は同じですので、
実際に夏は昼間の1単位が長く、冬は夜の1単位が長くなるという。


この「不定時法」を日本でも江戸時代までは使っていたそうで、
「秋の夜長」なんつう言葉もそうしたことの名残ですかね。


今は本来的に夏でも秋でも1時間は1時間で何ら変わらないですけど、
不定時法の前提に立てば夏の1時間より秋の1時間の方が

確かに夜が長めになるのですから(と、これは思いつき)。


とまあ、不定時法を使っていたという江戸時代までの「時」でありますが、
まず基本的なところとして子の刻、丑の刻、寅の刻…という具合に

十二支で表してますですね(これは知ってる)。


でもって、1日を24時間とする今の考え方からすれば、単位が半分の12しかないですから、
江戸時代の一刻は2時間相当であって、半刻(はんとき)が1時間ということに。


つうことは、「一刻も早く」とか「一刻を争う」いう言葉がありますけれど、
2時間の余裕はあんまり早いとか争ってる感覚に思えませんが、これは現代人だからこそでしょうか。
さらに夏と冬で一刻の長さが違うという点は、これ以上は触れませんが、

そういう前提でこの先をご覧いただければと…。


1日の始まり、つまり真夜中というのは

子の刻(今の午後11時から午前1時までの2時間)の真ん中に置かれて、
2時間単位で丑の刻、寅の刻…と進んでいきますけれど、
この間見た藁人形 ではありませんが)「丑の刻参り」という言葉があるように

丑の刻は午前1時から午前3時という誰もが寝息やいびきを立てている時間

(コンビニにカラオケボックスもありませんから)。


この深夜の時間帯を指して「草木も眠る丑三つ時」なんつう言い方もありますが、
どうやら一刻を三分割や四分割してひとつ、ふたつ、みっつ…と数える風習があったようで、
この小さな単位はひとつあたり30~40分に相当するわけで、

丑三つ時はだいたい午前2時半とかそんな頃合いなんでしょうね。


まあ、ここまでは分かりやすいんですが、時を告げる鐘のところがいささかややこしいような。
今のように誰も時計を持っているわけではありませんから、
落語「時そば」のように「なんどきだい?」と尋ねるのも至って普通のことでしたでしょうけれど、
町中では時を知らせるかねを鳴らしたのだそうですね。


例えば「暮六つ」と言われるのは夕方酉の刻(午後5時から午後7時の間)の中間点、
今で言う午後6時頃に鐘が6つ鳴るので、こう言われます。


24時間が十二支で表されているので1日12回、

つまり2時間にいっぺん鐘が鳴ると思えばいいのでしょうけれど、
午後6時頃に鐘が6回鳴ることから(安直に)推測すると、

午後4時頃には4回、午後8時頃には8回の鐘が鳴る…と思いませんですかね。


ところが!ところが、です。
午後4時頃に鳴る鐘は7回、午後8時頃には5回の鐘がなったのだそうですよ。


真夜中とお昼が9回の鐘で、2時間ごとに1回ずつ減っていくのだというのですね。

なんでも陰陽道に従った方式で9の倍数を使っているとか。


始まりの真夜中とお昼は9の1倍で9回鳴る、で2時間後には9の2倍で18回、

4時間後には9の3倍で27回…となりますが、鐘を叩く方もたいへんなことになりますし、

聞いてる方もとても数えていられない。


てなことから(?)下ひと桁の分だけ鳴らすようにしたら、あら不思議!
1回ずつ減っていくことに(9の倍数ですから、不思議でも何でもないですが…)。

それにしても、何ともはや面倒なことを考え出したものでありますねえ。


ともあれ、これで時代小説を読んだり、時代劇を見たり(あんまり見ないか…)するときの、
いささかの基礎知識ができました。

先日武蔵野美術大学 で「海のグレート・ジャーニー」展を見て、ハタと思い出したのですね。
海のグレート・ジャーニーはインドネシアから石垣島までの旅でしたけれど、
こうした海の道を逆にたどって、山田長政はタイへ行ったのだなぁと。


