ヴィヴァルディ といえばやっぱりヴェネツィア でありまして、

そうとなれば、ここらで一度はマルコ・ポ-ロの探究ということで。


とはいえ、まず手にしましたのはつい先日読んだ「夏目ホームズ 」の作者、
柳広司さんの「百万のマルコ」ですから、これまたパロディなんですけどね


百万のマルコ (創元推理文庫)/柳 広司


ただし、タイトルの「百万のマルコ」から紐解いていきますとですね、
マルコ・ポーロはどうやら実際に「il milione」(イル・ミリオーネ、イタリア語で百万の意)と
呼ばれていた(自称していた?)のだそうですよ。


ヴェネツィア商人であったマルコ・ポーロは東西交易の結果として莫大な財産を得たので
百万長者のという意味での「イル・ミリオーネ」だとか、
旅の話を語って聞かせるときに何ごともスケール大きくやたらに「百万」という数量的表現を使ったからとか、
はたまた話自体そもそも「大ボラ」ではないかと思われてたからとか、理由はさまざまですが。
(イタリア語には、un milione di frottoleという言い回しがあって、「嘘八百」に相当するらしい)


ということで、本書は「東方見聞録」にある話に多少(多分に?)味付けを施して
「そりゃ、ホラ話以外の何ものでもなかろうよ」という大風呂敷をマルコが語ったものを記録したという体裁。


しかも、どの話もマルコが大苦境に陥ったところで何故か話はいきなり飛んで、
「こうしてフビライ・ハンの使いの役目を無事に果たしたのである。神に感謝、アーメン、アーメン」
と終わってしまう。


話を聞かされえる方はたまらないわけで、肝心な部分を簡単には語らないマルコに代わって、
「どうやって苦境を切り抜けたか」を聞いてる側が推理しあう…この辺りが作者ならではなんでしょう。


読んでいていかにもTVの連続ドラマに似合いの題材だなぁと思いましたけれど、
先の「夏目ホームズ」同様に押さえるべきところは妙にうまいこと実際のところを取り込んでいるのでして、
話をするマルコはジェノヴァの牢獄の中、

の書き取りもピサのルスティケロという実在の人物だったりするという。


それなりに面白く読ませてはもらいましたけれど、
さすがにこれをもってマルコ・ポーロ探究と言いがたく、
続いて手に取ったのが「マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか」という実にキャッチーなタイトルの一冊。


マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか/フランシス ウッド


それだけにこの本のオリジナルが出回った当時(1300年頃)、

「歴史的事実に茶々を入れるな!」的な誹謗中傷が渦巻いたとか。


考えてみれば、原題も同様に「Did Marco Polo go to China?」という疑問形であって、
「マルコ・ポーロは中国へ行っていない」との断定が表紙を飾っているわけではないのですが…。


で、読んだところはどうであったかといいますと、要するに「東方見聞録」に信を置く限りにおいて

「マルコ・ポーロは中国へ行った」と言えそうだということでしょうか。


つまり、「行ったんだ」と自分で語ったこと以外にどうやら証拠はないようなのですよ。
中国側(当時はモンゴル支配の元朝でしたが)の資料には、マルコ本人が言っているように
「中国には十七年間滞在し、フビライ・ハンの覚え目出度くあちこちの辺境視察を任務にあたった」

ような記述が全く無いそうで。


これに反論しようとすれば、「マルコ・ポーロに言及する記録が見つかっていないだけで、

中国に行っていないと言い切ることはできない」てなことになるのかも。

今後、何かしら新たな発見があるかもということでしょうか。

ただ、中国側資料には「マルコが来ていた」という証拠もないわけですが。

となればなおのこと「東方見聞録」自体の信憑性のほどは?と言うことになってきますですね。


フビライの命に従ってマルコが元朝版図の辺境のあちらこちらに行ったという話は裏付けが取れないながら、
紀行文的な側面、旅のようすやら滞在先での珍しい物産等々に関する記述はどうかということになります。


元々の成立過程として「東方見聞録」はマルコ・ポーロが「書いた」ものではなく、
マルコの語りをルスティケロが書き取る形であって、その原本は残されていないのだそうです。


