強制的に連行された多くのユダヤ人が住まっていたアパートメント。
独軍の兵士たちが階段下で息を潜める中で長い沈黙のときが過ぎていきます。


やがて、危難は去ったと思ったか、壁の隠し戸の中から、床板の下からとさまざまな場所から
隠れていたユダヤ人たちが姿を見せ始めると、かすかな物音を聞きつけた兵士たちは階段を駆け上がり、
ひと言の言葉もないままに機銃掃射の音が鳴り響く。


そんな凄惨な殺戮の最中、一人の兵士が今は持ち主もいなくなったピアノに向かい、
一心に曲を奏で、これが引き続く機銃の掃射音とオーバーラップしていきます。
そして、ピアノに向かう兵士の姿を見かけた別の二人がこう言い交わします。


「Was ist das? Bach?(ありゃ、なんだ?バッハか?)」
「Nein, Mozart!(いいや、モーツァルトだ!)」


先ごろ見た映画「シンドラーのリスト」 の一場面なのですけれど、
そもそもこのようなシーンに流されようとは、作曲者はおろか誰も考えてもみなかったであろう曲。

実は交わされた会話とは裏腹にモーツァルト の曲ではなくして、
J.S.バッハ 作曲、イギリス組曲第2番の第1楽章プレリュードなのであったなと、
管弦楽組曲の話ついでに思い出したのでありました。


それにしても、バッハの曲には冷徹さが漂うてなことは前にも触れましたけれど、
およそ想定外のこうしたシーンに使われて、よもやの効果をあげているように思われます。


そして、映画を見たときには思いもしなかったのですが、
ここで上で引いたような会話もよくよく考えてみると何とも意味深であるような気もしないではないという。


バッハの曲なのか、モーツァルトの曲なのか、
それを単に間違えたという会話で過ごしてしまいそうではありますけれど。


始めに問いかけた兵士1の方がいささか冷静に音楽に耳を傾け、「バッハか?」と尋ねる。
それに対する兵士2はきっぱり否定して、「モーツァルトだ」と答えるのですね。
きっぱりした返事は少なくともクラシック音楽を聴き知っている自負が窺えるわけで、
それだけの自負があれば本来間違えようがないものと思うのですね、バッハとモーツァルトを。


ざっくり言って、バロック期のバッハと古典派のモーツァルト。
楽曲のイメージだけでもだいぶ違いますから、
ピンポイントで作曲家を示すことを措いといても間違えないように思います。


また傾向的にも短調の曲を書くことが極めて稀なモーツァルトなのですから、
(このプレリュードはイ短調で書かれています)
ここでは自信を持って聴き間違えた兵士2の心理状態にこそ

想像を巡らすべきなのかもしれぬと思ったのですね。


いくら早めのパッセージで急かされるような推進力のある音楽だとしても、
短調で書かれた曲を、基本的には明るい天性の発露としてほとんど長調の曲を書いてきた

モーツァルトの曲と聴いてしまう状況に兵士2はあったというべきでしょうか。


ユダヤ人への機銃掃射という、凄惨さの点で気持ちの高揚なくしてはできないことをやっている最中、
鳴り響く音楽さえも長調的な「陽」のものとして受け止めてしまう状態。
単なる聴き間違えでは収まりのつかない、昂ぶりの怖さが感じられるように改めて思った次第でありますよ。

しばらく前に映画「宇宙戦争」 を見たときに、

この際H.G.ウェルズの原作でも読んでおこうかなぁと思いつつも
関連本として見つけたものの方に心動いてしまったという。


もっとも、それも先ごろになってようやく読んだのですけれど、
題して「シャーロック・ホームズの宇宙戦争」という一冊でありました。


シャーロック・ホームズの宇宙戦争 (創元SF文庫)/マンリー・W・ウェルマン

小説なり何なりの作中人物が有名になればなるほど、
その作中人物を使ったパロディやらパスティーシュが生み出されることになろうとは思いますが、
さしずねコナン・ドイルが作り出した名探偵
シャーロック・ホームズ などはオリジナルでない活躍の場に
相当借り出されているのではないかと。


本書もそうした作品のひとつでして、H.G.ウェルズがリポートした宇宙人によるロンドン襲撃事件に際して

(本書の中ではウェルズの創作ではないことになっております…)

かの名探偵シャーロック・ホームズはどういう活躍したか、

それをワトスン博士ほかが記録した体裁を取っているのですね。


1906年のロンドン。
火星で連日大きな爆発音が観測されたかと思うと数日後には

宇宙からの飛来物がロンドン近郊ウォーキングの町に落下し、地面に大穴を開けるという事件が発生。


やがて大穴から現れたものは、周囲に熱線を放射し、あらゆる物を焼き尽くす巨大兵器であった。

ちなみにウォーキングの町には、こんなモニュメントがあるのだとか


Tripod in Woking,UK(Wilkipedia)


