例えばですが、絵を見るときにその絵のタイトルが「無題」であったり、
はたまた「コンポジションNO.××」だったりしたらどうでしょう。
個人的にはいつまでたっても素人っ気が抜けないものですから、
タイトルはイメージを広げるよすがとしても大いに気になるものだったりするのですね。
分かる分からないという尺度で絵を見てしまうと損をする、
つまりは「分からない」というレッテルを貼ってしまうと、
それだけでもう「見てもしょうがない」てなことになってしまいますから…みたいなことを考えてわりには
「分かる、分からない」からは永遠に抜け出せないのかもしれないですね。
ふと思いついてみれば音楽、いわゆるクラシック音楽ですけれど、
それもおんなじなのかあと思ったり。
タイトル的なものが音楽の形式プラス番号、例えば交響曲第○番ハ短調とか、
ヴァイオリン・ソナタ第△番とかいうものだと、妙に敷居が高いといいますか…。
ところが一転、「運命」 というニックネームがあれば「ああ、運命を表してんのね」と思ったり、
スプリング・ソナタとなれば「なるほど春の気分だぁね」と受け止めてみたり。
もっとも、こうした音楽は絶対音楽という代物で音楽を音楽そのものとして聴くものであって、
タイトルが示す何らかを音で表すといったプログラム・ミュージックではない・・・
それに、付けられたものも作曲者の意図とは全く関わりなく付けられた場合もままあり、
本来想起されるところとは縁もゆかりもないものを想起してしまうかもしれないとの
謗りも免れないところでもありましょうね。
それでも、やっぱり何某かのタイトルがついているととっつき易いという事実はあろうかと。
同じ絶対音楽であるにしても、タイトルの有無が結局のところ、
その曲の有名無名を左右することにもなりかねないといいますか。
…とまあ、そうとうに前置きが長いですが、
所沢のホールで聴いてきたプラジャーク弦楽四重奏団の演奏会は、
つらつら上に書いたような点からすると、弦楽四重奏 の演奏会とはえいえ
かなり初心者にやさしいものだったのではないかと思ったわけです。
何しろ曲目がこんなふう。
要するに全て具体的なタイトルがついている作品。
弦楽四重奏という演奏形態はかなり渋めではあるものの、
タイトル付きであることのみならず、もしくはタイトル付きだからこそかもですが、
なかなかにメロディーを捕捉しやすいといいましょうか。
モーツァルトと生まれが一年違いのマリー・アントワネットが嫁いだルイ16世も
錠前作りという奇矯な趣味のほかに大好きだったのが狩りですから、
当時の王侯貴族の趣味として狩りはつきものだったのでしょうね。
モーツァルトは野外で溌剌と行われる狩りの様子を伝えてくれる音楽になってます。
ドヴォルザークの方はアメリカ滞在中に作られた曲で、アメリカ風を探すもよしですけれど、
むしろボヘミアの憂愁に取り巻かれるのもまたよろしかなと。
のっけからヴィオラで主題が出てくるという変則技が登場しますが、
フランク の交響曲に「コール・アングレにメロディを吹かせるなんて交響曲といえますか」と
ダメだしをしたフランス・アカデミーの某先生が聴いたら、これまた仰天なのでしょうか。
一転、シューベルトはといいますと、
自作の歌曲「死と乙女」からテーマを持ってきた変奏曲が第2楽章になってることから、
この四重奏曲も「死と乙女」と呼ばれるわけですけれど、
全体的にロマンティックな激情が渦巻く中で、死との対峙を思うにはなるほどの音楽。
プログラム・ミュージックではない絶対音楽は、音楽をこそ聴くべきである!てなご意見は
もっとも以外のないものではないとは思いつつ、音楽を受け容れて人それぞれに味わうには
タイトルというよすががあるというのも、悪いことばかりではないのではないかなあと。
取り分け、これからちょっと聴いてみようかなと思ったりしてる人々にはなおさらでしょうね。
ところで、演奏の方ですけれど、この間聴いた木管アンサンブルの「レ・ヴァン・フランセ 」が
小さめのホールで「うむぅ」だったのと反対に、こたびは大きなホールでの弦楽四重奏。
せっかくの小編成なので楽器ひとつひとつの粒立ちを聴き取りたいところながら、
(坐ったのがかなり後方の席だったということもあるのでしょうけれど)
どうも弾き崩しにも思えてしまうような印象。
いずれにしても、適当なサイズがあるのでしょう、きっと。
アンコールで演奏されたボロディンの弦楽四重奏曲第2番の第3楽章、ノットゥルノのような
伸びやかな曲だといちばんぴったりきたのでしょうか。
これは素敵でしたですねえ。







