先にシャーロック・ホームズがヴァイオリンで弾いたのがパガニーニ であったと触れたことでもありますし、

(もっとも出典はコナン・ドイルの原典版ホームズ譚ではありませんが…)
ここでまたニコロ・パガニーニ (1782-1840)でも聴いてみようかと。


ちょっと前にFM放送だかでパガニーニのヴァイオリン協奏曲を聞きかじったときに
「お、何か可愛い曲じゃん」てなふうに感じたことも思い起こしましたので、

差し当たりヴァイオリン協奏曲から聴いてみることに。


何でもパガニーニは全部で6曲のヴァイオリン協奏曲を作ったそうですけれど、
今ではほとんど演奏される機会とてなく、それでもその中で比較的有名な2曲、

第1番と第2番を収めたCDであります。


パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番&第2番「ラ・カンパネッラ」/デュトワ(シャルル) アッカルド(サルヴァトーレ)


どうやらFMで聴いたのは第1番だったようで、
その第3楽章の軽快にスキップするようなフレーズを「可愛い」と思ったのだなということが判明しました。


でもって、改めて全体を通して聴いてみた印象ですけれど、やっぱりパガニーニは演奏家なんだなぁと。

そうはいっても、当時は演奏者と作曲者の分業体制は確立していませんから、
音楽家といえば演奏も上手いし、作曲も達者というのが通り相場でして、
モーツァルト (1756-1791)もベートーヴェン (1770-1827)も皆、演奏者であり作曲者でもあったわけで、
パガニーニもまたしかり。


さりながら、モーツァルトやベートーヴェンが今ではすっかり作曲家という肩書きを背負っている反面、
パガニーニは(今となってはその演奏を一音も耳にすることはできないながら)

ヴァイオリンのヴィルトゥオーゾという紹介のされ方と言うか、理解のされ方をしているわけですね、

作曲もしてるけれど。


このあたりの「なぜ?」がこのたびパガニーニの作ったヴァイオリン協奏曲を聴いて

「なるほどね」と思ったという。


ヴァイオリン協奏曲なんだからヴァイオリンが目立つのは当たり前とはいえ、
独奏楽器へのえこひいき度合いが非常に強い曲作りになってるなぁと。


「協奏」というわりには、オーケストラはとにもかくにも伴奏以外の何物でもないような気がします。

第1番第1楽章ののっけからそんな印象はありまして、
何だか歌劇の一場面を思わせる音楽が流れたかと思うとひと山作ってその後には、
「じゃじゃ~ん!いよいよお待ちかねのアリアですよぉ」的にヴァイオリン・ソロが滑り出すという。
要するに前座なんですなぁ。


まあ、ソロが始まってしまうとまさにソリストの腕の見せ所。
もちろん、パガニーニ自身が思う存分、その技巧の程を見せ付けるためのものであったのでしょう。
と思えば思うほど、やっぱりオケは添え物かと。


ところでパガニーニの技巧のほどですけれど、「悪魔と取引して手に入れた」とまで言われるわけですが、
そうまで言われるのは演奏の故ばかりとは言えないような気もしないではない。