もともとこの夏にシドニーに行くにあたって読んだ「オーストラリア物語 」の中では、
日本人で最初にオーストラリアに到達したのは山田長政なのかもしれない…

といった仮説(想像?)に言及した部分があり、
またその後に旅した駿河国の清水港では次郎長親分 の功績のひとつとして

山田長政を顕彰したことに触れたのでして、これだけの示唆があれば、

やっぱり山田長政にあたっておくべきだろうと思っては不思議はないわけです。


戦国の世も終焉を迎え、江戸幕府が中央集権を布き始めた頃、
もはや戦国乱世のようにいかに低い身分でも才覚と度胸で人生を切り拓くことが

もはや叶わなくなったことから故郷の駿河を後にして、長崎、マカオ 、そしてアユタヤと渡り、

実際にひと旗揚げてしまった山田長政。


武士でもないので日本側に資料はなく、かといって日本人傭兵隊長として活躍したアユタヤでも
時代の徒花みたいな存在の長政に関する記録がたくさん残されているわけではなさそうで、
結局は評伝の類いでなく、想像力を逞しくして記録の穴を埋め、物語を作り出すということになるのでしょう。
遠藤周作 の「王国への道」はそうした類いの小説ということになりますね。


王国への道―山田長政 (新潮文庫)/遠藤 周作


ただ、ストーリーとしては非常に遠藤周作らしい設定になっているのでして、
山田長政と同時代人であってかつマカオやアユタヤという場所にいた同時性もあるようなのですが、
どれほど長政と実際の関わりがあったのかは全く定かでないペドロ岐部(ペトロ岐部とも)を

登場させるばかりか、長政の存在と対置させる形で描いているのという。


折りしも切支丹弾圧が激しくなっていた時代にマカオへ送られていったペドロ岐部ですけれど、
隠れて残った仲間たちを励まし信仰の火を消さぬためには、

自分がパードレとなって必ず日本に戻ることを決意しているのですね。


ところがマカオではポルトガル人におよそ相手にされず、インドのゴアに向かうもやはり厄介者扱い。
それでも決意にいささかの揺るぎを見せず、そうであればとインドからペルシャ、
隊商とともに砂漠を越えてエルサレムと旅を続け、やがてはローマ にまで到達してしまうのですよ。


ローマの神学校で勉学に励んだ結果、晴れて司祭となりますと、周囲の反対を押し切って帰国を図り、
ポルトガル の港からでる船団に乗り込んでなんとかマカオに戻るも、鎖国した日本に行く船がない。


アユタヤの中国商人が日本への船を出しているかもしれぬと聞けばアユタヤに赴き、
ここでも埒が明かぬと思えば、いささかの可能性を求めてルソンにも渡る。
そうこうしてどうにか日本に帰って来るのですが、やがて壮絶な拷問にあい殉教を遂げる…。


なんだかペドロ岐部の話ばかりになってしまいましたけれど、
これほどの決意というのは信仰心の故と言ってしまっていいものなんでしょうかね…。


この、現世に何物をも求めず信仰に生き、神の王国へ至る道を歩んだペドロ岐部と、
日本で叶わぬと思えばアユタヤにまで行って現世の富と権力を求め、

自らの王国を作る道を進んだ長政の対置。


これを、長崎からマカオまでの船に二人を同乗させ、

また司祭となった岐部がアユタヤにやってきたところで二人を交錯させて
物語を作り上げたわけですね。


「富も権力もむなしかぞ」と長政に諭す岐部。
信心では食えぬとばかりに煙たがるものの、

強情さの一面において岐部に自分と似たものを感じる長政。
おそらく史実とは異なるところでしょうけれど、うまくできてるなぁと感心するところではあります。


長政が主体の部分で描かれるタイ王室の宮廷での権謀術数は

いやはや何ともどろどろした足の引っ張り合い。
その中を見事に泳ぎ抜けていく長政の才覚が際立つところではあるものの、
ペドロ岐部の「むなしかぞ」が実にしみいるところでもあります。


だからといって、一概に長政がダメで岐部が良い…てな話ではないわけで、
いささかではありまがなんだか「牛肉と馬鈴薯」の話と似た空気を感じないでもないのでありますね。
どちらか一方というわけにもいかず…そんなふうに思うのも普通の人なるが故でありましょうかねえ。

