前にもガムラ・スタン のところで触れましたけれど

「Gamla」はスウェーデン語で「古い」の意のようですから、
ガムラ・ウプサラとは古ウプサラてな場所でありますね。


ウプサラ大聖堂 が今の地に建造される以前はガムラ・ウプサラの方にあったのでして、
ざっくり言ってしまえばウプサラが京都でガムラ・ウプサラは奈良てなことかと。


ですから、ウプサラの方で見て回ったのはスウェーデンというまとまった国を作った
グスタフ・ヴァーサ王以降の王様ゆかりの場所だったりしたのですが、
ガムラ・ウプサラにあるのはそれ以前、ちょうど日本でいうところの古墳時代のものとでも言えば

当たらずとも遠からず(?)。


バスを降りたばかりでは何つうことのない郊外に来てしまったかという印象ながら、
「Gamla Uppsaka→」みたいな簡単な導標に従って歩いていきますと

やがて一帯の案内図に行きあたるのですね。


ガムラ・ウプサラ周辺図


確たる記録のない伝承の時代といったらいいでしょうか、
そうした頃の王様の墳墓が、案内図の②③④のように並んでいるという。
いささかのワクワク感が生じる瞬間なのですね。


少し進むと左手に木造の建物が見えてきますが、これがガムラ・ウプサラ博物館。
ここには後から入ることにして、もそっと歩を進めると「おお、見えてきたぁ!」。
こんもりと盛り上がった丘が連なっておりますよ。


ガムラ・ウプサラの王墓


さらに接近し、さきほどの案内図の⑭に登ってみますと、
(⑭には登れましたけれど、②③④は周囲から見るだけで登るのは禁止のようです)
はっきりした形の3つの向こうにもいささか型崩れしたようのが、

フェイドアウトしていくように続いているふう。


ちなみに、真ん中にアウン王、奥にその子エギル、手前には孫のアディルスが

それぞれ埋葬されているそうで、この王家のことは

「ユングリング・サガ」という伝承に語られているといいます。


王墓は連なって…


せっかくですから、周囲をひと周りしてみたところ、所々に解説板が据え付けられています。
その中のひとつによれば、王墓はこんなふうになっているようですね。


王墓の解説


日本にも丸い形の円墳という古墳がありますけれど、

王様をこういうふうに葬ろうと思いつくことっていうのは
洋の東西を問わずなんでありましょうか。


このガムラ・ウプサラの墳墓は6世紀頃に造られたとも言われておりますので、

まさに日本の古墳時代ではないか!てなものでありますよ。


王墓の草刈り


ところで、ふと気付いてみると登ってはいけないはずの王墓の近くに人影が。
どうやら草刈りをしているようですね。放っておくと草ぼうぼうになってしまうようで。


周囲は広々として…


それにしても、実に実に広々とした土地でありますねえ。

反対側には一面の麦畑でありますよ。


ガムラ・スタンの麦畑


個人的には(ストックホルムを差し置いて何ですが)このガムラ・ウプサラの、

スウェーデンの原風景のような景色がこちらに来て一番のお気に入りになってしまいましたですよ。

なんか和むんですよねえ。


近くの教会には建物の一部にルーン文字を刻んだ石碑が礎石のように使われてました。

こういう場所で見るとまたまた印象深いと思う一方で、

元はゲルマン古来の神々を信じていた人たちが、

キリスト教会に信仰を移した(とりこまれた?)ようにも思えたり。

しっかり十字架文様ですものねえ。


ガムラ・ウプサラ教会の外壁


実はここの教会の中にも歴史を偲ぶあれこれが詰っているはずなんですが、

あいにくクローズしていて、やむなくガムラ・ウプサラ博物館に脚を向けました。


ガムラ・ウプサラ博物館


木造で古びた感じがする建物ながら、

それでこそ周囲に浮かないというようになってるのかもですが、中は至って現代風。

古代からの歴史をたどる年表や出土品の数々が展示されていました。

何度も言うようですが、やっぱりこういう場所で見ると!ですよね。


帰りがけのバス停の目の前でも、何やら発掘らしき作業中。

まだまだ古代の遺物が見出されるのでありましょう。


ガムラ・ウプサラ発掘中

アルゼンチンのラプラタ市。
建築家ル・コルビュジエがアメリカ大陸で唯一作った一般住宅クルチェット邸がここにあるのですね。
(アメリカ大陸で唯一現存するコルビュジエの住宅などという紹介も見られ、このあたり揺れがあります)