今回聴いたCDジャケットにパガニーニの肖像がありますけれど、
こういったはなんですが、何やらいかにも悪魔と取引してそうな…。


ただこうした妖しさは魅力にもなるのでしょうか、女性関係の話には事欠かないようなところもあったやに。

その辺りのエピソードをモチーフにして、後にフランツ・レハール(1870-1948)が

オペレッタに仕立ていることを知ったものですから、こちらも見てみることにしたのですね。

その名も「パガニーニ」というタイトルです。


F.レハール「パガニーニ」 [DVD]/テェーバ(アントニオ),ストラータス(テレサ),ヘーステル(ヨハンネス


時は欧州全域にナポレオンが覇を唱えていた頃、

イタリアはトスカーナのルッカ一帯をナポレオンは妹エリザに与えておりましたが、

何とまあ、パガニーニのお相手となったのはまさにこのナポレオンの妹であったそうな。


オペレッタのお話では、パガニーニがまずはエリザを口説き落とし、

その寵の賜物としてルッカの宮廷で勝手気ままな毎日(エリザ以外の女性との関係も含めて)。


やがて妹の不穏な噂を耳にした兄ボナパルトがパガニーニ逮捕の兵を差し向けるも、

パガニーニの浮気な性分に哀想をつかしながらも、やはりエリザはパガニーニを庇って

国境を越えて落ちのびるのを見送るのでありました…。


てなことで、「エリザ、健気!」なんつうふうにも思え、パガニーニもしおらしく去るように見えるところですが、

実際に恋愛関係にあったエリザのお膝元ルッカの地をパガニーニが去るにあたっては

エリザは当時トリノにいた妹のポーリーヌを紹介したところ、

パガニーニ先生は妹御とも懇ろになったとかいうことで。


いやはや何とも達者なもんですなぁ。

どうやらヴァイオリンの技巧に優るとも劣らない「やり手」だったというところでしょうかねえ…。

先に読んだのはシャーロック・ホームズの「宇宙戦争」に関わる大活躍 でありましたから、
荒唐無稽さの点ではパロディとも言えるでしょうけれど、書かれ方としてはパスティーシュとも言えようかと。


ですので、ここはひとつ本格的なホームズ・パロディをひとつ読んでみますかねと手に取ってみたのが、
柳広司さんの「吾輩はシャーロック・ホームズである」でありました。


吾輩はシャーロック・ホームズである (小学館ミステリー21)/柳 広司


シャーロック・ホームズ は世界的に超有名人でありますが、
本書のタイトルに見るように「吾輩は○○である」というだけで日本人にとっては
「ああ、夏目漱石 がらみね」と分かるくらいですから、こちらはこちらで大変な知名度ですよね。


ところで、本書での夏目漱石の絡み方が凄いですねえ。
全くもってタイトルどおりなのですから。


漱石が漱石となる以前、旧制五高の英語教授であった夏目金之助が

留学先のロンドンに滞在していたのは1900年から1902年にかけてといういわゆる世紀の転換点で、

ホームズもほどなく田舎に隠遁しようかという頃合いながら、
同時代の人物になりますね。


一方、英文学研究に入れ込んだあまりでもありましょうか、

夏目金之助が神経衰弱に陥って云々とはよく聞く話でありまして、
実際、1902年の秋口には留学の派遣元である日本の文部省にロンドンから一通の電報が到着。
曰く、「夏目 狂せり」と。


本書はまさにこの時期の漱石(面倒なので、こう呼びます)を主人公(?)に、
「狂せり」の状況を「自分をシャーロック・ホームズと思い込んでしまった!」ということになっているのが

本書なのですね。


下宿の女主人に連れられてベーカー街221Bを訪れた自称シャーロック・ホームズ(実は夏目漱石)。
折りしも別の事件で遠出をしているホームズ自身に代わって応対したワトスン博士に対して、
何の衒いもなく「ワトスンくん」と呼びかけ、ようやく帰った我が家のように振る舞う人物に

ワトスンが辟易しているところへ当のホームズから「その者をホームズとして扱うように」という電報が到着。


呆れ返りながらも夏目ホームズと行動を共にすることになるワトスン博士でありました。

明らかに東洋人然とした姿形には「さる国家的事件への対応から東洋人に変装している」と

嘯く夏目ホームズですが、ある意味でワトスン博士は関心しきり。


なぜなら、ワトスンが書いたホームズ譚を実によく読みこんで、ホームズ然としたふうにしていると。

訪問者の人となりに対する推理の開陳もまた、全くもってホームズ流。

されど、指摘の数々はことごとく外れているため、

ホームズもどきの推理方法でこれだけ当たらないということは、
「本当はホームズのやってることもたまたま当たってきただけなのではないか」
と心配になったりするあたり、ワトスンもまたワトスンとしての人物像になっているような。


話の中では、漱石ゆかりの人物として一時期個人教授を受けたクレイグ先生を登場させるかと思えば、
原典版ホームズ譚で存在感の大きいアイリーン・アドラー…でなくて、その妹を登場させるという、
なかなかにあれこれ手が込んだ作りにもなっているなぁと。


まあ、事件の捜査はどうも右往左往しているばかりのようでとんと解決に近づかないながら、
漱石の自転車乗りの練習の背景にはアドラー嬢が絡み、
さらには帰国直前のスコットランド行き はホームズ(本物の)の息係りであったなど
それぞれのエピソードも面白く差し挟まれておりましたよ。


