読響の演奏会に行ってきました。
年間会員券だもんですから、行かないともったいないし…という言い方では

ずいぶんと消極的のようですけれど、シベリウス の「森の精」を皮切りに

カレヴィ・アホというフィンランド のリアルタイム作曲家による何とも珍しいテューバ協奏曲と
チャイコフスキー の交響曲第6番「悲愴」というポピュラーな曲目との風変わりな?組合せ。


演奏の方はといえば、ここのところの睡眠不全による爆睡必至の予想があったものの、

取り分け「悲愴」の、オスモ・ヴァンスカの指揮によるきびきびした演奏はなかなかに面白く

(きびきびが「悲愴」にマッチするものかどうかは別にしてですが…)

第4楽章が際どいくらいで何とかなったのは幸いでしたけれど。


ところで、チャイコフスキーで思い出したんですが、
しばらく前に先に読んだ「ドレの昔話 」に収録されていたおとぎ話の中には、
「シンデレラ」のように映画(「エバー・アフター 」のことですが…)になるものもあれば、
音楽の題材に取り上げられるものもままありましたですね。


もちろん「シンデレラ」からしてロッシーニ がオペラにしていますし、
「あおひげ」もバルトーク がオペラ「青髭公の城」を作っているという。


でも、「ドレの昔話」所載の物語の中では、音楽作品としてはやっぱり「眠り姫」を元にした

チャイコフスキーのバレエ「眠れる森の美女」が最も有名ではないかと。
そうは言ってもバレエでは見たことがないのですけれど…。


ところで、見たことないのでこれまで知らなかったのも当然(いばることはありませんが)ですが、
どうやらチャイコフスキーの「眠れる森の美女」は

単に「眠り姫」のストーリーに擬えて作ったというわけではなさそうで。


何しろ終幕である王子とオーロラ姫との結婚式の場面には長靴をはいた猫やらシンデレラ、

赤頭巾と狼、そして親指小僧までご登場とあっては、ペロー童話の主人公たちのオン・パレードの様相。

さらにはペローではないですが、メーテルリンク の「青い鳥」まで友情出演(?)しているそうで、

凄い作品だったのですねえ。


ところが、この賑々しく楽しそうなバレエ「眠れる森の美女」ですけれど、

1890年初演時の評価はといいますと、なかなかに厳しいものであったそうでして、

当時の新聞にはこんな批評が載ったのだとか。

…バレエではなく妖精物語である。そのすべてはディヴェルティスマンに終始した。チャイコフスキーの音楽は演奏会用作品でまじめ過ぎ、重厚過ぎた…。

そしてさらに初演が悲惨という点では、

同じチャイコフスキーの作品でバレエ史上の超有名作である「白鳥の湖」(1877年初演)も

やはり芳しからざるものであったのだとか。


およそクラシック音楽をお聴きになることがなく、仮にチャイコフスキーの作であることを知らなくても、
今では「白鳥の湖」というバレエがあるてなことだけは知ってるという人がおそらくおいでなんじゃないでしょうか。


それほどに名を残している作品の受けが悪かったという理由のほどは?と思いますし、
まあ後々の評価と初演時の反応が著しく異なることはままあるところですけれど、
この「白鳥の湖」も「眠れる森の美女」も基本的には同じ理由、
つまり当時のバレエの観客には斬新な、もそっと分かりやすくいうと

立派過ぎる音楽をつけてしまったのでしょう、チャイコフスキーは。


当時のバレエがどんなものだったかを想像するに、エドガー・ドガ の絵などが参考になりますですね。
例えば、有名な「エトワール」(1878年頃)という一枚。


エドガー・ドガ「エトワール」


中野京子さんはこれを「怖い絵 」としていますけれど、
「エトワール」すなわち「スター」の意であってパリ・オペラ座の花形ダンサーを描いていながら、
左側の袖に見え隠れするパトロンの姿が描かれている。

つまりはバレリーナ残酷物語的な意味で「怖い絵」となるわけですね。


こうした踊り手を鑑賞物として見る見方があったのと同じ流れに沿って、
バレエの見所はといえば踊り子の脚線美を愛でるとか、
次々と形作られるポーズの妙技を見るてなところがあったのだという。


こうしたことが「バレエの楽しみ」だと思っていた鑑賞者たちに対して、
チャイコフスキーは踊りと音楽でストーリーを紡ぎ出す総合芸術としてのバレエを目論んだものの、
結局観客には思惑外れに映っただけに終わってしまったようです。


