この間のことですがFM放送でクラシック音楽の番組を聴き始めると、
ちょうどロベルト・シューマン 作曲の歌曲集「詩人の恋」が流されるところでありました。

演奏者紹介のところで「おや?」と思いましたのは、独唱がソプラノのバーバラ・ボニーであるという。


私が眠る時~リスト、シューマン:歌曲集/ボニー(バーバラ)


タイトルは「詩人の恋」ですから、日本語的には「詩人には男も女もいるでしょうに」というわけで、
ソプラノの歌い手さんが歌って何が悪い!となりそうな。


ですが、ドイツ語オリジナルの「Dichterliebe」の「Dichter(詩人)」は男性のことでして、
女性だと「Dichterin」になろうかと思うわけです、文法的には。


もっとも昨今のドイツ語で、

この男女の区分けがかつてとは違うことになってるかどうかは分かりませんけれど、
(近頃のことでいえば、フランスで公的書類から「マドモワゼル」の表記が消えるとか伝えられたりしましたですね)


ともかくシューマンの時代を考えてみれば、明らかに男性の詩人のことなわけですね。

また、ここでの「詩人」がシューマン本人といってはおかしいかもですが、
作曲当時のシューマンの思いたるや恋の喜び嘆きこもごも思い乱るるところを

ハインリヒ・ハイネの原詩に託してうたいあげたといえないこともないかと。


この歌曲集の作曲が1840年の春頃、そして何年ごしにも恋い焦がれたクララとの結婚が同じ年の9月。
恋の最終局面で苦悩懊悩のシューマンの姿が浮かぶようではありませんでしょうか。


も少し客観的に?曲に耳を傾けてみると、例えば第7曲の「Ich grolle nichit(私は嘆くまい)」あたりは、
自分を袖にした女性に対して実は未練たらたらながら虚勢を張って

「何とも思っちゃいねえよ」と言い放つ歌でありまして、
こういう態度に出るのもやっぱり男なんだろうなぁ…と思ったり。


取り分けシューマンはこの詩に曲を付けるに当たってハ長調で書いた。
ピアノでシンプルに「ド」から白鍵だけを押していくという、実に素直な明るいハ長調でありますよ。
「だから、恨んでなんかいねえって!」と朗らかそうに笑い飛ばすのもまた虚勢でありましょう。
顔で笑って心で泣いて…みたいなところをハ長調で。やっぱりこりゃ、男のメンタルではないですかね。


ということでもっぱら男性歌手が歌っているCDばかり目にするところですので、
これをソプラノが歌うというのはやっぱり「おや?」と思うところでありますよ。


されど、されどですよ。
ここまで男の歌(?)と言っておきながら、
どうも男性の歌ったものに今ひとつ「ピタっ」とくる感を得られていなかったにも関わらず、
このときにソプラノで聴いた演奏が何とも耳に心地良いというか何というか。


amazonの紹介ページ(「CDジャーナル」からの孫引きということになりますが)に
「プリミティヴな清楚さに満ちた声が男声からは得られない瑞々しい情感をもたらす」なる一節が
ありましたけれど、まさにそんな印象でもって聴いたのですよ。


ただ「声から受ける瑞々しい情感」に感銘を受けたとすると、
極めて個人的にかもしれませんけれど、意味の分からない外国の歌を歌声まで含めて
器楽音楽を聴くように聴いたということなのかもしれませんですね。


外国の言葉に堪能でないものですから、ポピュラー・ミュージックも同様で…というより
そちらのが先行ですが、全部ひっくるめて曲として聴くという、

こうした入り込み方をした名残なのかなとも思うところです。


本来的に歌詞は添え物でついているわけではないので、
メロディが醸すよりもさらに具体的な意味合いが伝わることを意図して作られてますですね、歌は。


それを「歌詞は措いといて…」という聴き方は適切でないのだろうと思いはしますが、
まあ適切ではないせよ、聴いてる本人にとって「これが適当」であれば、それでもいいかと。


ああだこうだ言いましたけれど、結局のところ恋する詩人は男女を問わずですしね…。

この間NHK-TVのドラマスペシャル「家で死ぬということ」を見てからつらつら考えていたんでありますが、
あのドラマの設定だと「家で看取る」ことで万事収まるところがありましたですね。