それにしても、19世紀から20世紀へという転換点に

当時世界でも最大規模の都市であったロンドン ではいろんな人物が行き交っていたのでありますねえ。

ちょっと前に見た映画の話であります。


映画「ブリューゲルの動く絵」



映画の内容に特段の予備知識もないままに、

ただ「摩訶不思議 寓話の世界に迷い込む」という惹句、そして「ブリューゲルの動く絵」というタイトルからして、映画的な手法を駆使したエンタティンメント性の強いものなのかなと思っていたのですね。


それが見始めてみると、とんだ誤解であることが分かったものですから、
この映画のことを何か書くにはちと心の整理といいますか、内部発酵を待つ必要があったような次第。


そも、映画の中で取り上げられたピーテル・ブリューゲル (1525頃?~1569)の作品が

「十字架を担うキリスト」(1564年)とあってはエンタメ性云々の話であろうはずもないと後から知るわけですが。


そもそも宗教画にはお決まりの題材がいくつかあって、

大抵は先行作品によって図像化されたものを参考にしつつ、
独自色を加味するような中で積み上げられてきたパターンのようなものがありますですね。
(突然変異的に、強烈に強い独自色を放つものもありましょうけれど)


ここで取り上げられた「十字架を担うキリスト」なども同様でして、
(ブリューゲル研究家である森洋子さんによる映画プログラムの解説にあるように、
ブリューゲル作品(1564年)にしても例えばヤン・ファン・エイク 作品(1530年頃)に見られる

群集を配した構図などの先行例あらばこそなのかもしれません。


そうした先行作品によるところの決め事的なものには、

「こうでなくてはいけん!」というものもあれば、「こうであっていいんだもんね」というものもあろうかと。


後者で非常に分かり易いのは、イエス・キリストに纏わる何らかの一場面を描き出す際であっても、
風景やら衣装やらはイエスが生きた時代のユダヤの風景やその当時の人々が来ていた衣装でなくって、
画家の知っている風景、画家の生きる同時代か分かる範囲のちょっと前の衣装なんかでも

「いいんだもんね」ということでしょうか。


ブリューゲルにとってさえイエスの磔刑は遠い遠い異国の、遠い遠い昔の出来事でありますが、
それを忠実に再現することはおよそ求められていないのでして、
あたかもヨーロッパ世界の宗教のようになったキリスト教ではむしろ見た人に違和感無く、
劇的要素は十二分に伝わることが肝心な点だったでしょうから。


ピーテル・ブリューゲル「十字架を担うキリスト」


そういう目でもってブリューゲル作品を見てみるわけですが、
まずもって大空の中に浮かぶかのような岩山の上の風車 はフランドルのものでありましょうねえ。
それでも、こうした鋭い岩峰がフランドルにはそうそう無いのではと思われるので、
「イタリア旅行で対峙したアルプス の雄大な山脈を導入」(映画プログラム)するくらいのことは
しているようですが。


そして、群集として描かれる人々の風体はといえば、
例えば「ネーデルラントの諺」(1559年)などにも描かれた人々の姿と代わるところがない、
つまりブリューゲルにとってリアルタイムの人々として書き込まれているわけです。


ピーテル・ブリューゲル「ネーデルラントの諺」


まあブリューゲルに限らずですが、こうした描き方は

同時代人には聖書の出来事をドラマティックに受け入れやすくするところがあったかなと思う反面、
後世からすればむしろこうしたことに宗教画がいささかいんちき臭く思えるところかなとも。


さりながら、とようやくここで映画の話にも戻りますが、
この中世リアルタイムで描かれた「十字架を担うキリスト」の、
描き出される対象である当時の風景を背景とする中で

当時の姿の人たちがそれぞれの生活の動きを示しており、
それを画家が描いていくところを映像で見せられるわけですね、映画では。


すると、大昔の出来事である十字架を担いでいくイエスとその周囲の様子が
ブリューゲル時代の中世の様子といとも容易に二重写しになってくるという。
つまりはそこに「普遍性」みたいなものを感じてしまうのですよ、いんちき臭く思えるどころか。

何とも不思議な感じでありましたね。


さらに、もしブリューゲルのこの絵のことを知っていればいるだけ、
判じ物めいた読み解きは他にも多々あろうと思いますし、
そうであればこそ、この映画の売り方として「摩訶不思議…」といった
映像マジック的な面ばかり協調するのはいかがかなと思ったわけです。

