宮沢賢治 も好きですし、ますむらひろし も好きですし…となれば、
どうしても映画「グスコーブドリの伝記」は見に行ってしまうのですね。
公開時期の違いもありましょうけれど、隣のスクリーンで「NARUTO」が満席、
こちらではほどほどの入りとは、いささか淋しい限りとも申せましょうか…。
さりながら、見終えて思うところは「これは、宮沢賢治じゃない…」ということかも知れぬと。
思わず帰宅してから、ますむらひろしの漫画版と宮沢賢治本来の童話を読み直してしまいました。
細かな違いは多々ありますけれど、決定的な違いのひとつは妹ネリのその後のこと。
その後といっても藪から棒ですのでストーリーに触れますと、
木こりのグスコーナドリは妻と息子、娘の4人家族で森の中で暮らしていたのですね。
冷害による飢饉が続き、近隣の農家が立ち行かなくなると木こりの仕事でも生計が立てられなくなり
やがて父が姿を消し、母も追って森に消えていき、息子と娘が二人取り残されてしまうという。
家にはいささかの食料が残されはしますので、このあたり生活に窮した父母の行動としては
このままでは共倒れだから、残酷なようだけれども何とか自分たちの生活を切り開いてほしい
ということなのかもですね。
家を立ち去る父にしても母にしても着の身着のまま、何を所持するでもなく、
自分たちが家を出て何をどうできるという目算さえなく、子供を連れていってはやはり共倒れになる、
とすれば、わずかとはいえ食料と家を残していくのが精一杯の選択だったのかもとも思えないではない。
と、こうして残された兄妹がグスコードブリとネリでありますが、
程なく家に人買いが現れて妹のネリを連れ去ってしまうのですね。
問題はその後のネリの描かれ方とグスコーブドリの態度といいますか。
原作では、ネリを連れ去ったものの、数日後にはもてあましてしまい、
農場の傍らにネリは置き去りにされることになります。
が、農場主がよく出来たもので、ネリに住まいと仕事を与え、
やがては長男と結婚させて、農場を継がせるということになっていく。
紆余曲折を経てイーハトーブ市の火山局技師になったグスコードブリとも再会を果たす姿が
描かれているわけです。
ところが、この映画版ではネリのその後ははっきりしません。
イーハトーブ市に向かおうとして乗り込んだ汽車で眠り込んでしまったグスコーブドリが目覚めると、
どうやらたどり着いたところは上野駅(とは、いっさい説明されませんが)。
遠くに浅草十二階と呼ばれた凌雲閣 が望まれる様子が描かれます。
駅で見かけた人買いの姿を追ってグスコーブドリは浅草十二階へ紛れ込む。
こうした辺りからは、先日読んだ「浅草紅団 」のこともあり、
てっきりネリは吉原の籠の鳥になってしまったか…と思わせる場面でありますね。
浅草十二階の展望台からまた例の人買いの姿を見つけて追いかけると、
今度はおそらく六区の芝居小屋が並ぶあたりに出るのですが、
ふと見上げた目の前の小屋でかかっていると思われるサーカス の看板絵に
どうやらネリと思われる姿が描かれているわけです。
さては、サーカスに売られてしまったか!
・・・というところでグスコーブドリが目を覚ましてみれば、イーハトーブ市に到着したところ。
要するにこの挿話は夢だったわけで、本当のところネリがどうなったのかは全く触れらないのですね。
グスコーブドリにとってみれば「正夢かも」くらい思ってもいいところながら、
その後は火山局に勤めることになって、ネリを探すこともしないという。
想像でしかありませんが、明治の時代、東北の寒村でこうしたことが起こったとしたら、
原作にあるようはその後の幸運に恵まれるよりは、サーカスに売られてしまった…てな方が
よほどリアリティがあるのかもですが、ご存知のとおり賢治の妹思いは尋常ではないわけで、
兄妹が登場する話に自分たちを全く重ねないとは思われず、
どうしたって賢治にしてみたら、原作のような話になるだろうと思うわけですね。
それを、この改変・・・。
そして、もうひとつ。
最後の最後ですが、再び冷害の気配濃厚な状況下、
カルボナード島の火山の噴火させることで炭酸ガス(つまりは温室効果ガス)を放出させ、
気温を上昇させよう、ついては自分が噴火を引き起こす爆破を担当しようとグスコーブドリは
買って出るところです。
ここでは「また冷害になって、自分たち一家を襲った事態を起こしていけない」という思いながらも、
映画の中で呟かれる「自分はどうなってもいい」みたいなひと言は蛇足というか、
むしろ賢治の思いから離れる自己陶酔的な一言ではないかと思うのですね。
これがある種感動の誘いどころなのかもですが、
ここでオフコースの「生まれ来る子供たちのために」が流れた日にはぶっとんでしまったわけです。
この国が…なんつうマクロ目線でなくって、近くの人が困ってる、どうしよ?っていうミクロ目線。
わざわざ原作にない「雨ニモマケズ」を最初の方でグスコーブドリが通う学校で朗読してたのは、
単に賢治つながりだからってことになってしまいますね。
おお、困ってる人がいるよぉ、どうしよ、どうしよ、おろおろするもいい考えも浮かばないし、
とんちなんかんことをしてしまうかも、やっぱりデクノボウかも、ほんとに。
てな思いの中で、このときに思いついたのが、火山を噴火させること。
そうとなると後先は考えない。自分がどうなるかなんて考えない。
だから「自分はどうなってもいい」なんていう自分本位の一言があるはずもない・・・。
これはますむら漫画版にもないので、全く映画オリジナルなのでしょうけれど、
どうしてこうしたことになってしまったのだろうと首を捻るばかり。
映画をご覧になった方がいらしたら、是非賢治オリジナルと比べて、
違う場面のなぜを考えてみてほしいように思うのでありました。





