しばらく前に「現代狂言 」という公演を国立能楽堂で見たとき、

その時に配られたあれこれのフライヤーに混じっていた一枚がいささか気になっていて、

特に「これは芝居なのか?コントなのか?トークなのか???もはや良く解らない怒涛の珍舞台!!」

という惹句に「それじゃあ、なんなの?」ともっぱら舞台仕立ての部分に興味を覚えたものですから、

実際に見てきたとまあ、そういうわけです。


俳優の近藤芳正さんが立ち上げた一人ユニットであるらしい「バンダラコンチャ」の

サードアルバム公演といいますから、第3回公演なのでしょう、「HUG!」というタイトルでありました。



Chain reaction of curiosity

とはいえ、近藤さんのひとり芝居というわけではなくしてですね、

南原清隆さんやら三倉茉奈さんやらTVでお馴染み系の人が登場してにぎにぎしく展開する、

いわばバラエティーという感じ。


ま、バラエティーと言ってしまうと「8時だよ、全員集合!」的なイメージでしょうから、

コント的芝居が数本、オムニバス的に転換する中にいささかの踊りが入ったりするという。

されど、オムニバスとしてひとつひとつ独立した話が、少しばかり絡みを持たせていたりするあたり、

やっぱり全体としての芝居として見るというのもありかな・・・と思ったりはしたのでした。


本来的に笑ってもらうことを前提にした作りであるわけですけれど、

しみじみさせちゃうよ路線も織り込んで!という狙いはありましたでしょうねえ。


例えば最初の話はショッカーの戦闘員、

あの覆面悪役レスラーが細身になったような人たちの日常風景という。


「目指せ!世界制服」を旗印としながらも、いつもいつも仮面ライダー と闘っているわけではないので、

そんな非戦闘時には街なかに出没しては、「一日一悪」を合言葉に慎ましやかさな悪事の遂行に

余念がないという戦闘員たちなのですね。


小学校の運動会の前日に校庭にたくさん落とし穴を作ってきたから、当日は大騒ぎだぁ!とか、

そこらじゅうのパチンコ屋から看板の「パ」の字を取り去ってきたぞ!とか、

愉快犯のようなことをやってきては、自慢気に仲間に話してきかせるわけです。


どうやら彼らにとっては「怪人」になることが昇格のようなんですが、

怪人になるとおそらく処遇は改善されるようながらも、その仮面ライダーとの直接対決という

大きなリスクを負わなければならず、そんな危険を冒すくらいなら

今の「一日一悪」をこなすデイリー・ワークで家族ともども(家族がいる!)平穏な暮らしができれば…

という考えなのですね。


ここで思うのは、彼らのやっていることもともかく、与えられた仕事をきちんきちんとこなし、

さぼるわけでもなく、かといって大きなことをやってやろうというわけでもなく、

生活サイズに合わせた報酬を得ているというか、報酬に合わせた生活に満足を見出しているというか。

ほとんど「フツーの人々」と代わりがないなあと思うのですよね。


もそっと想像をめぐらすと、時代劇に出てくる切られ役の人たちのことを考えれば

「おんなじだぁ」と思いやすいでしょうか。


例えば水戸黄門 にしても桃太郎侍にしても、悪代官の屋敷に乗り込んだ善玉一行に対して、

「ええい、小癪な!切り捨てぃ!」と悪代官から命じられて切りかかっていっては

ばったばったと切り捨てられる無名の侍たち。


彼らは好き好んで悪代官の配下にいるわけでもなく、

代官の悪巧みそのものに加担しているとも思えない軽輩ですが、

悪の一味として十把ひとからげ状態。


でも、普段は侍としてデイリーワークのお勤めを果たしているだけで、

やはり家族もいれば子供もおり、慎ましやかに生活しているだけ…という。

まあ、悪を自覚しているショッカーの戦闘員と一緒にしてはなおさらかわいそうですが。


とまれ、誰にもその役柄を離れたところには普通の生活があって…みたいなところに

目を向けるきっかけを与えてくれるものであったかなと思ったわけです。


そして、お終いの方の「あきらめた僕たち」という一作の方はといえば、

およそ数十年の人生を生きてきて、折々で何かに熱意を燃やしながら、

毎度それをあきらめてきた男のところに、諦めなかったらこうなっていたろうという別の自分が現れ、

「なぜあきらめてしまったのか!」と食ってかかるのですね。


ブルース・リー のようになりたいと空手道場に通うも、諦めてしまった自分。

甲子園を目指すんだと打ち込んだ野球も、諦めてしまった自分。

ミュージシャンになって大きなステージに立とうという夢を諦めてしまった自分などなど。

(これは、ギターのFコードが弾けなかったかららしい…)


