エカテリーナ (原音はエカチェリーナの方が近いらしいので、もしかして昔の言い方?…)とか、
ラズモフスキーとかとロシアづいてきたところでまたひとつ思い出したことがあるのですね。


先月猪苗代湖畔に天鏡閣 を訪ねましたけれど、この建物を作らせた有栖川宮威仁親王は
明治24年(1891年)、時のロシア皇太子ニコライが来日した際の

接伴委員長であったということであります。


そして、このニコライ来日時に何が起こったか。
琵琶湖遊覧を終えてニコライ一行が人力車で京都に戻る道筋で、
あろうことか警護に当たっていた側の警官がやおらニコライに斬りかかった…
いわゆる「大津事件」でありますね。


以前、佐木隆三さんの「勝ちを制するに至れり」を読んで

「大津事件にはこういう顛末があったのか」と知ったのですが、いささかうろ覚えでもありますので、

この機会に別の本でもって大津事件を反芻しておこうかと思い、
吉村昭さんの「ニコライ遭難」を手に取ったのでありますよ。


ニコライ遭難 (新潮文庫)/吉村 昭

ところで、大津事件を描いた小説のタイトルとして「ニコライ遭難」はそのものズバリですけれど、
先の「勝ちを制するに至れり」とはどういうことであるのか…

実はこの部分は「そういう顛末が…」と思った部分なのですね。


話を端折ってしまいますと、
今後の日露の友好関係を構築する礎とすべく招かれたロシア帝国ニコライ皇太子が難に遭った

大津事件の犯人として津田三蔵が逮捕されるのですが、

裁く側である司法関係者は刑法に照らして謀殺未遂の適用で臨む姿勢であったところ、
この重大事にロシアから領土割譲、多額の賠償金、さもなくば戦争勃発かと危ぶんだ閣僚・元老は

「一般人に対する謀殺未遂で裁くとは罷りならぬ。皇室に対する犯罪と同様に扱うべし」

と強硬に主張します。


謀殺未遂では最も重くて無期徒刑のところ、皇室罪とすれば死刑となるわけで、
ここで法を曲げてもロシアのご機嫌取りをしておかなれければどんな国難に曝されることか…と

閣僚たちは考えているわけですが、時の大審院(今でいう最高裁でしょうか)院長の児島惟謙はじめ、

事件の審理を担当する判事一同、この後の国難が予想されても法を曲げることはできない

との考えなわけです。


担当判事を呼びつけて閣僚が切り崩しを図るようなことも起こる中、
大津で始まった裁判の結果は「謀殺未遂による無期徒刑」との判決。
これを知った児島が東京に宛てて打った電文が「カチヲセイスルニイタレリ」であったといいます。


裁判の行方を見守るために、閣僚を代表して大津に乗り込んでいた内務大臣西郷従道は
東京への帰り際、児島に対してこんなことを言います。

これまで私は、乗りこんできて負けて帰ったことはない。今度は負けて帰る。この結果がどうなるか、よくご覧になっていて下さい。

いかにも明治維新に至る過程を通じて、

戦いで敵対する側を捻じ伏せてきた人物であることがよく分かります。
この発言は、本人にとってみれば自分の存在意義そのものでもあったのではないかと

思われるところですね。


まあ、戦いで勝ち取った明治維新の立役者たちが集まった政府だからというだけに止まらず、
行政の側が良かれと思うように、法を運用することの不適切さを感じさせるところもでもあります。


一方で、児島の側から西郷にかけた言葉はこのようなものでした。

およそ社会で法律ほど堅苦しいものはありません。今回のことも、それに適した法律さえあれば、閣下らの御満足のいける結果が出たはずです。法律理論のやむを得ないことで、どうぞご理解ください。