このクルチェット邸に住まう家族に隣人が絡むというお話。
それが映画「ル・コルビュジエの家」でありました。


映画「ル・コルビュジエの家」


「隣人は、選べない」というキャッチからして、サイコな隣人が登場する映画?と思ってしまいますが、
必ずしもそれだけではないのでして、わざわざクルチェット邸を舞台にしたというのは
当然に意図があってのことでしょうし。


外壁はほぼガラス張りかとも思える外光がたっぷり入って開放的な空間の室内とともに、
門扉から続くスロープを上っているうちにどこまでが屋外でどこからが屋内なの?と惑うような仕立て。
普通の家とは外観からして一味もふた味も違うものですから、当然脚を止めて眺めやる人もいれば、
ル・コルビュジエの作品と知ってわざわざ訪ねてくる人もいるというのが前提になっていると思われます。


そんなクルチェット邸に住まっているのは家具デザイナーの一家。
ご主人レオナルドはデザイナーであればおそらくは

ル・コルビュジエ作の家に住んでいる満足感を得ていたでしょうし、
奥さまもその自宅の一室を使ってヨガ教室を開いているというような生活からも
アルゼンチンではハイソ系と言ってもいいのかもしれません。


ありていに言うと、二人とも「いいでしょう、我が家はコルビュジエが作った家なのよ」的なしたり感、
「見て、見て、見て行って。中には入れてあげられないけど」的な得意げな心持ちを

実は隠し持っていたのではないかと。
そうした一家に事件が起こるわけですね。


ある日、家の中にいて大きな物音が聞こえてくる。
出所を探ると、階段踊り場にある大きな窓と向かい合った隣家の壁面に大きな穴が開けられている。
穴の向こうで作業する者にレオナルドが尋ねると「窓を作るそうだ」という話。


こちらの窓に向かい合わせて窓を作られては家の中が丸見えになってしまうと

作業を中止させるレオナルドですが、やがてその隣家の住人ビクトルが姿を現すと、

これが相当に強面でいかにも怒らせたら怖そうなふう。

「ただ部屋に光を入れたいだけで、覗いたりするつもりはない」

と言われただけで思わずたじろいでしまうという。


こうして窓を作らせたくない側と窓を作りたい側との接点が生まれるわけですが、
レオナルド側ではとっとと交渉を終わらせてお近づきにはなりたくないと思っているのと反対に、
何とか窓を穏便にを終わらせるためにも近所付き合いに励むビクトルとは
関わりが増えれば増えるだけ双方の受け止め方には開きが生じて行くのですね。


どだいそもそもの生き方に違いがあるものと思いますから、ビクトルが飲みに誘えば、
レオナルドにとっては「こんなことで飲めるか」という店だったりするという。


こうしたことから、レオナルドはビクトルをサイコな隣人的に受け止めるのですけれど、
先ほどの言いましたように生き方や趣味嗜好の違いはあっても、人間性の面ではどうなのか。
最後の最後で、レオナルドに偏見はなかったか…と思わざるをえない気にもなるのですよ。


この映画の場合は新しく窓を作るのに「何もそんなところでなくても」という気にはなりますから、
あながちレオナルドを責められないものの、

そもそも自分の家の窓の目の前に隣家の既存の窓があるときに
「覗かれるかもしれない」と思うかどうかはその住まう人を見て考えてしまうところはありましょう。

ビクトルがいくら覗いたりするわけがないと言ったところで、感覚的に受け付けないといったように。


また、レオナルドとしてはあれほど人が見に来る家に対して、
その家を見通せる窓があって「見ないはずがない」という意識の過剰があったかもと思ってしまったり。


一見ビクトルに比べてレオナルドがいかにも常識人というか普通の人っぽいふうであるために、
ビクトルばかりが「うむむ」な人に見えてしまいつつも、

レオナルドはといえば奥さんがいないと見るやすかさず
デザインの指導を受けに来宅した女子学生に対して

「泊っていかないか」などと誘いをかける食わせモノなのですね。


自宅とはいえ、こういうのをアカデミック・ハラスメントみたいに言うんでしょう。
それにしても女子学生が慌てることも騒ぐこともなく全く相手にしなかったというあたりも、
レオナルドという人物の(デザインはともかくも)日常的な評価あらばこそなのかもしれません。


とまあ、だんだんと何言ってんだか?というところに落ち込みかけてますが、
「人は見かけによらない」とはよく言ったものであるなと思う反面、
どうしても見かけの呪縛から逃れるのは難しいものだなとも思うのでありました。

さて、ウプサラ大学 の図書館Carolina Redivivaを出て目の前の通りを渡り、
丘の上へと上り詰めるとそこにはUppsala slott(ウプサラ城)があるのですね。