そして、構成に伝わるのは数々の写本になりますが、

未知の世界を紹介した内容に興味を抱く人たちが多かったのでしょう、
たくさんの写本が作られるものの、どうやら話を写していく中では写し誤りもままあり、
また悪意ではないにせよ様々な改変加筆等が行われたようなのですね。


後世の写本といわず、そもそもの書き取り手であるルスティケロは英国王エドワード1世の御用作家として
アーサー王伝説に纏わる物語などを書いた人でもあったそうですから、
最初からついつい物語的なまとまりや面白さを念頭に文章をいじった可能性だって無きにしもあらず。


となれば、記述の信憑性云々を言えるものなのかどうかと言う気さえしてこないではないですね。
ただ、マルコ・ポーロの旅の真偽に疑問を呈した著者の考えたことからすると、
例えばヨーロッパ世界にない、つまりマルコも含めて誰も見たことがない聴いたことがないようなことを
記録していないのは何故なのだろうという点がひとつあります。


中国に17年もいて(マルコの言うように辺境地域へ旅から旅であったとしても)、
万里の長城を見たことはなかったのだろうか。
また、纏足の女性に出会う機会はなかったのだろうか。
はたまた、お茶の文化に触れる場はなかったのだろうか…。


いずれも、欧州側からは目新しい、新奇な、珍奇なことどもだったでしょうけれど、
「東方見聞録」には全く記載が無いのだそうですよ。


簡単に結論だけもってきてしまうのは適当ではないのですが、著者の考えはこうなります。
まずマルコの父ニコロと叔父マッフェオが商旅の延長で東方に出向き、フビライ・ハンの謁見を受け、
ローマ教皇への親書を携えて帰朝したのは事実であろう。
二度目の東方行でマルコも同行することになったとされているが、
マルコ自身は行っても商売上の出先事務所のあった黒海近辺までで、それより東には行っていない。


交易の十字路のような場所で入手できるペルシア等が起源の東方紹介文献で知りうる限りの知識を使って
(つまりは情報を得ている範囲内で)ルスティケロに語って聞かせたのではないか。


てなことで、マルコ・ポーロと言えば「東方見聞録」の作者であって、東西文化の交流に功績があった
(中国の餃子をイタリアに紹介してラヴィオリが出来たとか、またその逆とかいう説もあるそうで)
とされるわけですが、「そうともいえんぞ」という気も。


もちろん、本書の中で展開されるのも推論で「行っていない」確たる証拠があるわけでありませんが、
「んな、ばかなことがあるわけが無い」と思い込んでしまってるようなことにも、
そうでない可能性があると考えてみる発想、これは持ってていいよねと思うのでありました。