で、この過去からの逆襲に対する今の自分のひと言は

「それでいいと思えるようになったんだ」という、現状の全面肯定なのですね。

これが本心なのか、そう思おうとしているのかは別問題で、

ともすると受け手によって、ここに自分の人生やらを重ねて思うところ大でありましょうね。


・・・と、個人的には普段ほとんどTVを見ることもなく、世の笑いの感覚とずれがあるのか、

他の観客ほどには笑えない部分もずいぶんありましたけれど、

ところどころで「もの思うタネ」で出くわしたのは収穫だと思ったりしたのでありました。

ノルウェー・フィヨルドの中にぽつんと浮かぶバストイ島。
決して絶海の孤島というわけではなく、対岸からはせいぜい数キロと言ったところ、
今では刑務所として使われているこの島はかつて少年たちの矯正施設として使われていたといいます。


ここで1915年に起こった少年たちの叛乱を描いたのが、映画「孤島の王」でありました。
原題は「バストイの王」、施設を占拠した少年のひとりが

外部から架かった電話を受けて戯れに行った名乗りです。


映画「孤島の王」


収容されている少年たちは、今の日本でいえば小学校低学年の小さな子から中学生くらいまで。
上背があったりするので高校生くらいに見えたりするんですが、どうもそこまではいってなさそうです。


もちろん何らかの罪を犯したからこそこの矯正施設に送り込まれた少年たちではありますが、
彼らがなぜ叛乱を起こしたのかは、そう難しい問題ではありませんですね。

扱いがあまりに酷いからということに尽きるわけです。


こうした扱いというのは、先ごろ見た映画「オレンジと太陽」 のオーストラリアに送られた少年たちを
思いだせるところですね(彼らなどは、犯罪者でなくただただ孤児であっただけですが…)。


本来的にはそれぞれに、孤児たちの自立を促す施設であり、

罪を犯した少年たちを更生させる施設であるわけでして、
収容される少年たちにとって「よかれ」と考えることが施される場所なわけです。


ただ、ここで「少年たちにとって、何がよかれなのか?」は施設を運営する者に任されているのですね。

映画を見る側は院長であったり、寮監であったりという施設を運営する側の行い、振る舞いに
およそ例外なく違和感を覚えるものと思います。
「なぜあんなことをさせるのだろう」とか。


あってはならないことにしても、

何らかの悪意があってやっているとすれば、まだその方が分かりやすいのですが、
本当の本当に少年たちのためになることをしているのだ」と思っているかもしれないことに

違和感を抱くわけですね。


何年もの矯正期間(実質的に刑期でしょうけれど)の後、
院長の推薦か何かで退院(これも出獄というべきか)に至る最後の関門である

運営理事会の理事たちの審問に臨み、これで了承を得られれば

晴れて島を出て行けるわけですけれど、この理事たちもおよそ聞く耳は

少年ひとりひとり以上に院長の発言の方を向いているという。


そこには院長、寮監はじめこの施設で働いている大人たちが
「子供たちが何とか更生を果たすように日々努めている『善』の人」という

考え方があるのではないですかね。


もちろん、これを疑ったらこうした役割を与えることはできないのでしょうけれど、
それにしても判断を下すべき理事たちが院長ほか片側の意見しかきかず、

少年たちの言葉にいっかな耳を傾けないとしたら、
理事たちが出張ってくる必要は全くないことになりますね。


子供たちにしても、何らかの弁明をしたところで全く相手にされない、
それどころか反抗心ありのように捉えられるとするなら、

黙っていた方がむしろ特になると考えるようにもなりましょう。

こうして本当に何が起こっているのかは潜ってしまうことになるという。


そうは言っても一方で「悪いことをした連中ではないのか」ということはありましょうね。
でもこれは「だから、どういう扱いであっても構わない」とする完全な理由にはならないのではないかと。


ここでも必要なのは、対症療法的なあしらいではない何らかの方法。
その「何らか」にここで適切な答えが出せるようなら、

きっとすでにどこかで実践されているものと思いますけれど。

先ごろ池田理代子さんが書かれたポーランド秘史「天の涯まで 」を読んだわけですが、
その主人公であったユーゼフ・ポニャトフスキの伯父、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキが

ポーランド国王に就いたのはロシア皇帝エカテリーナ2世の息掛かり、

しかも元愛人であったことから利用されたことが書かれていました。


そういえば同じく池田理代子作品で「女帝エカテリーナ」というのもあったっけ

(この「あったっけ」は自宅にということです)と気付き、
誇りを払って取り出し、何十年ぶりか?で読んでみることにしたのですね。


愛蔵版 女帝エカテリーナ (Chuko・comics)/アンリ・トロワイヤ


愛蔵版全1巻という1,000ページくらいのボリュームを、この間の「天の涯まで」に続けて読むと、
写真でもカラーページでもないのに何やら目がチカチカしてくる感があるのは、

やっぱり絵によるところでありましょうか。


ところでストーリーですけれど、

フランスの伝記作家アンリ・トロワイヤの原作に基づいてということですので、
池田オリジナルの脚色はおよそ無いのかもしれませんが、

ただ基本的には「あの絵柄」に馴染むお話にはどうしても女と男の愛憎みたいなものが

出てくることになりますねえ。


後にエカテリーナ2世としてロシア帝国に君臨することになるゾフィーは、
当時北ドイツでプロイセンの影響下にあるシュテッティン(現ポーランド領シュチェチン)の小領主
アンハルト=ツェルプスト家の娘として1729年に生まれました。


幼い頃からたくさんの書物を読みこなすなどして得た知識の広がりが
小領主のお嬢様では収まりのつかない将来を思い描かせることに繋がったかもしれませんし、
また母親のヨハンナがスウェーデン王を輩出するホルシュタイン=ゴットルプ家の出であることを

自慢に思うとともに小領邦主の家柄に飽き足らない不満を聞いて育ったことも関係してか、

ゾフィーはかなり上昇志向を持っていたようでありますね。


どうにも器量良しとは言えないながらも知性に磨きをかけて完全武装し、
母方の家系であるカール・ペーター・ウルリヒを射止めるわけですが、

これが後のロシア皇帝ピョートル3世。


いつの世も貴族の家系に政略的な結婚はつきものですから、

カール・ペーターは実はロシアのピョートル大帝の孫でもあったのでして、
ゾフィーにしてみればカール・ペーターがどうこうというよりも、

将来のロシア皇后しか見てなかったのかも。
もちろん、この時点では自分がロシア皇帝になることまでは考えていなかったでしょうけれど。


皇太子として迎えられたピョートル(カール・ペーター)に付き従ってロシアに赴いたゾフィーは

エカテリーナと名を改め、ロシア正教にも改宗し、ロシア語の修得にも努めるなど

将来の皇后の座を見越し、またロシアに骨をうずめる覚悟で臨むのですね。


一方でたまたまの血筋のせいで皇帝への道が降ってわいたピョートルの方はといえば、
「皇帝なんかになりたくない」「ロシアは嫌だ、プロイセンに帰りたい」と言い出す始末。
エカテリーナがロシアに馴染む努力をすればするほどそれが鼻に付くといったこともあったでしょうか、
夫婦仲は冷め切ったというより冷戦状態かと。

ロシアにおける冷戦の根深さを感じるところです…とは冗談ですが。


こうした展開になってくると、ロシア中でピョートルが不人気になる反面、
ロシアに愛情を注いでいる(ように見える)エカテリーナの人気が急上昇するのは当然と言えば当然。
ロシア語やらなんやらあんなにも一所懸命になって、皇太子殿下は遊び呆けているというのに…

とまあ、健気で気丈な皇太子妃のイメージが出来上がっていくわけですね。


人気というか、勢いとはそうしたものなのか、

先帝崩御にあたりいざピョートル3世誕生となったときにもあまりに政治センスのない皇帝よりも、

ロシアのことを考えて頭脳明晰なエカテリーナを女帝に迎えるべきとクーデタが起こるという。

このときばかりは、ロシアの血が一滴も流れていないことを問題視するなんてことも

吹っ飛んでいたようです。


こうしてエカテリーナ2世として即位するわけですが、
夫ピョートルにいっかな相手にされなかった分、御相手を務める貴族たちは事欠かずだったようで。
かつてどうにも器量良しとは言えない少女が知性の鎧ばかりでなく、