ウプサラ城

角のところに円筒形の上にお椀をかぶせたような丸まっちい部分があるものですから、
城というと戦闘への備えというか、そうした用途を考えてしまうところながら
この面持ちではいわゆる城館というやつだなと思ったわけですが、
実際に城として使われていたときのままではないのでしょうけれど、やっぱりこんなものも。



ウプサラ城の砲台


高台にありますので、射程を見通すにはうってつけでありましょう。

考えてみれば、グスタフ・ヴァーサ王が作らせた城とのことで、
まだまだ新興スウェーデンを取り巻く情勢は内外ともに厳しいものがあったと想像される中では、
このくらいの備えがなくてはならなかったようにも思われます。
されど、今となっては何とも穏やかな見晴らし。大聖堂の尖塔が間近に望めます。


ウプサラ城のある高台から

別の方角はこんなふうでして、段々と下った先は植物園とのこと。
植物学者リンネ(くどいですが現地語的にはリネー)は
スコーネ地方のルンド大学からウプサラ大学に移って研究を続けたそうですが、
ウプサラにはこの植物園とはまた別にリンネゆかりの植物園もあるのだそうですよ。


植物園を望む

城館の中にはガイドツアーで入れるようですが、タイミングが合わなかったので、
やはり城の一角にあるUppsala Konstmuseum(ウプサラ美術館)を訪ねることで
「とりあえずは中に入った」ことにしようかと。


ウプサラ美術館


ここにはウプサラ大学所蔵の美術品が展示されているということでありました。

やはり例によって、ドイツとネーデルラントの絵画が多く展示されてましたですが、
テニールスの風景画風味の農民画やアールトセンの静物画の奥行きなどに目がとまる一方で
どうしても息子ブリューゲルはアップで見るとパパ・ブリューゲル に及ばんよなぁと思ったり。


そうした中にあって、かなり劇的な印象を与えていたのがイタリアものでありまして、
アンドレア・ヴァッカロによるマルタとマリアを描いた一枚。

マルタの食ってかかり方が「てめえ、このやろー!」的な緊張を湛えておりますですねえ。


アンドレア・ヴァッカロ作品

…てなふうに見て回っているうちに、「おお、ガムラ・ウプサラに向かわねば!」というお時間。
ガムラ・ウプサラをバス往復した後には列車でまたストックホルムへと帰り、
ホテルに預けた荷物をピックアップしたら今度はバス・ターミナル発の連絡バスで
フェリー・ターミナルへ向かわねばならんというケツカッチン状態だものですから。


ウプサラ城のある丘から駆け降りて(とは誇張ですが)、バスの発着する中央駅まで舞い戻り、
ガムラ・ウプサラへ向かうバスの乗り場を確認した上でちと遅くなったものの昼飯を調達。
落ちついて食べている時間もないものですから、ファストフードというか屋台飯というか。
それでも一応スウェーデン名物ではありますが。


何度もスウェーデン語はドイツ語とも似て非なるものであるし、ようわからん的な発言をしとりますが、
この昼飯調達時にはメニューに書かれた文字を発音して相手に伝えようとは試みたのでした。
そのメニューの文字はといえば「köttbullar」というもの。


「Oウムラウト」の前に「K」ですから、
日本語的には「ケ」とも「コ」ともつかぬ、文字通りあいまいな発音で臨んだのですけれど、
後から知ったところによれば、「ショットブッラール」みたいに言うのだそうな。

よもや子音「K」があってカキクケコ以外に読もうとは思いも寄らないものですから、全く通じてない。

やむなく「ミートボール!」と言いますと、「あいよ!」てな感じでありましたよ。
そうして出てきた食べ物がこれです。


スウェーデン名物 köttbullar


屋台飯ですから実にそっけないものですが、たんまりのミートボールにたんまりのマッシュポテト。
そしてスウェーデンらしいと言いますのが、たっぷりとかけられたジャムなのですね…と言いつつ、
これほどしっかりとジャムがのっていようとは思っておらず、一瞬タジっと。