ある法律はあるままに運用する。無いものは無い。

無いからといって、ある法律を無いものがあるかのように運用はできない。
それが法律だ、ということを言っているわけで、

これが法律であると同時に法律の限界でもありますね。

そういうものであるとした上で厳正に対応していくためには、

司法の独立性は守られなければ、それこそ諸外国の謗りを受けると児島は考えていたわけです。


突発的にロシアとの間に生じた暗雲ももちろん問題ながら、法律の関連でいえば、

当時は諸外国との間にあった不平等条約の改正もまた大きな問題であったわけで、
「日本の司法制度など信用できんから、自国民を日本の裁判に委ねるわけにはいかん」

という諸外国は治外法権をしっかりつかんで放さず、条約改正に応じない姿勢だったのですね。


ここで恣意的とは言いすぎながら、法解釈上の無理を押して大津事件を決着させたとしたら
条約改正論議に悔いを残すことにもなると考えられていたのでしょう。


結果的に言うとこの事件が契機となった日露間の何かしらがあったわけではなく、
司法権の独立を闡明にした明治日本は列強に遅れを取ることのない国づくりを進めていき、
大津事件当時あれほど恐れたロシアとの間にも13年後の1904年には日露戦争が勃発、
その後の戦争の歴史へと向かっていってしまったのですね。


いったい独立国のありようとは何でありましょうかねえ…。

映画というのも描きようだなと当たり前のことを改めて思いつつ、
そして「面白い映画だったな、後味もよろし」と反芻しながら、映画館を後にしたのですね。
ブルガリアの映画「さあ帰ろう、ペダルをこいで」のことであります。


映画「さあ帰ろう、ペダルをこいで」


共産党政権下のブルガリア
政府よりの、というよりは完全に何とか委員みたい立場として治安維持の名のもとに

誰彼なく見張っているような工場長のところで働いていたヴァスコ。


生きていくために行った経歴詐称(ここでもまた生きるための隠し事 …)を運悪く工場長に見つけられ、
職を失いたくなければ、義父のバイ・ダンの行動を逐一報告せよと命ぜられるのですね。


この義父というのが、今ではすっかり悠々自適のおじいさんで
酒場に集まる仲間たちと得意のバックギャモンで勝負するのを楽しみしている毎日といったふうながら、
かつては民主的な言動が多く当局には睨まれっぱなしという人物。