はて、マルコ・ポーロはフビライ・ハンから数多の財宝を得た百万長者であったのでしょうか、
それとも稀代の大ぼら吹きだったのでありましょうか…。

以前にも書いた記憶がありますけれど、まあいいですかね。

初めてウィーン を訪れたのは大学の卒業旅行でありまして、

思い返せばその頃にはまだ美術館に行って絵を見るを楽しみにしておらなかったのですが、

それでもウィーンに行ったからには「一応押さえておこうね」的に美術史博物館には出掛けたのですね。


重厚な建物の中にはたくさんの絵画が展示されていたわけですが、

およそ覚えているものもないながら、唯一漠たる印象なるもその訪問以来、

頭に刻み込まれたのがブリューゲルの名前でありました。


その後時を経て、すこぉしずつ絵を見ることに興味が出始めた頃、これまた何となくなんですが、

手に取ったのが中野孝次さんの「ブリューゲルへの旅」で、

ここでまた僅かながらインプット情報の更新がなされたものと思いますが、これも内容は覚えていない…。


ブリューゲルへの旅 (文春文庫)/中野 孝次


そうこうするうちに、いつの間にかあちこちの美術館を訪ねるのが大好物になってしまい、

取り分け2007年にベルギー、オランダへ行って以降は旅の中心に美術館があるような体に。


そして、2009年に三度目のウィーン行では

美術史博物館 でブリューゲルに再会することを大きな楽しみともして出掛けたという。


先日、映画「ブリューゲルの動く絵」 を見たことで、

このような個人的ブリューゲル探訪を振り返ってみたわけですが、

この際ですからもそっと知的な?ブリューゲル探訪に接してみようと思ったのですね。


映画のプログラムに解説を書かれていたブリューゲル研究家の森洋子さんによる、

その名も「ブリューゲル探訪」なる一冊です。


ブリューゲル探訪―民衆文化のエネルギー/森 洋子


著者の森さんは、

ブリューゲルの「ネーデルラントの諺」(1559年)に描き込まれた百近い諺のひとつひとつに対して、
当時の文献や史料にあたってブリューゲルが生きた時代に受け止められていた意味合いを

解き明かすことや「子供の遊戯」(1560年)で見て取れる91種類の遊びの図像を研究されたりと、
ご本人の苦労は措いておくのは何ですが、何とも面白そうな研究をされておられるようです。


ピーテル・ブリューゲル「子供の遊戯」


そしてこの「子供の遊戯」を通じて、

森さんが窺い知るブリューゲルの一面をこんなふうに紹介しているのですね。
ちと長いですが、本書から引かせてもらいます。

…今から四百年以上も前に描かれたブリューゲルの《子供の遊戯》をみると、何と多くの子供たちが遊びに没頭していることか。十六世紀中期、国際的に繁栄した商業都市アントウェルペンを思わせる広場で、約二百五十人の子供が九十一種類もの遊びに夢中になっている。ある学者たちは、この画面には笑っている子供がひとりとしていないから、「この絵は大人の世界の寓意」
と推定する。しかし、その解釈はあまりにも一面的だ。知人の幼稚園の園長さんもこう確信する。「遊びやゲームに熱中しているとき、子供は真剣そのものですから、笑ってはいられませんよ。そんなことをしたら負けてしまいますから。」まさにブリューゲルは二十世紀のすぐれた教育家モンテッソリや心理学者ピアジェ以前に、すでに、深く子供の心理を理解していた画家といえよう。

言われてみれば「なるほど!」と。子供は勝ち負けに拘りますものねえ。
「ニコニコしてるのが子供」なんつう子供理解は、ステレオタイプ以下のものやもしれませぬ。


ところで、ブリューゲルには

同名のピーテルという息子とヤンという息子がおり、いずれも画家になってます。


そして、「花のブリューゲル 」とも呼ばれるヤンの方は、

父親が得意とした風俗画とは違う世界を構築しておりますけれど、ピーテル・ジュニアはといえば、

パパ・ブリューゲルの拡大再生産にこれ努めた感がなきにしもあらず。


パパ・ブリューゲルの作品人気に肖って、

工房を構えたピーテル・ジュニアはパパの模作にも励んでいたわけですが、
このシニアとジュニアの同名作を比較してみるてなことも本書の中で取り上げられています。


ざっくり言ってしまうとジュニアに可愛そうですが、

ウィーンその他の美術館で見るジュニア側の絵は「やっぱりパパにはかなわんねえ」と

思えるところではありますね、素人目にも。


そして、ブリューゲル人気に肖ろうとしたのはジュニアばかりではないのでしょう、
ここで「イカロスの墜落」なる作品がクローズアップされます。


ピーテル・ブリューゲル(?)「イカロスの墜落」


個人的には相当にうっかりしていたと言うべきでしょうけれど、2006年に上野の国立西洋美術館で

ベルギー王立美術館 」展が開催されたときに「イカロスの墜落」を見たんですが、

「どうもぎこちないのぉ。雰囲気は分かるけど、ほんとにブリューゲル?」なんつうふうに思ってたわけです。


で、この「ほんとにブリューゲル?」と思ったことが、うっかりではなくしてですね、
そもそも展示段階で「ピーテル・ブリューゲル(?)」と表記されていたのだそうで。
うむぅ、覚えてないなぁ…。