幸いにもマッシュポテトが緩衝材として最適の働きをしてくれたおかげで

意外にもおいしくいただけたですが。


ということで、腹ごしらえもちゃっちゃっと済ませて、

一路ガムラ・ウプサラへと向かったのでありました。

この間、東京文化会館に「パルジファル 」を見に行った際に、

どのみち上野に行くなら美術館にもと思っていたわけです。


さて何の展覧会にしようかと考えたときに、

マウリッツハイス には一度行って見ているし、どうせ混んでるからと思い、
ベルリン国立美術館展も混んでるだろうけど、並んでないようならば入ってしまおうかと。

やがてベルリンへ行くときに下見くらいの気分でならあまりストレスも感じるまい…ということで。


で、通りすがってみましたら、時間が早かったせいか、スムーズに入れてしまいました。

ですが、館内は結構な人出でもって、時間が経つごとに混んでくる感がありあり。
心構えとしての「下見で良し」と割り切ったのは個人的には正解であったなとつくづく…。


ベルリン国立美術館展@国立西洋美術館


それでもやっぱり目を惹くものはいろいろとあるもので、
フェルメール の「真珠の首飾りの女 」は遠目には(近寄りにくいものですから)

右手手前の椅子の鋲に注目だなと思ったり、
レンブラント 本人でないにしても工房のレンブラント派の画家の手になる

「黄金の兜の男」の金属の煌めくさまに感心したり。


レンブラント派「黄金の兜の男」


はたまたデッサンでも、

ボッティチェリ の「神曲」挿絵素描の緻密さに目を凝らした一方で、

ミケランジェロが「聖家族」制作のための習作として描いた、部分部分が

一枚の小さな紙の中におさまっているものはそれ自体で

コラージュ 風の面白みも湛えた完成作にも見えるところに

一頭地を抜いておるなあと感じたりしたのですね。


思いのほか展示点数は少ない気がしましたけれど、

それでもそれなりのお楽しみにはなったとは見終えての感想ですけれど、

実は展示の冒頭、「第一章 15世紀:宗教と日常生活」の解説のところで

ちと引っかかりを覚えてしまい…。


てなことを言うと、ちょっと前のドビュッシー展 とおんなじようですが、

会場内は混んできていましたので会場内で質問するのはやめといて、
西洋美術館そのもののインフォメーションに尋ねてみることにしたわけです。


「これこれこういうことが解説に書かれていましたけれど、どうなんでしょうか」
さすがに器の大きさの違いか、ブリヂストン美術館のようにすぐに学芸員と話をして…

みたいなことにはなりませんでしたけれど、その代わりに質問内容を記入する書式にくれまして、
後ほど郵便かFAXで返答しますということでありました。


あいにくとFAXは持ち合わせてないものですから、郵便待ちをしていたところ、

果たして返事が届いたという次第。


ただですね、思ったことの的を射た回答ではなかったなぁと。

これはひとえに質問自体がきちっとまとまっていなかったからと反省はしますけれど。


とまあ、東京展が会期終了してしばし経つのに今さらの記事ですが、

ベルリン国立美術館展自体はほどなく九州国立博物館に巡回しますので、

ま、いっかと。

ウプサラ大聖堂 を見て回ってガムラ・ウプサラまで足を伸ばす気がむくむくとしてきましたけれど、
その前にもそっとウプサラ自体を見ておこうかと思うところでして、
大聖堂に近いエリアに建物が点在しているウプサラ大学の関連施設を回ったみたのでありました。


ウプサラという街の歴史は、大聖堂だけを取ってみても十分に偲ばれるところながら、
このウプサラ大学もまた街の歴史を語る上では欠かせないものなのですね。
なにしろ1477年創立の、北欧で最も由緒のある大学でありますから。


もちろん伝統だけでなく、今に至るも高等教育機関としての権威は保たれていて、
日本ではさほどでもないかもですが、ヨーロッパでは相当に知られた存在ということでありますよ。
そのウプサラ大学本館がこちら。


ウプサラ大学本館



少々の用足しで立ち寄ったStudent Serviceのセクションといった事務関係や

教室などは別の建物で、本館はもっぱら儀礼対応とかそういうことに

使われているのかもしれません。


ですので見て回るといっても本館はこのくらいにして、

本館と公園を挟んで向かい合わせで、
大聖堂に隣接しているGustavianum(グスタヴィアヌム)の方をじっくりと。


グスタヴィアヌム



元々はこちらがウプサラ大学の本部だったようですから、大聖堂の隣にあっても当然。

昔々は神学を基礎に置いたところから諸学問が発展していったのでしょうし。


聖職者養成の役割も持っていたところから、

ルター派に改宗してスウェーデンを新教陣営に導いたグスタフ・ヴァーサ王などは

「聖職者養成ったって、カトリックのだろう」ということで、大学をいささか軽視したそうな。


それを学問の発展を別の目で眺めたのでしょうか、

後にグスタフ2世アドルフ王が改めて大学にテコ入れした…とまあ、そういう背景から

王様にあやかってこの建物はグスタヴィアヌムと呼ばれるようになったのだとか。

今では歴史博物館のようになっておりますよ。


中身としては、これまたWunder Kammer 的な雰囲気。

ちょっと前にHallwylska Museet をWunder Kammerとも言いましたけれど、
こちらは元来大学の施設であって自然科学に纏わる品々までも見られるとなれば、
Wunder Kammer色はより濃厚なのでして、