でも、それがともするととにもかくにも「家で看取る」ことが素晴らしいんだ!みたいに
一般化して捉えられたりしないだろうかな…という点でいささか懸念を感じたわけです。
老いた親に手を焼いて施設に放り込めばおしまいみたいなことはいけん!と。
それぞれに個別の理由があるにもかかわらず…。


もちろん「手を焼かされる」と判断する部分には思い切り個人差がありますけれど、
傍目で見て何がよくて何が悪いとは言いにくい。


一方で「ここまでくりゃあ、虐待でないの」と思しきケースがあり得る昨今では、
親子の関係だけに任せておけないところも、またあるのだとは思いますが…。


と、ここからドラマの話でなくって、極めて個人的な話になります。

つい先日、父親の誕生日のことなのですね。


今やすっかり歳をとったといってよい両親は、

かつて自分もそこで育った東京に東の端に近いところの家に二人で暮らしており、

自分はといえばそこから離れて東京の反対側、相当に西に寄ったところで暮らしております。


ご存知のように東京は東西に長いですから、決して遠くはないものの、よっこらしょくらいの距離かと。

まあ、新宿あたりが丁度中間になるのかもですが、父親の誕生日には新宿で待ち合わせをしたのですね。


昼飯時でしたのでサザン・テラスのあたりで何かランチでもというときに

目に付いたのがメキシカンのレストラン。

味覚的には超保守的な父親には「メキシカン?」ということなんですが、
橋幸夫の「メキシカン・ロック、ゴーゴー、ゴーゴー」と歌ってやって懐柔したり。


珍しいものもまた近所の年寄りどうしの話の種になろうかとは思いつつ、
口に合わないときにははっきり表情に表れますから、いささか顔色を窺っていたんですが、
まあ結果オーライといったところ。
きっとまた近所で吹聴することでしょう、「メキシカン、食べたことある?橋幸夫じゃないよ」なんてね。


ほどなく年寄り連中で伊豆に旅行に行くというので、とにかく足回りが大事ですので、
高島屋で誕生日プレゼント代わりに靴を買うかとなりましたけれど、
たぶん日頃の買物では大きめのスーパーあたりで見繕ってしまってるのだろうなと。


年齢から考えたら、極めて足回りは肝心ながら、それなりの靴はそれなりの金額だったりしますから、

1人ではおそらく買わないだろうなというものを購入したわけです。


その後、腹ごなしと街中の喧騒を避けて新宿御苑に入り込み、

しばしゆるりの散歩をしつつ、たわいもない会話のあれこれをしておったわけですが、

ふと思い立って千駄ヶ谷の方に抜けることにしたのですよ。


ちと長い散歩になってしまいましたけれど、ゆるゆる進んでたどりついたのは鳩森八幡神社。
ここには都内で一番歴史のある富士塚があるということで、前から気にはかかっていた場所でして。


千駄ヶ谷の富士塚@鳩森八幡神社


以前ちらりと紹介しましたように、両親の住まいの近くにも富士塚はあるのですけれど、
やっぱり「都内随一の由緒」となれば、有難味もひとしおでありますね。


でもって、ここで両親の手を引いて富士登山を敢行したわけです。
元より富士講に出かけられないような老人や体の弱い人向けに富士塚 は作られたのでして、
ここに登拝することで霊峰富士を詣でたと同じご利益に預かることを目的としているものですね。


年齢から考えて今後ほんものの富士山に登ることはなかろう両親に、
せめて富士登山の功徳を思ったわけでありますよ。

そしてちょっとした岩山の態ながら、手を引いてやることにしみじみともしながら…。


その後は父親から苦情の出ようのない和風居酒屋で好みに従ってあれこれ食し、
好きなカラオケにもつきあって…となかなかにたっぷりとした時間を共に過ごしたわけです。


いつもできるわけではないけれど、たまにはこういうことを。
ですが、今はまだまだ元気だからいいんですが、そうでないことになったとしたら、
つまりはターミナル・ケアの段階となったとしたらですが、仮に本人が望んだとして、
「最後まで家で」といくとはかぎらんだろうなぁと。


それはそれでと思ってはいるのですけれど、先のドラマのような状況を見てから思い返すと、
なんだか最期の不義理へのアリバイ作りだったみたいな気にもなってしまうところが、
我ながら「なんだかなぁ…」と思ったりするのですね。


まあ、自分の親に関する限り、他人は他人、自分とこは自分とこなりにでしょうかね、やっぱり。
アリバイ作りなどということは忘れて、できるときにできるだけの関わりでと参りましょうかね…。