妻の実家に義父母と同居のヴァスコは到底義父を裏切ることもできず、
かといってここで仕事を失っては食べていく道が無いと、

やむなく祖国ブルガリアを離れることを決意します。


妻と子供のアレックスを連れてなんとかイタリア の難民キャンプにたどりつき、
そしてその後何とかドイツ 行きを果たして新たな暮らしを始めることにしたわけです。


とまあ、こうしたバックグラウンドを書いていくと政治難民の重い話のようですし、
実際には重く受け止めるべき問題であったと思うわけですが、

ここは先に言った「描きよう」が生きているのですね。
全面的に漂うペーソスが最高です。


ヴァスコ夫婦と孫がドイツに去って老夫婦二人になり、何年か後のこと。
この二人のもとに突然の悲しい知らせが届くことになります。


家族三人で乗っていた車が事故にあり、ヴァスコ夫婦は死亡、

孫(といっても既に30代のようです)だけは助かったものの、
どうやら記憶を失ってしまったらしい…。


取る物も取りあえずドイツの病院に駆けつけたバイ・ダンに、
孫からは「あんたなんか知らない、帰れ」という言葉が投げ付けられる。


それでも自分が孫の記憶を甦らせてやると、孫に見せたのがタンデムの自転車でありました。
「とにかく乗れ!」と。「ブルガリアに帰るぞ!」と。


タイトルはここら辺の自転車行でのおじいちゃんと孫の、

だんだんと暖かさが増していく交流の部分からつけられたものでしょうけれど、

この元民主化運動闘士の老人はただものではありません。


だいたい30代の孫がいる年齢というのは、

どんな早く子供が生まれていったとしてもやっぱり70代、
普通は80代くらい行ってそうな気がしますけれど、

二人乗り自転車でアルプス 越えですよ!いやはや。


でも、こうした部分を考えても、全篇のタッチを考えても

寓話風だなと思えば良しと思えてしまうのですよ。


そして、ドイツからブルガリアに帰るのにアルプス越えかぁ?と思っていたところ、
辿り着いたのはおじいちゃんの家ではなく、別の場所。

ふむふむ、なるほど。そしてここで、アレックスは記憶を取りもどすのですよ。


その後、祖父母の家に帰ったアレックスは酒場の仲間に紹介され、

かつて祖父から教わったバックギャモンでもって、
その祖父と優勝決定戦を争うことになるという。


この最後の最後、これはですね、もう見てくださいとしか言いようがありませんね。
人生の中で何かときつくきつく結ばれて玉のようになってしまう心の綾が

ほどけていく、溶けていく瞬間です。
ぜひぜひ感じてみていただきたいものですねえ。

大公妃殿下はどうやらパーヴェルさまよりもアンドレイ・ラズモフスキーの方を気に入っておられますようで… いかがいたしましょう、女帝陛下。まずいことにならぬうちにアンドレイを宮廷からさがらせましょうか。

これはちょっと前に読んだ「女帝エカテリーナ 」の中に出てきた一節でありまして、
ロシア大公である息子のパーヴェル(後のパーヴェル1世)のところへ

輿入れして大公妃となったナターリア・アレクセーエヴナがどうやら夫とは別の人物に

熱を上げていることを憂えた廷臣がエカテリーナにご注進に及んだ場面でありますね。


さりながら、こうした男女間の出来事には女帝自身からして

たいへん豊富な経験?をお持ちだものですから、
「しばらく放っておきなさい」とのお言葉で廷臣は引き下がっていくという。


ところで、ここで名前の登場するアンドレイ・ラズモフスキーなる人物。
これはもしかして、1806年に完成を見たベートーヴェン の弦楽四重奏曲作品59で、
ラズモフスキー・セットとも言われる第7番、第8番、第9番の三曲を依頼した

ロシアのウィーン駐在大使その人なのくぁ?!と思ったのですね。


ベートーヴェンに作曲を依頼した人としてはもっぱらラズモフスキーとしか聞かないものですから、
アンドレイ・ラズモフスキーがその人なのかは分からずに検索してみますと、

Wikipediaにこうした記載が見つかりました。

ベートーヴェンはロシアのウィーン大使だったアンドレイ・ラズモフスキー伯爵から弦楽四重奏曲の依頼を受けた。

なんだ、これで決まりではないか!とは思ったものの、
世界史の授業の中でも同名異人は山ほど出てくるところですし、

親子で同じ名前の登場など日常茶飯事。


そして、当のWikipediaにはアンドレイ・ラズモフスキーの項目が無いものですから、
生没年も分からずじまいで、それならもそっと調べてみようかいと思ったわけです。


その結果として、アンドレイ・ラズモフスキーは1752年生まれで1836年に没した人物であり、
ロシア帝国の外交官としてオーストリアに駐在していたことが分かったのですね。