ここでは詳らかに触れはしませんけれど、

この「イカロスの墜落」に「(?)」の表記がついてしまう過程が本書にあります。

こういう探究は下手なミステリよりよっぽど面白いというか何というか。


とまれ、個人的には絵を見る入口にあったブリューゲルですけれど、

あれこれの絵を経巡って「また、ここに戻ったか」の感。
まるで魚釣りにおける鮒のようなものといったらよいでしょうか。

ここのところの体調を鑑みて仕事と通院以外はおよそ出歩くことがない毎日でありますけれど、
いささかの欲求不満を感じる今日この頃。


ずいぶん前に買ってあった芝居のチケットをやむなくホカしてしまったこともありましたが、
ここへ来て小康を得たり(またか?!ですが…)と思いということと、
個人的にはちと奮発した!といえるチケットの公演期日が巡ってきましたので、出かけるかと。
上野の東京文化会館での二期会公演、ヴェルディのオペラ「ナブッコ」を見て来たのでありました。


Chain reaction of curiosity


とにもかくにもオペラ素人でありますので、「ナブッコ」がいかなる話なのかと予習をしたところ、
「ナブッコ」の正式名称は「ナブコドノゾル」、昔むかぁしのバビロニアの王様だとか。


今では記載が変わっているのかどうかですが、かつて習った世界史の教科書的には
ネブカドネザルのことだそうで、これなら知ってる!という。


攻め滅ぼした町から多くのユダヤ人を連れ帰った「バビロン捕囚」で有名な王様ですけれど、
旧約聖書にもあるこれに纏わる話をオペラに仕立てたというものでありました。


こうした歴史的な背景とともに石造りの神殿を模した大掛かりな舞台装置が
十二分にスペクタクル感を醸しておりまして、オペラ素人には結構打ってつけの作品かもしれませぬ。


さすがのヴェルディも3作目の作品とあってか、
場面場面を置いていく感(歌い終わって、はい次!みたいな)が通しのドラマ性を殺いでもいますが、
このあたり歌手の歌の技芸をひけらかすかのようなオペラのあり方の名残みたいなものなのかもですね。


されど、取り分け合唱がパワフルな使いようは見応え聴き応えに繋がるものでもあろうかと思われます。
「背景であることをやめ、ひとつの人格を与えられている」と
今回の指揮者バッティストーニが語ったと公演プログラムにありましたけれど、なるほどと。


ところでこの合唱ですけれど、「ナブッコ」の中には超有名な合唱曲がありますですね。
ユダヤの民衆が望郷の念、帰郷の願いを歌う「行け、我が思いよ、黄金の翼に乗って」という一曲。


イタリア では第二の国歌とも言われますけれど、
初演以降この歌がリソルジメント(イタリア統一)の機運を多いに高めたのだとか。


北イタリアはオーストリア支配下にあり、
ヴェルディの生まれたパルマ(実際にはその片田舎の生まれのようですが)のあたりは
フランス領であったりと、今でいうイタリアはいまだばらばらの状態。


自分の国を自分たちの手に取り戻そうという気持ちが先ほどの合唱曲で刺激されて、
初演時から大喝采されたと伝えられてきたのですね。


しかしながら、本当のところはそうでもないようでどうやら作られた話なのだとか。
リソルジメントの動きには、ひと筋縄でいかないまとまりを欠いたところがありましたけれど、
とにかくこうした運動には盛り上がりが必要で、有名人を祭り上げることが求心力に繋がったりする。


それが、イタリア・オペラで当代一の作曲家ジュゼッペ・ヴェルディだったのでありましょうね。

統一前のイタリアでは「Viva! Verdi!」という歓呼の声やら落書やらがあったりしたそうですが、
これは「Verdi」は「Vittorio Emmanuele Re D'Italia」(イタリア王ヴィットリオ・エマヌエーレ)の
頭の文字を拾っていくと結果「VERDI」になるんだそうで。


こうした語呂合わせが可能だったことも、ヴェルディを借りとこうということにもなったのではないかと。
何しろ有名人だったでしょうからねえ。


というころで、1842年の「ナブッコ」初演時にも合唱で運動機運は爆発寸前!みたいなことがあった…
ことにしておこうとなったもかもですね。
遡って、ヴェルディとリソルジメントの関わりを作り出すという点で。


長らくそれが信じられてきたわけですが、よくよく研究してみれば、
1842年に統一運動機運というのは早すぎる?ということだそうで。


1848年、フランスの二月革命がウィーン に飛び火して三月革命が起こる。
宗主国オーストリアの揺らぎに対して、北イタリアは大いに盛り上がった…てなあたりには、
1842年は早すぎないかというのですね。