皇帝の冠を戴いては尚のことでもあろうかと。


そうした御相手の中には、いっとき気を紛らせ慰めを得られるだけが望まれた者と
施政の相談役として公私にわたる側近となる者と、どうやら2つのタイプがあったようですね。


前者のひとりが冒頭に触れましたように

後にエカテリーナによってポーランド王に擁立されるスタニスワフ・ポニャトフスキ。
「天の涯まで」では「女帝陛下の慈愛におすがりして、ポーランドを守っていただく」みたいなことを

いつまでもいつまでも言ってました。


これに対して、後者の代表格はグレゴリー・ポチョムキン。
映画になった「戦艦ポチョムキン」にその名を残すロシアの軍人でありますね。


対外的には不凍港を得るための南下政策に立ちふさがるトルコとの戦争と

それを取り巻くヨーロッパ各国との権謀術策があり、
国内にはプガチョフの叛乱等も抱えて問題山積の状況で、

かつてのエカテリーナ熱もだんだんと醒めてくると改めて「ロシア人でもないのに…」みたいな

反感が今度は募って来たりするものです。

それぞれの問題を何とか解決してはいくのですけれど。


…とまあ、ざあっと概観してきましたけれど、

エカテリーナ2世の在位は1762年~1796年と王権が絶対的な権力とともに輝いていた最後の時代。

その存在自体が白鳥の歌みたいなものだったのかもしれませんです。


元々は様々な書物から得た知識でもって啓蒙専制君主のひとりと見られるわけですが、
どうにもフランス革命の発想(王政を排しての共和政)までには理解が及ばなかったようで、
革命の波及を恐れてやおら反動的になったようなところが見られます。


歴史に「もし」はありませんけれど、もそっと柔軟な受け止め方があったとしたら、
自らが白鳥の歌となることもなく、例えばイギリスの「君臨すれども統治せず」といった

それまでとは別の形の王権のあり方がロシアから出てきていたかもしれないですね。

プラジャーク弦楽四重奏団の演奏会 を聴きに所沢のホールへと出向く際に、
ちょっと手前の東村山で途中下車したのですね。


八国山のあたりをぶらりと散歩というわけでして、ご存知の方も多いとは思いますが、
この八国山、ジブリ・アニメ 「となりのトトロ」で「七国山の病院かぁ?」とカンタのおばあちゃんが言う、
あの七国山のモデルということでありますよ。


西武新宿線の東村山駅から枝分かれしている西武園線で(隣の駅で終点の)西武園で下車するのが
八国山にはいちばん近いようですけれど、今回は東村山駅から歩いてみることにしたわけです。


ちなみにこの西武園という駅ですが、西武鉄道が運営する西武園ゆうえんちに隣接してはいるものの
遊園地に来る人たちは西武新宿線の小平から枝分かれする支線の終点である

西武遊園地駅を使うのでして、それならかの西武園駅とは何ぞ?となりますが、

こちらは西武園競輪場の最寄駅。


ということで、こう言ってはなんですが

いささか客層を異にするのではないかと、余談ですが。


とまれ東村山駅西口を出て駅前から西へ伸びる通りを進んでいき、
ところどころで見かける道標に従って右手に曲がりますと、

正福寺というお寺さんに行き当たるのですね。


こんなところにというと叱られそうですが、東京都で唯一の国宝建造物があるという意外さ!
その国宝建造物というのが、これであります。

国宝 正福寺千体地蔵堂


正福寺千体地蔵堂というこの建物、

応永十四年(1407年)の建立と言いますから優に600年を超えているわけでして、

堂内にはその名のとおり実にたくさんの小地蔵尊が奉納されているそうです。


病いなどにかかったときにここの小地蔵尊を借り受け、

平癒した際には元のを返すのに加えて、新しい一体を奉納する。
そうした繰り返しによって、千体地蔵堂とは結果的についた名前なのでしょう。


普段は堂内を見ることはできないので、

お堂脇に並べられたこ地蔵さんで中の様子を想像することに。
小さく素朴なものは、なかなかにかわいらしいものですね。

千体地蔵


この由緒正しい?正福寺を抜けて

北側に見える木々のこんもりとした丘陵地(これが八国山です)へ向かいますと、
その麓部分に開けているのが北山公園でして、

公園奥の山すそ部分を木立に見え隠れしながら西武線の電車が通り過ぎていくのは、
子供や鉄分の多い人たちには楽しい場所ではなかろうかと。


この北山公園には菖蒲田が広がっているのですが、

いったいいつ頃が旬?と思いつつ眺めやるとこんなふう。

北山公園の菖蒲田



青々とした勢いが感じられてこれはこれで清々しいものの花はないんだ…と思ったおりますと、
「6月10日くらいかなぁ…。花芽が出ないんだよねえ」と話しかけてきたおじさんがひとり。
話を聞いている限りでは、どうやらここの菖蒲を丹精込めて育てているお人らしい。