いやいや、東京でも結構な雪が降りました。って、さしあたり今も降ってますね。
わりと積もった感もあって雪らしい雪だなぁと思ったものですから、
小学校のときに一度だけあった積雪休校を思い出したりしたのですね。


ところで、雪の坂道を登りながら、こう考えた…なんつうふうにいいますと、
漱石の「草枕」 めきますけれど、正面からゆるゆる一台の車が下りてきて、
行過ぎた後には一面の雪にふた筋の轍が鉄道のレールのように残されたのを見て、
ふと思ったことであります。


ふた筋の轍は途切れない線として連続していているわけですけれど、
傍らを歩く自分の足跡は点々と残るといった具合。


足跡が点々と残るような形で人間が歩くようになったのは何百万年も前のことでしょうし、
二足歩行をする以前(それは人間とは言わないかもですが)の四足歩行にしても、
やっぱり足跡は点々とつく形であったろうと。


これに対して、連続した轍のような足跡(足跡的なものも含めて)を残す生物を考えてみると、
例えば蛇とかカタツムリのような貝の仲間とかが思い浮かびます。


昔々の人間に進化論的な発想は無かったでしょうけれど、
それでもやっぱりずりずりと連続した足跡を残す生き物よりも、
点々とした足跡を残す生き物の方が「進化している」あるいは「高等である」みたいな感覚が
あったのではなかろうかと推測するところです。


足跡が移動の痕跡であることからすれば、
ずりずりしているよりも四足歩行、二束歩行の方が機能的であることは
裂け目を跨ぐ、階段状のところを昇り降りする、横に移動する、後ずさる等などからも分かります。
(だいたい蛇はバックできるんですかね?)


つまり、線的な連続より個々に独立した点々の方が何となく偉いというか何と言うか、
そんな深層心理が刻まれたかもしれません。


ここでふと思うのは「線的な連続」というのは「アナログ」ってことかもと。
さすれば、「個々に独立した点々」とは「デジタル」になるかなということなんですね。


つうことは、「アナログ」より「デジタル」の方が何となく偉いというのは
すでに人間には織り込み済みのことなのかもしれんなぁと。


身の回りを含めて様々な道具にコンピュータが組み込まれることになって、
なんでも演算処理の結果として効果効能があわられるとなれば、
デジタルでなくては対応できないのでしょうけれど、
んじゃあアナログってのはダメなの?よくないの?格落ちなの?とも思わないでもないという。


こんなことを考える元々に立ち返ってみれば、雪道についた轍を見てつらつら考え始めたわけで、
そも轍が線状の跡として残っている…となれば、車輪というのは

思い切りアナログなものではないかなと思い至るのですね。


Wikipediaの記載によれば、車輪は
「最古の最重要な発明とされ、その起源は古代メソポタミアで紀元前五千年紀にさかのぼり…云々」とか。
以来七千年にもわたって、人間はこのアナログなるもの=車輪のお世話になり続けているという。


普通に考えて「車ってアナログだよね」ということにピンとくるものではないにせよ、
そして確かに車輪の持つ基本的機能以外に自動車を構成している部分は
どこもかしこもデジタル的改良の加わったものなのかもしれないですが、
それでも改めて車輪そのものに目を向けるとすれば

「おお、七千年の歴史を持つ伝統的な、実に素朴なフォルム!」と思わないでもないという。


とまあ、ただただ思い浮かんだだけのことですから、結論めいたものもありませんけれど、
「デジタルもいいけど、アナログもね」ということを忘れてはいけんのう…てなことを
雪の降る町を歩きつつ、思ったのでありました。

先に夏目漱石のロンドン留学 中にヴィクトリア女王 の崩御があったことは触れましたけれど、
葬儀の後ほどなくして新王エドワード7世の御披露目行列が行われたのですね。

…此間ノVictoriaノ葬式デ閉口シタカラ行カナイ

当時の日記によれば、漱石の感想は何とまああっさりしたもの。
よほどヴィクトリア女王の葬列見物の人出に辟易したんでありましょう。


しかしながら、これまであれこれ漱石に触れてきて思うところは非常に人間味があるといいますか、
何だか自分なんかともあんまり変わらない、普通に迷いや見栄、意見や考えの揺れがあるなぁと。
それでも時に頑固だったりするのもまた普通っぽいというか。