下田にやってきた初代米国総領事タウンゼント・ハリス が牛肉を食べたくて…

という話をこないだ書きましたときに、国木田独歩 の「牛肉と馬鈴薯」を引き合いに出しながら

実は読んだことがなかったことから、やっぱりこれも機会ですからと読んでみたのでありました。


牛肉と馬鈴薯・酒中日記 (新潮文庫 (く-1-2))/国木田 独歩

飲み屋に集まった仲間内で

「牛肉がいいか、馬鈴薯がいいか」と論争する様子を描いた短編ですけれど、
それぞれが現実と理想を比喩的に示したものであるわけですね。


ただ「牛肉が現実、馬鈴薯が理想」ということを前提にして、

「おれは牛肉!私は馬鈴薯!」とやっているのですが、どうもすっと入りにくいような…。


多分に個人的な思いでありましょうけれど、

子供の頃には「牛肉なんて高くてとても食べられない」代物だったものですから、
じゃがいもたっぷりのコロッケは日常食にしても、ステーキにしてもすき焼きにしても何にしても
牛肉を食べるなんてことはまず無かったわけで、このあたりのことが

理想と現実の設定にぴんとこない由縁であろうかと。


そもそもなんだって牛肉が現実で馬鈴薯が理想てな前提を採用したんでしょうかね。
いささか関わるあたりをちと引いてみます。

「例えてみればそんなものなんで、理想に従えば芋ばかし喰ってなきゃアならない。ことによると馬鈴薯も喰えないことになる。諸君は牛肉と馬鈴薯とどっちが可い?」
「牛肉が可いねエ!」と松木は又た眠そうな声で真面目に言った。
「然しビフテキに馬鈴薯は附属物(つきもの)だよ」と頬髭の紳士が得意らしく言った。
「そうですとも!理想は則ち実際の附属物なんだ!馬鈴薯も全きり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじゃア全く閉口する!」

ここでは理想と実際が相対しているわけで、分かりやすく理想と現実を言い換えることにしますけれど、
つまりは「理想(馬鈴薯)は現実(ビフテキ)の付け合せ」だと言ってるわけですね。


理想ばかり云々してもとても食っていけない、

せめて食えても馬鈴薯くらい…というところから理想が馬鈴薯。

一方、理想なんてお構いなしに

現世をちゃらちゃら過ごすことをビフテキに例えて、現実が牛肉。


そして、現実ありきの世の中ながら、

理想も少しは付いててくれないとと「つきもの」論が出てくるのですなぁ。


では、この後に語り手たちは

現実vs.理想、牛肉vs.馬鈴薯の二手に分かれて大論争を始め…ないのですよね。


そこはそれ、飲みながらの話の体裁というが活きてくるところですけれど、
タイトルにもなった「牛肉と馬鈴薯」の話はほんの糸口に過ぎない。
とはいえ、理想と現実の関係だけはしっかり押さえてるといったところでしょうけれど。


飲み話らしく勢いで話がふらふらする様子を見せながら、
実はぶれてないという書き方は独歩の力量なんでしょうけれど、

ではどんな方向に向かっていくのか。


ここら辺は、先ほど理想と現実の例えに個人的違和感を呈したように(?)

捉え方に個人差があるかもですが、この部分はかなりキーだなというあたりをまた引きます。

「僕の知人にこう言った人があります。吾とは何ぞや(What am I?)なんちょう馬鹿な問を発して自ら苦ものがあるが到底知れないことは如何にしても知れるもんでない、とこう言って嘲笑を洩らした人があります。世間並からいうとその通りです。然しこの問は必ずしもその答を求むるが為めに発した問ではない。実にこの天地に於けるこの我ちょうものの如何にも不思議なることを痛感して自然に発したる心霊の叫である。この問その物が心霊の真面目なる声である。これを嘲るのはその心霊の麻痺を白状するのである」

酔っ払いの設定ですから、

喋ってるうちにだんだん自分の言葉に尚のことよって激していく様子も想像できそうです。


ある意味、明治の頃の知識人、というよりも少し若い青年たちと言った方がいいかもですが、
いかにも語りそうなことではあるなと思う一方で、これはこれで「なるほどなぁ」と。


今飲み屋でこんな話してる人もそうはいないでしょうし、

気恥ずかしいし、なに言ってんだぁってなりますものね。


とまれ、飲みに出かけて仕事の愚痴を言うでもなく、

こうした言葉や考え方のやりとりをするのが現実にあるとすれば、
その現実はやっぱり馬鈴薯より牛肉の感じでもあるかなと思ったりもするのでありました。

どこそかへ行くというついでに「そこまで行くんだったら、周辺に何かないかな…」と探してみますと
結構「おお、こんなところにこんなものが?!」という発見があったりするのですね。


そうした結果は、つい最近でも両国界隈散歩 あたりに現れているわけですけれど、
こたびもまた千葉県市川市の芳澤ガーデンギャラリー にまで出向くのだからと周辺情報を検索して、
新たな発見!というよりは、いつか行こうと思っていて記憶の底に隠れてしまっていたものが