まあ、町おこしの一環でありましょうか。

とまれ、火星での連続爆発に合わせるかのように、巨大兵器は続けざまにロンドン近郊に落下、
熱線に加えて殺人ガスをも振りまきながら、ロンドン市街を目指して移動を始めたのでありました。


と、このような国家的危機にさらされる中、政府からはホームズに応援要請がなされるのですね。
日頃からスコットランド・ヤードへの協力を惜しまぬホームズながら、
今度の相手は桁違いと思うところですが、本人は至って冷静。さすがはホームズというべきでしょうか。
かような状況下においても、平時の観察眼と思考力は衰えるものではないという。

そのうちどこかで汽笛のような、遠吠えのような、鋭い悲鳴に似た叫びが湧きおこった。…侵入者たちがたがいに合図をかわしているにちがいない、とホームズは判断した。ということは、かれらには聴覚があるということになる。―合図しあうのにあれだけけたたましい声をたてねばならぬところから推して、あまり鋭敏なものではないにしても。

出動した軍の一隊があっというまに焼失させられる事態の中、

「きゃつらには聴覚があるようだ。鋭敏ではないようだが…」とホームズ。
この観察結果がいったい何の役に立つのか不明ながら、

怖れを知らぬ行動力でもって「とにかく」大活躍するわけです。


大活躍といえばもうひとり。この事件においてはホームズの最大の協力者として登場するのが

チャレンジャー教授という学者でありまして、コナン・ドイルのSF系作品である「ロスト・ワールド」他の

登場人物であるらしい(と言うのは、読んだことがないので)。


ホームズとこのチャレンジャー教授が時には共に協力して、

また時にはそれぞれが単独でさまざまな危機に立ち向かうのですよ。


こうしてホームズ譚のみならずたコナン・ドイルが創造した登場人物を配し、

しかもコナン・ドイルの原作と整合性をとりながら(時間的空間的にも)その間隙を縫う形で作り出されたのが、

本作であるということに。


整合性を取る点はかなりのもののようで、訳者あとがきに詳述されていますけれど、
自由な発想を展開させる余地を見つけては遊び心を見せているなと思うのでして、
ホームズとハドスン夫人のラブ・シーン(もちろん両者が年相応の設定ですが)などは

その最たるものではなかろうかと。


こうしたことを見てみると、物語を作っている側がいちばん面白いのではと思えてきますですね。
大筋ウェルズの原作どおり(といっても読んでないので、映画からの類推ですが)に収束へ向かう中、
最後の最後になって宇宙人はベーカー街221Bに攻め寄せ、

部屋に侵入した宇宙人をホームズとチャレンジャーが絡めとり…。


いやあ、真似してみたくなりますねえ、こういう物語作りは。

自宅にいて普段聴くのはほとんどクラシック音楽だったりするのですけれど、
ちゃあんとしたリスニングルームのような器ではありませんから、
とても落ち着いて聴けるような環境ではないのですね。


何しろ他の音楽に比して音の強弱の振れ(要するにダイナミクスですね)が大きく、
しかもそうした効果の用いられる頻度が高いのもクラシック音楽の特徴とあっては、
下手をすると弱音の箇所では「聴こえんなぁ」とアンプの音量を上げ、
はたまたうっかりしてると最強奏で「やば!近所迷惑!」と慌てて音量を絞ることになったり。


ま、年がら年中アンプのボリュームをいじってるわけではありませんが、
結局のところはこの匙加減でもって聴き易い音量にして聴いてしまっているとは言えそうです。
ですから、楽曲本来の意図(といっても絶対的な尺度はないと思われますが)とは違って、
どんな曲も平均的な?音量で聴いているのかもしれませんです。


そうすると、CDで聴いてきた曲をいざ音楽ホールで直に聴こうというときに、
例えば楽団編成といいますか、演奏者の規模といいますか、
これがCDを聴いてイメージしていたのを隔たりがあったりして、
「え?この曲って、こんなに少人数で演奏すんの?」と思ったりするものの、
それでも曲が始まってみれば、紛れも無く件の曲が流れているということに…。
(逆のパターン、あんな多人数でこの曲やってたの?はあんまりないかも)