いろいろと植えられている種類の違いなども話してくれたんですが、いかんせん花がない…。
辛うじて片隅にひっそり花を開いているのがありましたので、

それを眺めることで一斉に開いたときの壮観を思うということで。

北山公園の菖蒲



という寄り道をしつつ、ようやっと八国山に到着いたしました。

八国山緑地



さほど深くない森だからと安心してかかるのか、あちこちいろんな方向に踏み跡がついていて、
はてどっちにいったものかと思ったりするところは、少々ロンドン北郊のハムステッド・ヒース のような。


実際にはあそこほどどこにいるか分からなくなる感もなく、

広い道を上り詰めること少々で、尾根筋に到着。
この尾根が東京都と埼玉県の境なのだと知ると、少しはそれなりの感慨も湧くものです。

八国山の尾根道


今では木々が視界を遮っていますけれど、
元はといえば関東一円の八つの国を見渡せたことから八国山の名前がついているわけで、
そうしたことを偲ぶには眺望よりもむしろ古い史跡の方がよすがになるかもしれないですね。


尾根道をかなり東の方へ進んで下りにかかるちょっと手前。
左手に尾根からさらに小高くなったところに「将軍塚」という石碑が建てられていました。


将軍塚



上州は新田郡(にったごおり)…というと、
世代によっては長楊枝をくわえた渡世人、木枯らし紋次郎を思い出される向きもあり、
すでに頭の中では上条恒彦さんの歌う主題歌が流れ出した方もあろうかと。


その上州は新田庄から打倒幕府の軍勢を率いて鎌倉に攻め上らんとした新田義貞が、
元弘三年(1333年)迎え撃つ鎌倉方と相対して陣を敷いたのがこの場所。
要するに、敵軍勢を見晴るかす眺望に優れた場所、それが八国山であったというわけなのですよ。

その義貞が軍旗を立てた場所として伝えられるのが、将軍塚であるのだとか。


ここから一気に下りきったほんの先に、

今では全く面影もない住宅地の傍らにもまた一つの碑が立っているのですね。
書かれた文字は「久米川古戦場跡」と読めます。


久米川古戦場跡之碑


これより北、今の埼玉県所沢市、小手指河原での合戦の後、この久米川での合戦、
そして府中市の分倍河原での合戦と戦いを繰り返しながらが義貞は鎌倉を目指したのですねえ。
何やら兵どもが夢の跡といったふうでありますね。


とまあいささか長くなりましたが、とにもかくにも「トトロ」を思い浮かべてしまう八国山ですけれど、
日本の歴史の中で転換点にも当たるような時期に、

その行方を決める戦いのひとつが行われた場所ということも
記憶されるべきことかもしれぬ…と思ったりするのでありました。

先日は映画「ロード・オブ・ザ・リング 」を一気に見たわけですけれど、
こうしたことも家でDVDを見るという形なればこそだなと思ったものですから、
同じような企画というわけで、今度は映画「ハリー・ポッター」シリーズ全8作を

一気見してみたのでありました。


ハリー・ポッターと賢者の石 特別版 [DVD]/クリス・コロンバス,ダニエル・ラドクリフ,ルパート・グリント ハリー・ポッターと秘密の部屋 特別版 [DVD]/ダニエル・ラドクリフ,ルパート・グリント,エマ・ワトソン ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 [DVD]/ダニエル・ラドクリフ,ルパート・グリント,エマ・ワトソン ハリー・ポッターと炎のゴブレット [DVD]/ダニエル・ラドクリフ,ルパート・グリント,エマ・ワトソン



ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団 [DVD]/ダニエル・ラドクリフ,ルパート・グリント,エマ・ワトソン ハリー・ポッターと謎のプリンス (1枚組) [DVD]/ダニエル・ラドクリフ,エマ・ワトソン,ルパート・グリント ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1 (1枚組) [DVD]/ダニエル・ラドクリフ,ルパート・グリント,エマ・ワトソン ハリー・ポッターと死の秘宝 PART 2 [DVD]/ダニエル・ラドクリフ,ルパート・グリント,エマ・ワトソン