まあ、これがチャイコフスキーのバレエ初演時に起こったことのようで、
音楽単体というよりは、バレエの公演そのものが従来どおりとい期待をして訪れた観客の

思惑とずれていたのありましょう。


「眠れる森の美女」のときの先に引いた新聞評に戻ってみると、

「バレエではなく妖精物語である」という指摘は、

実は「バレエで描き出す妖精物語」ということがきちんと伝わっているのですね。


そも「バレエ」の捉え方に違いがあるために否定的に受け止めざるを得ないとしても。

その後のバレエが単なる「見世物踊り」から脱して、

後には芸術性で評価されるようになったことをチャイコフスキーが知ったら、
「それでいいのだ」と大いに頷くかもしれないですね。


…とまあ、バレエといえば

「白鳥の湖」全幕を一度見たことがあるだけの者が好きなことを言ってしまいました…。

ご来訪者各位


お立ち寄りいただいた方々にはどうでもいい話に違いないところでありますけれど、
本日2月25日は弊店「Chain reaction of curiosity」の開業記念日なのでして。
丸五年が終了し、今日からは六年目ということになりました。


昔語りの方は昨年やそれ以前に書いたこと に譲るとしても、
こういう折りですからちと個人的な現況に触れておこうかなと思ったりしております。


昨年の12月半ばというか下旬というか、そうした時期から今に至るまで相も変わらず
横たわって寝ることのできないままで来ておりまして…といったことは断片的にも書いてきましたが、
「では、いったい何なんだ?こいつの調子の悪さってのは…」を少々披瀝させていただこうかと。


どうやら「頸肩腕症候群」なるものらしいとは言ってもいいのかもです。
症候群という言葉通りに「あれこれ症状は出ているけれど、この言葉そのものが病名ではないけんね」という代物。


首(頸椎ですな)、肩(というより肩甲骨あたりでむしろ背中に近い)、腕(指先まで含めて)といった
身体部位のあちらこちらに痛み、痺れ、だるさ、痙攣等などが現れているのですけれど、
こうした症状を呈していながら、例えば「頸椎椎間板ヘルニア」とか「脊柱管狭窄症」とかいう
具体的に明確な病名を特定できるものを除いたものを総称して「頸肩腕症候群」と言ったりもするようです。
試しに検索してみると、「ひどい肩こり」くらいの軽めの記載で終わってるものもあるようですが。


とまれ、症状を悪化させないためにも「同じ姿勢をとり続けない」ことが肝要でして、
とりわけPCに向かっている姿勢というのが最悪なのですね。

というより、1月半ば頃の(今から思えば)最悪の状態の頃には

そもそもPCの前に1分と座ってられませんでしたけれど。


ちょうどその頃に、同僚からこうした症状に対する治療を専門としている医師の紹介を受けて、
それからは亀の歩みにも似た速度ながら改善に向かっているようには思えております。


首、肩、腕の痛みや痺れがあり、夜には壁に凭れて寝てみるも
だんだん痛みが溜まってくる感があって2時間も寝てられない毎日はなかなかにしんどいものですが、
あまり鬱々としてばかりいては反って違う病気までなってしまいそう。


ですから、なるたけ楽天的思考で過ごすようにはしているのでして、

ま、ちょこちょこっと記事を書くくらいならできるかなと(それだけ改善はしたのだと思いますが)
2月からは書くことを楽しみとして前向きに臨んでおるわけです。

結果的に毎日の記事が従来と変わらぬ長さだったりしますけれど、これも性分でしょうか。


ただそれでもうPC対応は精一杯といった感じだものですから、
本当は覗かせていただきたい皆様のブログにお邪魔できずにいるような次第。


ご訪問いただき、ましてやコメントまでいただいたりしていながら、
何もできずに実に実に心苦しく思っておる日々でございます。


間違いなく改善の方向に向かっているとは思うものの、

状況は「三歩進んで、二歩さがる」的なところがままあり、
出口を見出しかねているようなところはありますけれど、

6年目となります弊店へご来訪の折りは今しばらくのあいだ何卒諸事情ご賢察の上、

お立ち寄りいただけましたら幸甚でございます。


当方といたしましても、やがてまた皆様の元へ親しくお邪魔をさせていただく日が
遠からず訪れることを切に願っておる次第でございます。


店主謹白

ロンドン留学中の漱石 が出くわしたヴィクトリア女王(1819-1901)の崩御。
下宿の主人と連れ立ってロンドン市内を巡る葬列を見に行ったものの、
例えばハイドパークあたりでは木々に人間が鈴生りになっているような大混雑とあっては、
辟易する漱石の姿が目に浮かぶようでありますね。