東京大学総合研究博物館小石川分館 を思い出してしまうところかと。


グスタヴィアヌムの人体骨格標本


その自然科学云々とあまり関連付けてしまうのはどうかと思いますが、
ここいちばんの見どころは展示の品々もさりながら、
最上階の、外観から言えば中央の玉ねぎ屋根の真下に当たる部分にある

解剖学用の階段教室ではないかと。


グスタヴィアヌムの階段教室


それにしても、この階段の急なこと!
今では横浜に行ってしまった球団、千葉に行ってしまった球団がかつて本拠地としていた
川崎球場の勾配も凄いものでしたけれど、グスタヴィアヌムの階段教室も山登り状態に近いような。


階段教室を上から見れば


上から見下ろすとこんな感じですけれど、
中央のテーブルではレンブラント の「解剖学講義」に見られるようなことが行われ、
多くの学生が階段から身を乗り出すようにして、解剖の様子に見入ったのだろうと想像されます。


レンブラント「解剖学講義」


ところで、小さめながらもヴァイキング関連の特集展示もありました。
そこで「オヤ?!」と思ったのがこれですね。


ヴァイキングの兜


ヨーロッパ中を震え上がらせた掠奪者集団(とは一面らしいですが)ヴァイキングですけれど、
そのヴァイキングの兜と言えば角が付いているんでは…と。


ビッケと赤目のバイキング (評論社の児童図書館・文学の部屋)/評論社

「小さなバイキング ビッケ」シリーズの一冊ですけれど、小さなビッケはともかくも、

そのお隣にはヴァイキング戦士たちが猛々しい雄叫びを挙げてますですね。

そして、そのつわものどものかぶりものにはしっかりと二本の角が!


ヴァイキングのイメージはこんな形で広く伝播している(個人的にもそう思ってました)ものの、

その実はどうやら誇張のようであって、上の展示のようにつるっとした兜だったらしいです。

こういうのを見るにつけ、日本の印象が富士山、芸者でも仕方ないところもあるかなと。


ところで、今度はウプサラ城の方向へ上り詰めて行きますと、

Carolina Rediviva(カロリーナ・レディヴィヴァ)と名付けられた大学図書館に行きあたります。


カロリーナ・レディヴィヴァ



ここには小さいながらも古い手稿本などを展示するコーナーがあるというので

覗いてみることにしたのですね。


何でもここの目玉展示は「銀文字聖書」と言われるもの。

三十年戦争の戦利品としてプラハから持ってこられたものらしいのですが、

ゲルマン民族の大移動で名前の知られたゲルマン系ゴート族がキリスト教に改宗し、

ゴート族の司教が新約聖書をギリシア語からゴート語に訳したのだとか。


金髪碧眼長身という特徴は我らにこそ生きている…てなふうに、

スウェーデンではゲルマン系の先祖直系を意識しているらしく、

戦利品とはいえ「あるべきところにある」という思いだったりもするようです。



こうした超レアものの他に、日本関係のものもありましたですね。


江戸時代の長崎の地図などを見ると、

本とスウェーデンの繋がりなんつうところを考えてしまうかと。


と言いますのも、江戸期の鎖国時代に交易を許されたのは基本的にはオランダであって、

オランダ人ばかりが日本にやってきたと思うところですが、

例えばシーボルトやケンペルがドイツ人であったように、

スウェーデン人も実は来日していたのだといいます。


例えば、フレデリック・コイエットという人物。

生粋のスウェーデン人ながら長崎のオランダ商館長 を二度務めたのだとか。

この点では、オランダ東インド会社というのは商売もグローバルなら

人材登用もグローバルだったのだなぁと思いますですね。


さらにウプサラに近い関わりとしては、

ウプサラ大学で教鞭をとった植物学者のリンネ(現地語ではリネーらしい)の弟子であったツンベルク。

(ツンベリともツュンベリーとも。現地語に近いのはトゥーンベリらしい)

オランダ商館付きの医師として来日し、日本の植物学研究にも貢献したそうな。

てなことからすると、この大学図書館に長崎の地図があったところで

不思議はないわけで(ほんとは持ち出し禁止だったはず?)、

授業の世界史では余り扱われない、縦軸でない横軸の世界史に思いを馳せてしまいますですねえ。