また、そもそもナブッコのオペラ化をヴェルディに持ちかけたのはミラノ・スカラ座の支配人であって、

オーストリア支配下でこうした要職は体制側の人間であったろうと。
実際、この人物はウィーンのケルントナー・トーア劇場の支配人も兼ねていたのだといいます。


当時は芝居やオペラなどの上演では検閲を受けて、作り手の側が難儀する時代。
支配人が提供した材料がいざ反体制的な運動を煽るものだったりしたら、
当の支配人にもどんな処遇が待っていたことか。
でも、その後もやっぱり同じ人物がスカラ座の支配人を続けてますし。


てなことで、たったの150年あまり前のことながら、
よくよく調べてみないと本当のところは分からないのですねえ。

吾輩はシャーロック・ホームズである 」のところに書きましたように、
1902年にロンドンから日本の文部省に宛てて「夏目 狂せり」の電報が届いたというのは
どうやら本当のことらしいのですけれど、いったい発信人が誰であったのかは
(あれこれ想像されるところではあるものの)不明なんだそうですね。


なんでも現物が関東大震災で焼失してしまったのだとか。
ふと思ったんですが、それなら発信地ロンドンの側に何かしら記録が残ってそうな気がしますが、
研究者があれこれ探索しても分からないということは、もはや「藪の中」とでも言うしかないのかもです。


ところで、「狂せり」とまで言われたロンドンでの夏目漱石 (当時は夏目金之助)の留学生活は
いったいどんなものだったのでしょう。
そこんところをちと探究しようかと手に取ったのが「漱石と不愉快なロンドン」であります。


漱石と不愉快なロンドン/出口 保夫


漱石が陥った神経衰弱の原因としては、

留学目的たる英文学研究の行き詰まりみたいなふうに聞いたことがありますけれど、
本書のタイトルに見るようにロンドン(の生活)が水に合わなかったふうにも聞いたことがあるような。


でもって、いざ本書に従ってロンドンでの留学の日々の様子を事細かに追っていきますと、
著者も言っているとおり、そしてその著者が付けた本書のタイトルに反して、
漱石は決して「不愉快なロンドン」というばかりの意識ではなかったろうと思われてくるわけです。


そもそも論で言いますと、留学に派遣されること自体からしてその後の「うまくいかない感」は

すでに予想されていたのではなかろうかとも思えるところですし。


明治新政府としては、将来のために西洋知識を吸収に努めるべく留学生を派遣していきますが、
当初はもっぱら技術的な、つまりは理系的な分野でのエリート養成なのですね。
1884年に森林太郎(
森鴎外 )がベルリンに出向いたりしたのも、脚気の研究 ですし。


それが明治になって30年余りも経ったところで、文系分野にも目を向ける余裕が出てきたのでしょうか。
(費用の点でも日清戦争の結果得た賠償金を回す余裕とも言えるかも)
分けても今後のことからすれば、多くの者に英語の修得を図るために

英語教授法の必要性はむしろ喫緊課題であったかもですね。


こうして文系分野の留学第一弾として
熊本の旧制第五高等学校英語教授であった夏目金之助がロンドンに派遣されることになりますけれど、
承諾するにあたって漱石は文部省に敢えて「留学の目的は英文学研究でよろしきや否や」を尋ねたのだとか。

漱石の将来構想はすでにして「一介の英語教員で終わるを潔しとせず」てなものだったのかもしれません。

ただ、文部省としても段取りを踏んで決めたことが

土壇場でひっくり返されるような面倒は避けたいこともあってか、「それでよい」と返答したそうな。


英語教授法と英文学とではやることが違うだろうと思うところですが、
ともかく英語の達人になってきてくれるならそれもまた役に立つだろうくらいのことだったのかもです。


おそらくはそれまでの留学では、その目的も研究先(場所のみならず研究機関も含めて)も、
場合によっては指導教員までもが決まっていて「しっかり学んでこいよ」という

お膳立てがされたのではと想像しますが、漱石の場合は

派遣する側とされる側でそもそも目的が合致していませんから、
どこでどう学ぶというのもはっきりしておらず、とにかくロンドンで勉強するということありきだったような。


到着早々に伝手を頼ってケンブリッジを訪ねたり、ロンドン大学で聴講したりもしますが、
どうも漱石の思惑にぴったりこない。


やがて、シェイクスピア研究家のクレイグ先生に個人指導を受けるもやはり止めてしまい、
たどり着いたのはひたすらに書物を向き合い読み込むという独習法であったわけです。