ところでそのヴィクトリア女王 であります。
1837年から世紀末 を経て20世紀の頭まで

ヴィクトリア朝 とも言われる英国の繁栄を齎した君主だったわけですが、
長年の治世なればこそ最初のうちは若年だった(18才で即位)のでして、うまくいかないことばかり。
そのあたりに触れた作りになっているのが、映画「ヴィクトリア女王 世紀の愛」でありました。


ヴィクトリア女王 世紀の愛 [DVD]/エミリー・ブラント,ルパート・フレンド,ポール・ベタニー


またしても邦題がいただけませんですね、単なる恋愛もののようになってます。
原題はストレートに「Young Victoria」。
ただ、これも単純にカタカナにして「ヤング・ヴィクトリア」みたいにしてしまうのもどうか…ではありますが。

(なんだか「ヤング・シャーロック」みたいですし)


大事に大事に育てられたケント公女のヴィクトリア。
ディズニー映画「アラジン」 のジャスミン姫ではありませんけれど、

常々宮殿の中での「かごの鳥」状態に飽き飽きしている様子でありました。


しかしながら大事に大事に育てられた背景は、
当時の王様ウィリアム4世が崩御された場合に王位を継承する血縁が

後にも先にもヴィクトリアただ一人という状況であったからですね。


ヴィクトリアの母親ケント公妃はドイツから輿入れしてきてヴィクトリアをもうけたものの、
夫が先に亡くなってしまい、英王室内で「ドイツ女!」みたいな言われようで苦労もしたのでしょうけれど、

映画でも描かれていたようにどうもすっかりいただけない人物になっていたような。


もっとも、ヴィクトリアが生まれたばかりの頃には
まだ王位が継承される可能性を持つ者(例えばヴィクトリアの父親とか)がいたことから
極端に注目を浴びていなかったのか、そも「ヴィクトリア」という英国王室におよそ類を見ない命名からも
察することができるようです。

(エリザベスとかメアリとか、はたまたマーガレットとかそういう名前は付けてもらえなかった)


そんなヴィクトリアですけれど、

成長過程ではどうしたって自分が第一の王位継承者であると知ることになったでしょうね。

歴史上に女王がいないわけではもちろんありませんでしたし。


されど、この映画では早くから帝王教育が行われていたふうもない。
それでいて、ヴィクトリアは自ら「若年で経験不足」と言いながらも摂政を置くでもなく、
即位後直ちに親政を開始(といっても「君臨すれども統治せず」ですが)するわけですから、大したもの?です。


とはいえ、メルバーン子爵のように「この人、味方」と思うととことん頼ってみたり、

周囲を取り巻く女官人事に口出す首相と口論してみたりとあっては、

結果として政情不安を醸し、民衆からは罵られ、暗殺されかかるようなことにまでなっていくという。


ただ、映画の作りとしてはそのあたりのどうも展開が通りいっぺんなようながしてしまいますですねえ。

その代わりザクセン=コーブルク公子アルベルトと恋を育むあたりに力点ありやと思えば、

必ずしもそうでもないような…。


映画としてはそんなふうではありますけれど、

何事にも心もとない若き日の女王陛下が紆余曲折を経てたどり着いたのが

アルバート公 (アルベルト)との二人三脚。


元々は欧州諸国間の勢力均衡が期待されてベルギー国王(ヴィクトリアにもアルバートにも叔父)が

推し進めた縁談ではあったとしても、どうやらヴィクトリアはそれを選びとったわけですね。

単に結果オーライだったのかもですが、初めの頃にヴィクトリアが成した最大の功績は

このアルバートを選んだことだったのかもしれませんですねえ。

この世における新しいヒエロニムス・ボスとは誰か…師の画風で、汝の芸術の機知に富んだ、ユーモラスな創意によって、汝はいかなる芸術家よりも高い名声と賞賛を受けるのである。

ここで「高い名声と賞賛を受ける」とされた「汝」とは誰のことであるかといえば、
ピーテル・ブリューゲル (もちろんパパ・ブリューゲルですが)なのですね。


1572年にドミニコ・ランブソニウスという人が著した

「ネーデルラント著名画家の肖像集」から引いてきましたので、
まさに当時の現代作家であったブリューゲルがかほどに称揚されているという。


ただ、その称揚されるべき人をして「新しいヒエロニムス・ボス」と言っているとなれば、
当然にヒエロニムス・ボス(1450頃~1516)の評価がまずもって高いものであったろうと偲ばれるわけです。