そんなことの実体験がまたつい先ごろあったのでして、先月の2週目でしたか、
フライブルク・バロック・オーケストラの演奏でやはりJ.S.バッハの管弦楽組曲全4曲を聴いたときのことであります。
ちなみにその時は、症状に小康状態を得たものと思って出かけましたが、
今から思えばひたすらに大人しくしているべきであったのか…と考えないこともありませんけれど…。


フライブルク・バロック・オーケストラ公演@東京オペラシティ・コンサートホール

管弦楽組曲の中で分けても有名な第2番に臨む陣容を見てみれば、
これまた「え?これだけ?」というものだったのですね。

とある楽曲解説書によりますと、この曲の楽器構成はフルート、ヴァイオリン2部、ヴィオラ、通奏低音。
至ってシンプルですよね。それでいて、やっぱり実に申し分のない演奏であったわけです。


ところで、このフライブルク・バロック・オーケストラの演奏を聴いて感じたのは、
この第2番ではカール・カイザーのフラウト・トラヴェルソ(フルートの古楽器ですな)が
あたかも夢うつつの境をさまようがごとき世界に引き込んでくれてしまうことと同時に、
普段あまり耳にする機会のない第1番、そして第4番あたりは
特に管弦楽組曲の楽しさ再発見の趣があったのですね。


何かと言いますと、この管弦楽組曲を構成する曲のほとんどが舞曲であるということ。
いまさらですけれど、バッハのこの曲集は、いくつかの曲で構成された組曲。

そこに入れ込まれているクーラント、ガヴォット、メヌエット、ブーレ、ロンド、
サラバンド、ジーグなどといった曲種はみいんな舞曲でして、
予備知識としては「んなこと、わかっとるわい」てな感じなのですけれど、
実際に演奏を聴いていて改めて「ああ、舞曲だったんだよね、これは」と感じるのは
また別のことのような気がしたわけです。


理屈として「この曲は踊りのための曲だな」と分かっていることと
曲を聴いていると「どこかしらの宮廷で、こぢんまりと内輪の舞踏会でもやってるようだ」とイメージするのって違うなと。


編成がそもそも小さめで、
古楽器らしい鄙な音色(あんまりシャープなエッジを利かせてないのがまた楽しからずや)が
こうした想像を掻き立ててくれたなあと思ったわけなのですよ。


ほんとに限られた奏者たちが織りなす、あたかも内輪の宮廷舞踏会のような演奏。
どでかい編成のオーケストラばかりが音楽の醍醐味ではないのですなぁと思いを新たにしましたし、
ここでまたCDを聴いているだけでは分からない、コンサートに出向く楽しみを思うのでありました。


管弦楽組曲ではありませんけれど、
フライブルク・バロック・オーケストラのビデオクリップがありましたので、
小さなアンサンブルの大きな音楽世界をどうぞお楽しみくださいませ。


「男はつらいよ」の主題歌を聞き間違えた「ふんと努力」の「ふんと」が
てっきり擬態語だと思って…ということを書いていて思い出したのですけれど、
先ごろ読んだ本はなかなかに興味深いものであったなぁと。

「政治家はなぜ『粛々』を好むのか」という新潮選書の一冊であります。


政治家はなぜ「粛々」を好むのか―漢字の擬態語あれこれ (新潮選書)/円満字 二郎



タイトルそのものの問いには、個人的にさしたる関心もないところですが、
副題の「漢字の擬態語あれこれ」にはいささかぴくっと来たものです。


まずは著者の円満字二郎さん言うところの「擬態語とは?」を引いておきます。

擬態語とは、ものごとのある状態から受ける印象を“響き”に託して表現しようとする、きわめて感覚的なものだ。

なるほどですね。感覚的。そのとおりかなと。
ですので、日常的に擬態語(本書の用法では擬音語も含むオノマトペのこと)を考えてみると、
もっぱらカタカナやひらがなで書かれるものという印象があろうかと。

何気なく上に書いた「ぴくっと来る」の「ぴくっと」なんかもまさに擬態語というわけでして。


つまり感覚的な言葉、フィーリングですから、

イメージされる様子が共有できるようなどんな言い回しもあり、新語もどんどん出てくるのでしょう。


思うに「わしわしと飯を食う」なんつう言い方の「わしわし」も昔々からあった表現ではないものの、
椎名誠さんが使っていて「言われてみれば、わしわし感あるよね、食事って」という意識の共有化へ経て、
定着したものかと(一般的にはあんまり使いませんかね…)。


おっと、話がズレ加減のところを戻しますと、
擬態語がもっぱらひらがなやカタカナで書かれるのは、ある意味道理でありまして、
「感覚的なものであって、意味はないんだぁね、擬態語は」というのが本来。