当然下宿に籠もりがちになりましょうし、

この部分だけみると「ロンドンが嫌いだったのでは」という気がしないでもありません。
しかし、確かにくさくさした思いもあったでしょうけれど、そうとばかりも言えないような。


言葉に関してはネイティブ同様とは言わないまでも、散々勉強してきた自負がある。
食事も元よりこってい系が好みらしく、口に合わないわけではない(やがて胃潰瘍になってしまいますが)。
威風堂々たる建造物に目を奪われるようなところもないではない。
ほんの時折にせよ、日本人仲間と句会をやったりする楽しみもある。


下宿ではいささか苦労したようですけれど、限りある支給金で必要な原書の購入費用を考えれば
止むを得ないと感じてもいたようではあります。。


となれば、漱石を追い込んだことのひとつには
あまりに留学生活があまりに自由だったことがありましょうね、たぶん。


例えば、森鴎外の留学目的は脚気対策の研究ですから、非常に具体的なわけです。
それに比べて、漱石の場合は文部省の言う英語教授法の研究ならまだしも

漱石自らが申し出た英文学研究では「何をどうするのか」がちいとも明確ではありません。


ケンブリッジにもロンドン大学にも顔を出した、専門家に個人教授も受けてみた、

原書の読み込みもやっている、されどまだまだ先と思っていた留学期間のお終いが

どんどん近づいてくるのに、形になる何もなし得ていない…。

とにもかくにも時間の自己管理とは難しいものでありますよ。


また、帰朝が近いとなれば日本に帰っての処遇もまた気になるところ。
「熊本の五高に戻るのでなく、せめて東京の一高に教授職を」などと知己を通じて運動をしてみるものの、
日記にはまるで反対に思える決意表明をしてみたり。

「徒らに将来に望を嘱する勿れ 満身の力をこめて現在に働けというのが乃公の主義なのである。然るに国へ帰れば楽が出来るから夫を楽しみに辛防し様と云ふのは果敢ない考だ」

現実と高邁な思考との間に陥って、身悶えせんばかりであったのかもしれないですね。


ところで、先に読んだ「吾輩はシャーロック・ホームズである」に出てきた漱石の自転車乗りの話。
どうやら精神的な疲弊状態には気分転換が必要と医者から勧められたのが

自転車乗りだったそうです。もっとも漱石の場合はその練習から始めたようですが。


興が向けばではあったかもしれませんけれど、自転車を駆ってロンドン市街地を通り抜け、

日本人の友人の下宿を訪ねたりもしていたという漱石先生。
ロンドンがどうにも不愉快でたまらぬところであったなら、

こうひょいひょいと出歩いたこともなかろうにと思ったりするのでありました。


あ、そうそう、ちなみにです。

本書のカバーにある、例の小首を傾げた漱石の有名な写真。

よく見れば、腕に巻いているのは喪章だそうで、明治天皇崩御に際しての写真であったそうな。

知りませんでした…。

いささかバッハの話 が続いたので、
それではその先達であるヴィヴァルディ の話にと考えたわけではありませんけれど、
結果的にはそういう展開に。


アントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)はヴェネツィアのピエタ養育院で音楽を教授していましたですね。
その辺りを材料に書かれた大島真寿美さんの小説「ピエタ」 を先に読んだわけですが、
その「ピエタ」を返しにいった市立図書館でたまたま新刊コーナーに置かれていたのが、
ティツィアーノ・スカルパ作「スターバト・マーテル」でありました。