どうしても明治期のエリートであって、文豪という肩書きが似合う人物なだけに
そこらの人たちを「へえ~、そうなのか」と唸らせる気の利いたひと言やもっともな発言なんかを
するもんだと思ってしまうところですけれど、どうやらそうでもない。


こうしたところは、先に読んだように漱石が戦争を語るとどんな具合であったかを見ても、
頷けるところかとも思うわけです。


また一方で真面目かと思えば瓢げてみたり。
吾輩は猫である 」や「坊っちゃん 」あたりははっきり瓢げているのでしょうけれど、
どうやらそれらばかりでないようだと改めて。


1905年、「吾輩は猫である」と同時期に雑誌に発表されていった何篇かの文章。
その筆頭に来る「倫敦塔」、このロンドン留学の記憶から生まれたと思しき短編を読んでいて
思うところでありました。


倫敦塔・幻影の盾 (新潮文庫)/夏目 漱石


凄惨な処刑の逸話がたくさん詰まった場所ながら、英文学を本気で学ぼうというときには
歴史的背景としてロンドン塔のようなところも押さえておかなくてはと思ったのか、
到着して数日、いまだ街中の右も左も分からぬ状況で漱石はロンドン塔を訪ねるという。


明治期のエリートである以前に、1867年生まれ、

つまりはぎりぎり明治になる前に生まれた江戸の人であって、
根っこのところではそれこそ江戸の粋人たるやよし的なところがあったかもしれない反面、
「私の個人主義」を著すような合理性を持ち合わせた人物でもあったという。


人間なるものを考えたときには極めて自然なんですが

「え、この人、こんな面もあったの?」的な普通の人っぽさを持ち合わせているのでしょう。


ですから、ロンドン塔という悲惨な歴史の現場に身をおいて、
それこそシェイクスピア の「リチャード三世 」で権力闘争の犠牲になる

幼い王子たちの姿が現前するかのような幻想に捉えられた主人公が描かれるながらも、

ついつい江戸っ子の諧謔味を偲ばせてしまうのかもですね。


「倫敦塔」のかなり初めの方、ひとしきりその威容を讃えた後にこんな一文が出てきます。

余はまだ眺めている。セピヤ色の水分を以て飽和したる空気の中にぼんやり立って眺めている。
二十世紀の倫敦が、わが心の裏から次第に消え去ると同時に眼前の塔影が幻の如き過去の歴史を吾が脳裏に描き出してくる。朝起きて啜る渋茶に立つ烟りの寝足らぬ夢の尾を曳く様に感ぜらるる。

読みながらセピア色の倫敦を想い描こうかと思うと、寝起きの渋茶が出てきてしまうのですよね…。
また、奥へと歩み進んでいよいよ歴史の幻影にも出くわそうかという時にはこんな具合。

左りへ折れて血塔の門に入る。今は昔し薔薇の乱に目に余る多くの人を幽閉したのはこの塔である。…アーチの下に交番の様な箱があって、その側らに甲形の帽子をつけた兵隊が銃を突いて立っている。頗る真面目な顔をしているが、早く当番を済ませて、例の酒鋪で一杯傾けて、一件にからかって遊びたいという人相である。
…番兵が石像の如く突立ちながら腹の中で情婦と巫山戯(ふざけ)ている傍らに、余は眉をあつめ手をかざしてこの高窓を見上げて佇む。

バラ戦争で多くの人が幽閉された…というようなことに、

遠くを眺めやるような目でもって思いを馳せているかと思えば
まじめな顔で立つ番兵の腹の中を探って「情婦とふざけて酒を一杯」てな想像をめぐらしてしまうんですなあ。


…とまあ、こんなような漱石の一面に改めて気がついてみてどうかといえばですね、
「う~ん、やっぱりいいね、漱石」と思うのでありましたよ、個人的にはですけれど。

モンゴル領に宣教師を送る際、教皇以下ローマ教会の上層部は、世界の東の果てにプレスター・ジョンという「キリスト教」支配者がいるという噂を信じていた。そしてプレスター・ジョンが現れて、イスラム教からキリスト教を守ろうとする人びとを助けてくれるのではないかと考えていた。

これは、先に読んだ「マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか」 にあった一節ですけれど、
以前にも何かの本でプレスター・ジョンに関することを読んだことがありまして、