ちなみに、うっかり?誼を通じてしまった大公妃ナターリア・アレクセーエヴナが1755年生まれ、

アンドレイとは3歳違いで年齢的には適当なカップルっぽいですし、

当のナターリアは産後の肥立ちの悪さから亡くなってしまうのですが、

(ちなみに池田漫画によれば、アンドレイの子らしい・・・)
ナターリアの没年が1776年ということはその前のお付き合いということで

アンドレイ23歳くらい、ナターリア20歳くらい、若気の至りのなせる業としてはやっぱりしっくりくるような。


とすると、このアンドレイ・ラズモフスキーこそ、

やはり後年ウィーンでベートーヴェンを支援した音楽愛好貴族の

ラズモフスキー伯ということになりましょうか。


ところでこのラズモフスキー一族ですが、あれこれ検索するうちに気がついたのですけれど、
Wikiに個人名の項目は無かったものの、ラズモフスキー家という検索ワードで

ロズモーヴシクィイ家の項に飛ぶようになってました。


ロズモーヴシクィイとはおよそ耳にしたことがないですが、どうやらウクライナ 語とのこと。
そもそもラズモフスキー家はウクライナ起源でザポロージェ・コサック

ヘトマン(最高位の軍司令官)の家系であるそうな。


一族が最盛を誇ったのは、そもそもアンドレイの伯父にあたるアレクセイ・ラズモフスキーが
エカテリーナ2世、ピョートル3世の先代である女帝エリザヴェータの寵を受けたことからのようです。
エリザヴェータの帝位継承にあたってのクーデタに功を収め、

陸軍元帥、伯爵に取り立てられたのだとか。


アレクセイの弟、つまりアンドレイの父であるキリル・ラズモフスキーはといえば、
今度はエカテリーナ2世の即位にあたってのクーデタに関与し、

その治世下では科学アカデミー総裁の地位に付いたそうで、その関係からでしょうか、

キリルの子アンドレイも宮廷に出入りをして、ナターリアに近づけたというのも。


しかしまあ、この恋愛遊戯というのか、愛憎劇というか、

どこまでが本当の話かは想像もつなかいところでありますけれど、
少なくともアンドレイ・ラズモフスキーという人、

ウィーン気質 」といわれるような浮いた雰囲気のウィーン社交界では
水を得た魚のようであったかもしれないですねえ。


一方で、作曲の依頼を受けたベートーヴェンですけれど、

ロシアの大使からの依頼であったからでしょう、ロシア民謡の旋律を用いたりしているのだとか。


ただ、ラズモフスキー伯の出自をベートーヴェンがどこまで知っていたかは分かりませんが、
第7番第1楽章の明るい疾走感には、戦闘から離れてひとときの解放感でもって馬を駆る