スターバト・マーテル/ティツィアーノ スカルパ


こちらもやはりピエタ養育院とヴィヴァルディとの関わりを取り扱っているとあって、
そのうち読もうと思っていたのが、ようやっと最近読んだという次第。


題材が同じでもありますから、ついつい「ピエタ」と「スターバト・マーテル」を比べてしまうわけですが、
ずいぶん趣きの異なる二作品であることよ…と思うところです。


「ピエタ」の方は物語として話の流れを辿りながら情景を思い描きつつ読むような印象。
一方、「スターバト・マーテル」はと言えば、多くは主人公チェチリアのモノローグで構成されて、
どちらかというとチェチリアの心象を覗き見るという印象でしょうか。


いずれもピエタ養育院を舞台するからには、親に捨てられた孤児たちが登場人物であって、
「ピエタ」のエミーリアも密かに親探しをしたりということが描かれるますけれど、
「スターバト・マーテル」のモノローグは一度も会ったことの無い母親に向けて手紙を書く体裁を取りつつ、
実際は書くのでなく語りかけているという。

そして、その内容というのがこのようなものなのですね。

お母様、今日はお手紙を書きませんでした。気づかれましたか。
わたしがあなたのことを考えなければ、あなたは存在しません。
わたしの生は、あなたを存在させないひとつの方法なのです。ときどき、こう考えることがあります。今日はお母さんのことを考えないって。これがわたしの仕返しです。

こうした心の闇の発露は、「ピエタ」にはない濃厚さを感じさせる部分です。
一面、「ピエタ」の話に見るような健気にも元気に音楽と向き合っている姿はありながらも、
実は心の中ではこんなふうに考えていたんだね…というのが「スターバト・マーテル」かなと。


ですが、こうした本来心の奥に秘めた部分が突如として露わになることがあるわけでして、
そうした側面を敏感に音楽に昇華(音楽で消化?)してしまうヴィヴァルディがいるのですね。


発端は、チェチリアが幼い子たちにヴァイオリンの面倒を見ている場面です。
やおらチェチリアが指示したのは、ヴァイオリンでツバメの叫ぶ様子を真似ること。


「きぃ~」とか「ぎぃ~」とか、とても音楽と言えそうもない音を子供たちに出させるのですが、
最初は戸惑っていた子供たちも皆でやっているうちに気持ちが高揚してきて、

「きぃ~」とか「ぎぃ~」の大合奏に。


これを聞きとがめた修道女に制止されて、

「なぜこんなことを?」と問われたチェチリアはこう答えます。

単調な繰り返しの外に出してあげたかったのよ。
あの子たちに、世界はふだん思っているより広いのだって、感じさせてあげただけ。

チェチリアが抱く日頃の抑圧への思いがひしと感じられる部分ではなかろうかと思うところでして、
修道女にはぴんときていない様子ながら、後からこのことを知ったヴィヴァルディは

子供たちに「ツバメの叫び」を再現させ、他にもいろいろな擬音を試みさせるのですね。


これが契機となって、自然描写を含んだ協奏曲集が作り出されることになる。
つまりヴィヴァルディ作品で最も有名な「四季」の誕生に繋がると。

(そういえば、「ピエタ」の方も協奏曲集「調和の霊感」 の作曲に話を絡ませてましたっけ)


もっとも、ヴィヴァルディが「四季」を含む協奏曲集「和声と創意の試み」作品8を書いたのは
ピエタ養育院を離れていた時期だそうですから、このエピソードは完全なフィクションですけれど、
主人公チェチリアの人物造形の延長線上として収まりはついているように思えるところです。


ヴィヴァルディの作曲の変遷としてみても、
12曲からなる作品8以前にはおよそ標題の付いた曲はなかったようですので、
何かしらの転機というか契機となる事柄があったのかもしれません。


さて、その転機・契機となった本当のところは何なのか、

気になるところですけれど、それを探るのは本書の範疇を越えた話でありますね。


とまれ、2冊で表裏を成すとまでは言えないかもですが、
どちらかを読むとしたら、どうせなら両方読んでみるものいいのではないかなと思ったのでありました。


ところで全くの余談ですけれど、

本書のカバー絵を見て、ジョージ・フレデリック・ワッツ の「希望」を思い出してしまいました…。


ジョージ・フレデリック・ワッツ「希望」