ハリー・ポッターの原作がそもそも「指輪物語」の影響下にあることは元より、
この間訪れた西洋美術館の常設展 にあるヘーラルト・ダウの「シャボン玉を吹く少年と静物」 を見たときに「なんだかロン・ウィーズリーみたいだな」と思ったりしたことにもよるのでして…。


それにこのシリーズは第7作(原作の最終巻の前篇)までを映画館で見ていながら、
最終作を見ないままほったらかしにしていましたので、どう収まりがついたのか知らない、
そういう意味では初めて見る結末ということになったのですね。


では、最後だけ見ればとも思ったわけですが、

どのみちすっかりストーリーを忘れてるだろうしとまあ、
そんなあれこれが一気見につながったというわけです。


そもそも最後の最後まで見ずじまいでいましたのは、ストーリー展開の故といいましょうか。
結局のところはハリーとヴォルデモートが決着を付けて終わるのだということが想像されながらも、
そちらの進行が実にのんびりで、クィディッチの試合なんかをやってたりするものですから、

(そればかりではありませんが)「もういっか…」と思ってしまったのでしょう、きっと。


例えてみれば「名探偵コナン 」で黒尽くめの男たちとの話の進み方があんまりのんびりなんで、
「もういっか…」と読まなくなってしまったのと似てるといいましょうか…。


ということでいざ全部を見てみると、

先に「ロード・オブ・ザ・リング」を見た後ということもありましょうけれど、
改めて「指輪物語」との類似なんつうことを思ったりするわけですね。


ひとつはハリー・ポッターとヴォルデモートが

お互いに心を読み合うようなつながりを持っていること。
指輪といった物の介在はありませんが、

主人公が常に悪の権化の側に引き寄せられそうになりつつも健気に踏みとどまって…

という構図はフロドとサウロンの引き写しですものね。


また細かいところで言えば、
ロンがハリーに掛ける「一人で背負い込むなよ」なんつう台詞も

やっぱり「指輪物語」を思わせるところがありますし。


さらに(これは最終作を見て分かったのですけれど)ダンブルドアのしたたかさは、
先日思いつきで披瀝したフロドに指輪の重荷を背負わせたガンダルフのそれと、
実は全く同じではなかったかとも思ったところです。


ところで、ここでハリー・ポッターならではのなかなか特異な人物のことに触れておきたいなと。
セブルス・スネイプ(アラン・リックマン)のことでありますね。


話の最初の方、登場段階からして胡散臭さ全開ですものねえ。
クィディッチの試合中に呪文でハリーを妨害しているとハーマイオニーに見咎められても

仕方が無いわけです。


実はハリーの邪魔をしていたのはクィレルで、

スネイプはこれに対抗する呪文を唱えていたのだと後に分かって、
「え?この人はいったい?」となる。


その後もハリーあるところに必ず現れては「吾輩、吾輩」と教師風を吹かせ、
あたかもハリーの行動を見張ってるようにしか思えないに見えつつも、

妙にダンブルドアの信頼を勝ち得ている。

これはいったいどうしたことか…と、

なかなか素直には進行していかないヴォルデモートとの決着以前に、
スネイプの背景が明らかになるのはいつか?が焦点にもなってくるというものです。


で、これも最終作で初めて明かされるわけですが、そう来たかぁ!と思いましたですねえ。
スネイプの育ちからすると、どちらかというと陰気な性格が形成されてしまうのかもと思うわけですが、
その挙句として恋しい人に認められるためには、他から一目置かれるようにならなくてはと思い、
たとえそれがダーク・サイドの側であっても厭うことなしに…というところまで追い詰められるのは
実に実に苦しい選択でもあろうかと思うところでありますよ。


最後まで見て、スネイプの立ち位置の微妙さというのは分かった気がするわけですけれど、
ではハリーの父親のスネイプへのふるまいというのは、

スネイプの回想だけで判断してしまっていいのかがちと判然としないところですが、

ストーリーの中ではこの点もクリアになっていたんでしょうか。

結局のところ長さにだれて見逃したかもしれないなといささか不安に思いつつも、
ま、元々気になっていた決着がついたから、それでもいいかと…。