先に「ブリューゲルの動く絵 」のところで、

キリスト教関連の図像が描かれるときに伝統的な構図やらがある一方、
例外的に独自性の強いものが現れる…みたいなことを書きましたけれど、
まさに、このブリューゲルの師匠筋に当たるヒエロニムス・ボスが描いた

「十字架を担うキリスト」などはピタリではないかと。


ヒエロニムス・ボス「十字架を担うキリスト」


ゲント美術館 で実物に接近して見たことがありますけれど、
「こうも人相の悪い連中ばかりをよく集めて描いたよなぁ」と思ったものです。

ですが、注目すべきはその構図であったなぁと思うのですね。


ここにはゴルゴダの遠景もなければ、遠巻きにして何もできるまま呆然と見送る者たちもなく、
見ようによっては中央のイエスなどそっちのけで睨み合い、罵りあうような人間たちを
ぎゅっと画面に押し込んで濃縮還元したような絵柄。


画面左下でまさに混沌から抜け出そうとしているヴェロニカの穏やかな表情だけが
(イエスの汗のぬぐった布に浮かび上がるイエスの顔も穏やか、というか無表情ですが…)
唯一の救いのような気もします。


もっともよくよく見れば、ヴェロニカの額にかかるほつれ毛が、
表情としてはぐっと感情を堪えているのだなということを十二分にしのばせはしますが。


というところで、中野孝次さんの『ヒエロニムス・ボス「快楽の園」を追われて』を読みつつ、
あれこれボスを見てみることにしたのですね。


「悦楽の園」を追われて―ヒエロニムス・ボス/中野 孝次



本書は基本的にエッセイでありますから、研究に裏打ちされた作品解説のようなものではなく、

著者が個人的にこう思うというところを記したもの。
のっけからこんなふうに語られます。

ぼくがボスの絵に最初に出会ったのは、ブリューゲルを探索している過程でだった。…むろんブリューゲルが初めは徹底してボスを学び、ボス風の版画で出発したことは知っていたから、その師匠の絵として真剣に見た。
 ところが、いくら熱心に見てもボスの絵はわからない。最初に出会った《悦楽の園》や《乾草車》などずいぶん時間をかけて見たのだったが、何を表現した絵なのか、画家をしてこれを描かせたモチーフは何か、いくら見てもぴたっと理解できたという感じが来なかった。

いくら熱心に見てもわからない、理解できたという感じが来ない…
感想の実に率直な開陳でありますね。


半可通というか、もそっとはっきり言えば素人にとって
「そうでしょう、そうでしょう。さもありなむ」と思うわけです。


タイトルにも使われている「悦楽の園」、一般的には「快楽の園」でしょうけれど、
これを見た第一印象が「なんじゃ、こりゃ?!」と思わない人の方が信用できないというか何というか。


ヒエロニムス・ボス「快楽の園」


ですが、著者は著者なりの理解を深めていく過程がだんだんと語られていき、
ボスを見ていくときに「なるほどね」と思えるところにも出くわすのですね。


例えば、一般に三連の祭壇画は中央をメインに左右両翼が対照される内容があって、
それで対称形になっていますけれど、ボスの三連祭壇画は

基本的に左から右への時系列で成り立っているという。


なるほど「快楽の園」でも左翼と右翼に構図上の対称性はおよそ無いのでして、
簡単に言ってしまうと、左から右へ前世、現世、来世といったふうに並んでいるというわけです。


それがそうだとして、「じゃあ、描かれているのは何なんだ?」の答えにはなりませんけれど、
それは自由にこれから考えることにしてと思うのですね。


何しろ「わからない」「理解できない」と仰る方が本書のような本を書いてるのですから、
勇を鼓して勝手な解釈を楽しめるというものではないかと。

この間「シンドラーのリスト」の音楽 のことに触れましたけれど、
ホロコースト絡みの映画ということで、昨年末近くに「サラの鍵」を見ていたことを思い出したのですね。
まだ公開中であったり、これから公開になる地域もあるようですから、時期外れということもないでしょうかね。