なおのこと、タイトルだって「ブリューゲルの動く絵」はないだろうと。


オリジナル・タイトルは「The Mill & the Cross」、「風車と十字架」というところからして、
この絵に向き合ってあれこれ考えてみたくなるものなだけに、
やっぱりこたびの邦題は表面的に過ぎていだだけないなぁと思ったりしたのでありました。

シャーロック・ホームズの宇宙戦争 」を読んでおりましたら、
ホームズがヴァイオリンでパガニーニを弾くという場面が出てきたのですね。


ホームズがヴァイオリンを奏でることは夙に知られたところでありますから、
今さら驚くには当たらないところなのですけれど、コナン・ドイルの原典版ホームズ譚
具体的な作曲家名や作品名が出てくることに気付かなかったものですから、おやっと。
(たぶんどこかしらにはあるのでしょうねえ…)


以前、ニコロ・パガニーニ のことは数学やらの絡みを(例によって浅いところで)書きましたけれど、
シャーロック・ホームズも実験やら観察やらといささか科学的思考(嗜好か?)の人物っぽいので
パガニーニを弾くと聞きますと、さもありなむと思ったりするところです。


おそらくは一人でいるときにはストイックにカプリースなんかを弾いていたのやもしれません。
ただ、前にも書いたようにこの曲は技巧的に尖っているところもあり、
傍で聴いていて手放しで楽しい、リラックスできるといった類の音楽ではなさそうですから、
ワトスンが聴かされていたとしたら、しんどかろうなあと同情を禁じえなかったりするわけです。


ではありますが、先の「宇宙戦争」での場面はどうやらようすが違う。
パガニーニを弾くとある後に、どうやら曲はセレナーデであることが記されているのですね。


夜の窓辺ごしに彼女を思って奏でるセレナーデ…みたいな曲をホームズが!と思いますけれど、
ここではハドスン夫人に聞かせるというシーンでありまして、
先にも触れましたように、同書においてはホームズとハドソン夫人は思い思われの仲でありますからして。
(しかも、ワトスンには内緒にしてあるようで…もっとも、当人の察しの悪さもありましょう)


でもって、このパガニーニのセレナーデというのはいったいどんな曲?と思うわけですよ。
あれこれ検索してみると、パガニーニには「Serenata」(セレナーデのイタリア語 )というのが
何曲かあるようで。


ただし、簡単にはCDで手に入ったりするようではないので想像するしかありませんが、
まあ思い人にパガニーニを聴かせるなら、以前紹介しましたCD「Paganini for two」にも収録されている
カンタービレみたいな曲であろうかと思い巡らしたり。


この曲は、NHK-FM「きままにクラシック」のエンディングに使われていますので、
「ああ、あれね。なるほど」という方もおられようかと。


ただ、曲としてはこうした優しく暖かくささやきかけるようなものがかの場面には合うものと思いますけれど、
それにしても弾き手がシャーロック・ホームズかと思うと、「うむぅ、しっくりこんなぁ」という気がする方が
少なからずおられるのではないかと思うのですが、いかがでしょうかね…。

1866年、ナポレオン三世による第二帝政下のフランス、パリ。
今日もフランス近衛軍鼓笛隊の宿舎に朝が訪れました。


みんな点呼時間よりもずいぶんと早く起き出しているようです。
中をちょっと覗いてみましょう。


あちらでもこちらでも、一心に楽器の手入れをしていますね。
少年たちにとって楽器は銃にも等しい大切なもの。


やがては戦場に出てフランス軍の一糸乱れぬ統率に合図を送る役割を担うかもしれません。
さらには戦勝パレードの晴れやかな隊列に加わって、パリの街に凱旋するかもしれません。
そんなことを思いながら、音楽修業の毎日を送る少年たちです。



《横笛吹きの少年ミシェルくんのお話》

ある朝、突然楽長室に呼ばれたんだ。

課題のほかに隠れて練習している曲のことがばれたのかと思って、すごく心配だった。

でも、部屋に入ると、楽長はちょっと困った顔をしながら「場合によっては鼓笛隊にも名誉なことになるかもしれませんな」なんて、ひとりの将校さんと話をしていたんだ。

そして、僕の方に向き直ると楽長は「おお、ミシェル、こちらの方と一緒に出かけて、一仕事してきてくれるか」って。

道々、将校さんから聞かされた話によると、どうやら絵のモデルをすることになるらしい。エドゥアール・マネという絵の先生のところに行くというのだけれど、そんな人の絵、見たことも聞いたこともないや。