俄かに浮かび上がってきたわけです。それが市川市東山魁夷記念館であります。


市川真間駅近辺を歩いた後に京成電車で数駅下ると中山という駅に着くのですが、
この中山という地名は競馬場で全国区的知名度を誇っているものの、

予備知識としては他に何があるのかさっぱりという状況。
さりながら、駅を降りた途端にもう参道商店街が続くという典型的な門前町でありました。


商店の軒が迫る参道なだけにあまり見通しの利かない中を進んでいきますと、やおら巨大な仁王門が!
例によって携帯電話おまけ機能のカメラでは、大きすぎてこのくらいにしか撮れないほどなんですね。


法華経寺仁王門


何でも正中山法華経寺というこのお寺さんは

1260年(文応元年)開基の古刹であって日蓮宗大本山なのだとか。


奈良 あたりで見る大伽藍とは印象がやや異なるものの、

重要文化財に指定された五重塔やら大きな御堂やらがそこここに点在している

非常に規模の大きなお寺さんなのでありました。

法華経寺五重塔


そうした境内を通り抜けた後、住宅街の中を実にきめ細かに設置された案内板に沿って進みますと、
ほどなく市川市東山魁夷記念館に到着となります。

市川市東山魁夷記念館


どうも日本画の巨匠だけに、こうした古都をも思わせる巨刹のご近所にあるのも
何とはなし「むべなるかな」と思ってしまうのですが、

お寺さんが近いからここに記念館があるんでなくって、
東山魁夷は戦後ずっと市川に住まっておられたのだとか。

そういうことらしいです。


訪ねたときにちょうどギャラリートークが始まったところのようでしたので、
そそっと近づいてしっかり聞かせていただいたのでありますが、
「へえ~、そうなの?」と言いますか、「言われてみれば」と言いますか、
風景画が多くを占める東山絵画にあって、

いわゆる名所がはっきり分かるような作品はさほど多くはないのだそうです。


どうしても名所には予備知識的なあれこれが頭に入っているわけですが、
作家としてはとにかく「先入観なしに見て欲しい」という気持ちであったそうなのですよ。
確かにタイトルからしても、地名でどこそことはあんまり言ってないようですね。


例えば1955年に日本藝術院賞を受賞して

作家のその後の活躍を導くことになった「光昏(こうこん)」という作品。


東山魁夷「光昏」(「記念館だより」より)


山、湖、紅葉を組み合わせて秋の風景を描き出しているのですが、

ネタ晴らし的な話としては山と湖は野反湖畔から見た黒姫山であり、

前景の紅葉は箱根は姥子あたりの様子を持ってきて一枚に描きこんだということです。


見る側に「ここ、どこなの?あっそう。どこでもいいの?それにしても、いい景色だねえ」と

まあ、こんなふうに思ってもらいたかった東山魁夷としては、

そもそも制作過程で「極上のパーツで組み立ててますから」的な自負があったのかも。


もっともそうした普遍性を追求した純然たる?風景画が、

単に極上パーツを組み合わせれば誰にでもできるというはずもありませんから、
バランスやら色彩やら、要するに「これが東山絵画なんだぁね」とにんまりしてる画伯の姿が

目に浮かぶようではあります。


館内は1階が資料コーナーで2階が作品展示。
先の「光昏」も紅葉でしたし、時節柄9月に入って秋らしさを感じる作品で構成させれていたのですが、
東山作品でパッとイメージする青や緑でなく、赤や黄が目立つ作品というのも

何だか目新しい気がしたものです。


そうは言っても、ついつい「やっぱ、これだよねえ」と思うのは

青系の「秋思」だったりするのですが…。


東山魁夷「秋思」(「記念館だより」より)


ギャラリートークを担当された方がこんなことを言ってました。
「展示の多くが版画で肉筆画が少ないのでがっかりされる方がいて、(私たちも)がっかりすることがあります」
個人的にも本人の筆が入った「ほんもの」を有難がるところはありますけれど、
折りよく話を伺うことができたこともあり、面白く見ることができたかなぁと。


あっそうだ!東山作品で白馬の出てくる絵がありますけれど、
「白馬は何をあらわしているのか?」と問われた画伯曰く「見る人の心にまかせます」と。
うむ、素人でも半可通でも見て思ったとおりでよいのですね、何か安心しました…。