Chain reaction of curiosity


1942年7月16日。
ナチス占領下のパリで、ユダヤ人の一斉検挙が行われたという。
一時的な収容先となったのが屋内競輪場(ヴェルディヴ)であったことから

「ヴェルディヴ事件」とも言われますけれど、物語はここから始まります。


住まいを強襲され、有無を言わさず即座に連行されるという事態の最中、
サラは納戸に隠れているよう幼い弟に言い含め、見つからないように外から鍵を掛けてしまいます。
サラとしては、すぐに家に帰ってくる…そういうつもりだったのですね。


両親とともにヴェルディヴに連れてこられたサラも、

酷い暑さの中で水も与えられず、トイレもない状況を見て事態がただならぬものと気がつくのですが、

そうなるととにかく納戸で待っている弟のことが案じられてならないわけです。


ところが、ヴェルディヴはほんの仮住まいで、やがて強制収容所への本格的な移送が始まりました。
父と別れ別れとなり、母とも引き離されて辿り着いた途中の収容施設でも、
サラは弟のことが頭から離れず、ついには脱走を図ります。


そして、逃亡の途中で手を差し伸べてくれた老夫婦の援助を得て、なんとかパリに戻ったサラ。
一散にかつての自分たちの住まいへと駆けつけ、もはや別の家族が住んでいるのもお構いなく、
すぐさま納戸の鍵を開けてみるが…。


ストーリーは、サラの物語という過去と、
サラの消息を追いかけるジャーナリストであるジュリアの物語という現在とを行き来しながら進んでいきます。


パリに戻って納戸を開けて以降のサラの様子は、

ジュリアの取材と調査の結果として徐々に詳らかになっていくのですが、

ジュリアの追究熱に対して夫のベルトランはこう冷水を浴びせるのですね。

真実を知ってだれかがよりしあわせになるのか、世界が今よりよくなるのか。

サラがパリに戻ったときに元の住まいに住んでいた住人とはベルトランの祖父母一家であって、
家族の者たちは誰もが「忘れた」ことをジュリアは容赦なく露わにする方向に向かっていたわけです。


こうして、サラの鍵は思わぬ展開ばかり見ることになったのですね。
最初は、弟を助けるつもりで鍵を掛けてしまった。
次には、想像はしつつも目の当たりにしたくない事実を知るために鍵を開けてしまった。
納戸が開いたと同時に、ベルトランの祖父母一家の心にサラは鍵を掛けることになってしまった。
そこで見たことを無かったこととして、皆の胸の内に封印すべく。


個の話としては、こうした心のうち、ベルトランのひと言というもの分かりますね。
ところが、マスの話としては封印してしまってよいものでは必ずしもないのでして、
いかにナチス占領下であったとはいえ、このユダヤ人強制収容が行われたことをフランス政府は
50年以上も公に明らかにすることがなかったそうなのですよ。


誤解のないようにここで付け加えておかなくてはならないのが、
この強制収容がフランス警察の手によって行われたということでしょうか。


占領下だったのだからナチスに迎合せざるを得ないという側面はあるにせよ、
元々地続きの欧州にあって隣接するドイツとフランスで、
ユダヤ人に対する感情が180度違うとまでは言えないものが、やはりあったかと思うところです。


ナチスのように「ユダヤ人根絶」のように言いはしないものの、
フランスでも昔ながらのユダヤ人蔑視はあったと想像されますし、個々のフランス人が手を下すこともなく、

ユダヤ人の災難を傍目で眺めるような風潮もあったのかもしれません。
ドレフュス事件のあった国でもありますし。


ま、そのことに対してここでで声を大にしてもの申すものではないものの、先のベルトランのひと言は、

ジュリアという個に対しては「そういうことのあるよね」と思えるものであるのに対して、
フランスという国に対しては「そうね、だから黙ってようね」とは言いがたいものに思えるなぁと。


ところで、開けた蓋はもはや閉じようがない状況のジュリアによって、

サラのその後が明らかになっていきます。


アメリカに渡って家族を持って…しかし、サラ本人にはついに会うことはできなかったのですね。

やはり、こちらの家族でも鍵をかけて封印したことがあり、もはやそれを知らない世代が育っているという。


それをこじ開けてサラの思いを想像するとするならば、
なぜ納戸に鍵を掛けてしまったか、またなぜ納戸を開けてしまったか、

そしてなぜ自分はその後も生きてきたのか…といったことになりましょうか。


鍵に拘るようですけれど、

やはりサラは納戸の鍵をかけた瞬間に自分の人生を閉じ込めてしまったのだなと思うのですね。
もちろん、脱走せず最終的に強制収容所送りになった方がよかったなどと言うわけではありませんけれど。