されど、そもそも漢字は表意文字ですから、黙っていても意味を持っている…となれば、
表音文字であるひらがなやカタカナの出番となるわけですよね。

それが本書では「漢字の擬態語」が紹介されているわけですから、やはり興味深い。


文字は別として擬態語はおそらくどこの国の言葉にもあるのではなかろうかと思いますし、
それを文字で書き表すときに、日本語にはひらがな、カタカナという便利なものがありますけれど、
漢字の故郷、中国にはそれこそ漢字表記しかない。欧米人の名前だって漢字で書いちゃいますし


ということで、漢字の擬態語という何やら矛盾をはらんだような言葉遣いは中国から来ているようです。

まあ、常に頭から離れないほどの疑問ではないにしても、
常々「『興味津々』の『津々』て何だぁ?」とか「『余裕綽々』の『綽々』ってどういうことよ?」とは
思っていたところではあります。


擬態語と気付かなければどうしたって意味を探ってしまうところですけれど、
「興味」という語に「さんずい」で水ものを意味する「津」があっても、
実は「興味津々」の「津々」と「津々浦々」の「津々」は別物だったのねと腑に落ちるというか。


ということで、政治家がよく使うという「粛々」ですが、これも漢字の擬態語であると。
そも古典中の古典である「詩経」には「粛々」の字を当てて「鳥の羽ばたきを表す」ような用例が見られるそうな。


そんな「鳥の羽ばたき」をも意味した擬態語が中国から伝わり、

現代日本で政治家に使われるまでの間に変化したそうですけれど、変化を端的に示しているのが、

江戸期の学者・頼山陽の漢詩に出てくる「鞭声粛々 夜河をわたる」というあれ。


川中島の合戦にあたって騎馬武者がそれこそ「粛々と」河をわたっていく。
「鳥の羽ばたき」とは違う、独特の空気感が伝わってくるような「粛々」でありますねえ、うむ。


ではありますが、その「粛々」をなぜ政治家が好むのか?は本書を直にご参照くださりませ。
それこそ「興味津々」の方もおいでやもしれませぬ。

昨年末に忠臣蔵 絡みの話から泉岳寺へ行ってみたことを書きましたけれど、
その時に「鉄道唱歌 」の2番の歌詞を引き合いに出しました。
でもって、今日はその3番の歌詞から始めようと思うのでありますよ。


♪窓より近く品川の 台場も見えて波白き
 海のあなたにうすがすむ 山は上総か房州か

初めてこの歌詞を見たときから「海のあなたにうすがすむ」が何のことやら分からずにいたのですね。
「海のあなたに」が「海の彼方に」ということはさすがに見当がつきますけれど、
「海の彼方に『うすがすむ』って何よ?もしかして『臼が住む』?」とまあ、
こんなふうに考えてしまったわけです。


といってもその後はほったらかしにして来ましたが、
この「うすがすむ」は続く歌詞の「山」にかかって「薄霞む山」のことだと最近になって知りました。


聴いただけではぴんとこんなぁと思ったところで、
こういうのって、そういえば他にもあるなぁと。


例えば、先ごろついに終了を見た長寿ドラマ「水戸黄門」の主題歌で、
「人生楽ありゃ苦もあるさ」の次、涙の後に出るものはてっきり「意地」だと思っていたのですよ。
涙も流してみたけれど、ふんばる意地を見せて「歩いていくんだしっかりと」と繋がるのかと。


本当の歌詞は「涙の後には虹も出る」ということを知るに及んで、
涙というお湿りの後には虹が出て晴れやかになるという、

なんとまあ文学的な?歌詞であることかと思ったり。


他には、「男はつらいよ 」の主題歌なんかも聞き間違っていた例でありまして、
「俺がいたんじゃ お嫁にゃ行けぬ わかっちゃいるんだ 妹よ
 いつかおまえの よろこぶような 偉い兄貴になりたくて」に続く部分。


てっきり「ふんと努力の甲斐も無く」と、

「ふんと」は努力の様態を示す擬態語のようなものと理解しておりましたが、
こちらも本当は「奮闘努力の甲斐も無く」であって、知ってみれば本来の歌詞の方が
偉い兄貴になりたい努力の形が奮闘でもって、奮闘すれはするほど大騒ぎになって…

という寅さんの姿が思われるなぁと。


…ということで、聴いただけでは思い違いしてしまうことってありますよね(ありません?)。
ちなみに、リポビタンDというドリンク剤は子供用だと思っていた方がおいでだったようです。
「肉体疲労『児』の栄養補給にリポビタンD」なのだと…って、これは自分のことではありませんです、はい。