コサックの姿を思い浮かべてしまうところでもあろうかと。


ということで、個人的にはまだ少し弦楽四重奏 あたりへの興味は続いておりますので、
ラズモフスキー・セットをじっくり聴いてみるとしますかね…。

先に読んだ池田理代子さんの漫画「天の涯まで 」が朝日ジャーナルに連載されていた…

ということで思い出しましたけれど、
かつて「右手にマガジン、左手にジャーナル」と言われた時代がありましたですね。


当時の少年マガジンには

「巨人の星」と「あしたのジョー」という二大スポーツ漫画が同時に連載されていたというのは
夙に有名なお話で、今から考えるとなかなかに贅沢な内容ではなかろうかと。


巨人の星(1) (講談社漫画文庫)/川崎 のぼる あしたのジョー(1) (講談社漫画文庫)/ちば てつや


その後の少年漫画雑誌の盛衰は

「ドカベン」と(スポーツ漫画ではありませんけれど)「がきデカ」が掲載された少年チャンピオン、

そして次々と何百万部突破と記録を打ち立てた少年ジャンプへと移り変わって行きます。


てなことを思い出していくうちに、
しばらく前に雑誌でスポーツ漫画を語った対談記事を読んだなぁと思い当たったのでありました。

記事に曰く、ひと頃のスポーツ漫画というのは

あたかも武蔵対小次郎の一騎打ちといった形で描かれていたのだと。


例えば「あしたのジョー」はボクシングですから一騎打ちで間違いない!と思うところですけれど、
それではボクシングよりもさらに作品の多いであろう「野球」という

1チーム9人で対戦するようなのはどうなの?と思いますですね。

それこそ「巨人の星」なんかはどうなのだろうと。


が、これもチーム・プレイと言われるスポーツながら、
結局のところピッチャー対バッターの一騎打ちに還元されてしまっている、というのですね。

野手の動きとか監督の指示とかいうあたりは一切関係なしの一騎打ち。
「巨人の星」で言えば、あくまで星飛雄馬対花形満であり、星飛雄馬対左門豊作なのだというわけです。


でもって、バッターの側にはあまり小細工がきかないものですから、

ピッチャーの方に工夫が集中して、眠狂四郎の円月殺法のような魔剣ではありませんが

「魔球」なるものが登場するということに。


しかもその魔球が打ち込まれでもしようものなら、

禊と同時に新魔球開眼に向け山篭りをするあたり、
古えの剣豪がかくやの振る舞いに及ぶと指摘されるとなるほどなぁと思いますですね。


よく考えてみれば(よく考えてみるまでもなくですが)
「巨人の星」の大リーグボールからして実にトンデモ魔球なのですけれど、
その後に「侍ジャイアンツ」のハイジャンプ魔球やら大回転魔球やらを見ると
大リーグボールは地に足が着いているような気がしてしまいます。


侍ジャイアンツ (1) (講談社漫画文庫)/梶原 一騎 赤き血のイレブン 1 完全復刻版 (ヒットコミックス)/梶原 一騎


そうそう、魔球といえばサッカーものの「赤き血のイレブン」には
サブマリン・シュートなんつうのもありましたっけ。

とまれ、野球漫画のこうした傾向に一大変革を加えたのが水島新司さんであるそうな。


ドカベン (1) (秋田文庫)/水島 新司


「ドカベン」と言えば山田太郎が主人公と言えましょうけれど、
山田はピッチャーではなくキャッチャーとして試合全般に目配りする立場なわけです。

加えて、ナインやら監督やらをそれぞれ個性的に描き分けていたように思いますですね、確かに。


野球の試合が必ずしもピッチャー対バッターの一騎打ちばかりではない、
やはりチーム・プレイなんだということに目を向けた作品作りが展開されたというわけです。
もっとも、殿馬の秘打はご愛嬌でしょうけれど。


リアルタイムで読んでいる頃は

ただなんとなく「面白い」「つまらない」という尺度でしか考えてませんでしたが、
(ちなみにジャンプに連載されていた「アストロ球団」の試合進行の遅さに呆れ返ったり…)
日本が世界に誇る?漫画の世界も分析的に見ればいろんなことが言えるのですなあ…。

ロード・オブ・ザ・リング 」、「ハリー・ポッター 」とまとめてみると長い映画を見てきましたけれど、
こうなると「さて、お次はどうしたもんだろう」てはふうについつい思ってしまうわけなのですね。


長い長い映画というのもあれこれあるとは思ったのですが、
ここはひとつ傾向を全く変えて「ダイハード」のシリーズ4作、これを立て続けに見てしまおうということに。
これを思いついたのは、「ハリー・ポッター」で印象が強かったスネイプ役で登場した
アラン・リックマン繋がりということになりましょうか。


ダイ・ハード [DVD]/ブルース・ウィリス,ボニー・ベデリア,レジナルド・ベルジョンソン ダイ・ハード2 [DVD]/ブルース・ウィリス,ボニー・ベデリア,ウィリアム・アザートン

ダイ・ハード3 [DVD]/ブルース・ウィリス,サミュエル・L・ジャクソン,ジェレミー・アイアンズ ダイ・ハード4.0 [DVD]/ブルース・ウィリス,ジャスティン・ロング,ティモシー・オリファント

そのアラン・リックマンがドイツのテロリスト集団のボス、ハンス・グルーバーとして登場するのが
元祖「ダイ・ハード」でありますね。


この元祖「ダイ・ハード」である1作目(そうそう、2作目もですが)はクリスマスの物語でもあるという。
日系商社のビルと思しきナカトミ・プラザがグルーバーらに占拠されたとき、
館内のワン・フロアではまさにクリスマス・パーティーの真っ盛り。


このナカトミ・プラザとされたビルは実際にセンチュリー・シティにあるんだそうですね。
その名もフォックス・プラザと20世紀フォックスの持ちビルとあっては大写しも宣伝でしょうか。