以来気にはなっていたのですね。


ということで、図書館の検索で引っかかった本をひとつ借りてきました。
NHK取材班編「大モンゴル」の第2巻「幻の王プレスター・ジョン」というものですので、
これだとどうしても「世界の東の果て」の話はもっぱらモンゴルということに限定されてしまいましょうけれど、
でもまあ、とりあえずということで。


幻の王プレスター・ジョン 世界征服への道 (大モンゴル)


そもそも「プレスター・ジョンが存在する」という話の震源地が

いったいどこなのかはどうやら不明のようす。
されど古い古い話でいえば、イエス降誕の折に東方の三博士が訪ねてきますけれど、
東方から来たということは東方に帰ったわけで、この人たちの末裔がプレスター・ジョンであるとか、
また十二使徒の一人である聖トマスが布教に赴いたインドにキリスト教を信奉する王がいるとか、
そういう話は元々あったようですね。


しかしながら、プレスター・ジョンの実在が俄かに信憑性を帯びてきたのは、
12世紀に書かれた修道士オットーの年代記に記録された東方からの知らせによるそうです。
曰く、東方の王プレスター・ジョンがペルシアのイスラム 勢力を打ち破って進軍してくる…てなお話。


ヨーロッパ世界ではこの時代、イスラム勢力の台頭に対抗して十字軍 を組織したりする頃でありまして、
プレスター・ジョンの軍勢が東側からイスラム勢力の背後を衝き、

西からの十字軍と挟み撃ちすれば怖いものなし!
とまあ、都合のいい援軍願望が古くからのお話に尾ひれをつけたんでありましょうか。


このときにプレスター・ジョンと目されたのはカラ・キタイ(西遼)軍だったようで、
十字軍と合流するなんつうことは無かったのですが、ヨーロッパ側からすると
「チグリス川が凍結しないので渡河できず、引き返した」とか来なかった理由まで考えるほどに
実は待望していたということなんでしょう。全くカラ・キタイ側の預かり知らぬことながら。


ただ、カラ・キタイはキリスト教国ではなかったものの、

確かに国の首脳陣の中にはキリスト教徒がいたようですね。


元々中国北方にあった遼が女真族に攻められて一端滅び、その後中央アジアに転じた国ですけれど、
世界史の授業で出てきた「大秦景教流行中国碑」に見るように中国では唐の時代に
キリスト教ネストリウス派が景教と言われて「流行」していたのですから、
ネストリウス派信徒のいても不思議ではないのかと。


されど、その頃のローマ教会(その後もでしょうけれど…)は自分中心でものを考えてますから、
「おお、東方にもやはりキリスト教国はあったか!ネストリウス派ってのが何だけど…」と、
自分の側にあった噂話は本当であったくらいに思ったかもですね。

くどいですが、東方世界の全く預かり知らぬことながら。


ですので「今回は帰っちゃったけど、次回は必ず来ておくれよぉ、プレスター・ジョン!!」てな
ヨーロッパ側の心中を察したか(んなこたぁないですが)、

やがて13世紀にまた東方からの大軍勢がやってくるのですね。


途中のイスラム勢力を蹴散らしながらの進軍に、当初溜飲を下げていたヨーロッパですけれど、
近づくにつれて蹴散らしてるのはイスラム勢力ばかりでなく、ロシアは散々の目にあっており、
「こりゃ、敵だ!」と東欧のラインで必死の防戦に努めるも、

なぜかふいっとまた帰っていったしまったのだとか。


言わでもがなですが、この軍勢はチンギス・ハンに始まるモンゴル軍の大遠征で、
1241年に第2代目のオゴディ・ハン死去の報に接して一端撤兵したものですが、
そうでなければ欧州全域、これモンゴル帝国になってその後の歴史も大きく変わっていたかもです。


ということで、ヨーロッパ世界でもようやっと「どうやらこの方面にはプレスター・ジョンはおらんな…」と
思ったのではなかろうかと思いきや、「どうやらこの方面にはいない」とは考えたらしいものの、
「プレスター・ジョンはいないんだ」と思ってないところがどうしたものか。


今度はちいとばかし目先を代えて、
アフリカのキリスト教国であったエチオピアにこそ「プレスター・ジョンはいるはず」と
考えたりもしたんだそうですよ。


それにしても、人は都合のいい方へいい方へと考えてしまうのだなぁと思う一方で、
ずいぶんとスケールの大きな噂話があったことよと思ったりするのでありました。