一年前、1865年のサロン。
気鋭の画家エドゥアール・マネ は旧来のしきたりなどどこ吹く風と「オランピア」を出品します。
しかし、結果は散々。
マネの意図には注意も払われず、不評の嵐が吹き荒れたのでした。


エドゥアール・マネ「オランピア」



さすがのマネもいたたまれず、スペインに赴きます。
マドリッドのプラド美術館で見たべラスケスの作品に大きな感銘を受け、
また反骨の画家ゴヤ の作品にも接して、作品のアイディアを得たマネはパリに戻り、
次の作品の準備を始めました。
そして、このときモデルに呼ばれたのが、ミシェルくんというわけです



《ふたたび横笛吹きの少年ミシェルくんのお話》

絵のモデルって、大変なんだよ。
マネ先生は「とにかく、動かないでくれ」ってすぐにどなるし。
でも、楽器を構えてただじいっとしてるのって、すごく大変。
だから僕、先生にお願いしたんだよ、曲を吹いていいですかって。
ちょうど楽長には内緒でおさらいしてる曲を吹いても、

ここでならばれないし、練習になると思ったんだ。



ミシェルくん、モデルを務めながら楽器の練習ですか。
あんまりテンポの速い曲だと、体が揺れてしまいませんか。
え?ゆっくりめの?あの曲?
なるほど、それならあんまり動かずに済むかもしれませんね。


鼓笛隊の少年たちが演奏する曲は全部覚えなきゃいけません。
そりゃ、戦場にもパレードにも楽譜をもっていいけませんから。


ですから課題がきちんできるようになるまでは、
勝手にいろんな曲を練習してはいけないという規則になっているけれど、
ミシェルくんはどうしてもやりたい曲があって、隠れて練習してるのだとか。


え?曲目ですか?こっそりお教えしましょう。
バッハ の管弦楽組曲第2番、取り分け最後のバディネリの速い指遣いができるようになりたいんだそうです。
でも、マネ先生のところではゆっくりめのポロネーズを練習しているようですよ。



《またまた横笛吹きの少年ミシェルくんのお話》

曲を吹きながらモデルをしてると、なんだか叱られる回数が減ったみたい。
やっぱり少しは動いてしまうけど、

音楽が鳴ってるとマネ先生も気分がいいんじゃないかな、きっと。
そうしているうちに先生が「できた!」って。
早速見せてくれたんだけど、僕にはちっとも似てないじゃない。
大きな声じゃ言えないけど、この先生、へたくそなのかもしれないね。



こうして出来上がったのが今日の一枚。
この「笛を吹く少年」は、この年1866年のサロンに出品されました。


エドゥアール・マネ「笛を吹く少年」



結果はまたしても落選。芸術作品というより「トランプの絵札」のようなどとも言われたりもしました。
ただ、サロン評を書き続けた作家のエミール・ゾラなど好意的な評価を与える向きもあったのですが…。


前年は「オランピア」の酷評に絶えかねてパリから逃げ出したマネ。
二年続きでこの「笛を吹く少年」まで落選となると、いったいマネはどんな思いでいたでしょうか。


実はマネ先生、裏でひっそりほくそ笑んでいたようです。
「やっぱり、誰も絵をちゃんとみちゃあいない。目が節穴の連中ばかりだ」


鍵は、ミシェルくんが自分にちっとも似ていないと嘆いた絵の中の少年の顔にありました。
確かに姿かたちはミシェルくん。しかし、その顔のモデルはといえば…
そう、前年に山ほど罵りの投げかけられた「オランピア」にも描いた常連モデルのヴィクトリーヌ・ムーラン。


「そんなことに気付かぬとは、結局『オランピア』も『笛を吹く少年』も誰も見てるようで見ておらんのだ」
ささやかな復讐の毒を仕込んで、サロン周辺の観衆に一矢報いたエドゥアール・マネ。
何気ない少年の肖像に隠された、画家の気骨を窺う一枚です。




*この番組は、TV東京ともKIRINとも日経とも関係のない、私家版です。


私家版【美の巨人たち】バックナンバー