ところで、そうしたところへ登場するハンス・グルーバーとの名乗りは、
どうしたってフランツ・クサーヴァー・グルーバーを思い出させるところかと。

こちらのグルーバーさんはテロリストでも何でもなく、

かの有名な「聖しこの夜」(Stille Nacht)の作曲者。
つまりはクリスマスつながりと言うわけですが、まあ偶然のネーミングですかね。


さりながら第1作でフィーチャーされている音楽はと言うと(今回初めて気がついたんですが)、
ベートーヴェンの第九 なのでありました。


ナカトミ・プラザのパーティーでも何気なく流れてますと、よく聞くといろんなところに。
いちばん印象的なのは巨大金庫が開いた瞬間に流れるところでしょうか。
決して大きな音でなく、実にさりげない使い方です。


逆に大きくあしらわれているために、「ダイ・ハードと言えばこれ!」と思い込んでいたのが
シベリウス の交響詩「フィンランディア」ですけれど、こちらは第2作にしか出てこないことが
改めて分かりました。


ちなみに第3作でまたさりげなく使われるのが「ジョニーが凱旋するとき」。
Wikipediaによりますと「『ダイ・ハード3』ではテンポをあげて勇ましい曲調に編集し、
金庫からテロリストが金塊を奪取するシーンで使われている」とありますが、
むしろ静かめに流されているところの方が「お!」と思いますですね。
これが4作目になるといわゆる洋楽指向になって、個人的にはあまり印象に残りませんでした。


ところで、シリーズ通しての主人公ジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス )は
「世界一ついてない男」とも言われますが、賊の側からすれば本来練りに練った計画を

たまたま居合わせたマクレーンに引っ掻き回されるわけで、

タイトルの「Die hard」よろしく「なかなかくたばらねえヤツだな」ともなろうかと。


そうした意味合いからすると、

高層ビルという閉ざされた空間で孤軍奮闘する姿を描いた第1作が最もピタリとくるわけでして、
ダラス国際空港という単体のビルよりは広めになるもののそれでも限定的な空間で駆けずり回る

第2作も延長線上にあるとは言えましょうか。

原題も「Die hard 2 : Die harder」ということで、スケールアップ感を出しているのでしょう。


ところがその後はさらに広い空間になって、第3作ではマンハッタン を縦横無尽に動き回り、
第4作ではワシントンD.C.を中心にその周辺までが活動範囲になってきます。
(冒頭はニューヨークから参考人をD.C.まで護送するところもありましたですね)


まあ、空間の広がりの方はまだしもとしても、

行動を共にして「ついてなさ」を共有する相棒が存在するようになってくるあたり、
(第3作ではサミュエル・L・ジャクソン、第4作ではジャスティン・ロング)
やはり孤軍奮闘に陥らざるを得ないことこそ「ついてなさ」の極みもでもありますし、
もはや敢えて「ダイ・ハード」のシリーズとしなくてもいいんでないのかなぁと思ったりするところです。


付かず離れずのマクレーン夫妻の状況も、

エンディング・ロールで流れる「Let It Snow! Let It Snow! Let It Snow!」も無しですしねえ…。


確かに映画の技術的な進歩もあり、だんだんとスケールアップしていったシリーズですが、
やっぱり面白さでは第1作でしょうかね。

アラン・リックマンのカメレオン演技の妙と最後にビルから落ちていくときの顔つきが忘れらないですし。


ところでところで、やっぱり第1作の中で、
立て籠もり事件で人質が犯人に共感を抱くことを「ヘルシンキ症候群」と言ってましたが、
これは「ストックホルム症候群」のことではないかと。


「ダイ・ハード」の中で「ヘルシンキ症候群」という言葉がなぜ使われたのかということが不明で、
しかもこの映画で使われたことで「ストックホルム症候群」でなくて「ヘルシンキ症候群」が正しい、
あるいは両方共に実際ある名称と思ってしまっている…てなことが、
取り分けネット社会になって勝手な広まりを見せたりしてるようです。
「ダイ・ハード」関係者がひと言語って、はっきりすっきりさせて欲しいところでありますねえ。