先にパンナム が「消滅」するあたりの本を読みましたけれど、
読んでいるときから「似たようなところがあるのかもしれんなぁ」と思っていたのが
日本航空 のことなのですね。


ということで、日本航空がらみの本を読もうと図書館で目にとまったのが、
講談社現代新書の「JAL再建の真実」という一冊。
日本航空の再建は現在進行形と思われますから、なるたけ近刊がいいなと思っており、
昨年9月刊行の本書を読んでみたというわけです。


JAL再建の真実 (講談社現代新書)/町田 徹

一時期、国際線の輸送量では世界一(旅客・貨物併せてだったでしょうか)になったこともある
日本航空は常に華やかな存在であって、パイロットにしてもキャビン・クルーにしても憧れの的であり、
はたまた地上職でさえも就職人気ランキングでは必ず上位に入るような状況がありましたですね。


こうした状況からして先日読んだパンナムの様子を彷彿させるところではありますが、
そんな日本航空も、2010年1月、ついに倒産という事態に陥ったことは大きく報道されましたので、
誰も知るところであろうかと。


本書の著者はフリーのジャーナリストのようですけれど、
丹念に経営数値をたどることで倒産劇が報じられる数年前から日本航空の実質的破綻状態に
警鐘を鳴らしてきたようです。


パンナムの倒産を振り返る中ではおよそ経営数値の分析といったものが提示されはしませんでしたので、
パンナムがよくてJALが悪いとは必ずしも言い切れませんが、
日本航空のたちの悪さ(比較でなく、単体として)は粉飾まがい(粉飾そのもの?)の財務諸表で
破綻という実態を隠し、先送りにしてきた経緯があるということでしょうか。


ホテル関連や金融関係の子会社を含めたグループでの負債総額23,200億円。
もはや一、十、百と桁を勘定していかないといくら何だか分からない莫大な負債で、
常人の理解を遥かに超えるところに言っちゃってますですね。
(元々からしての事業規模の大きさはあるのでしょうけれど)


と、ここで本書に詳述された数値的なところを引くよりも、
こういう実態にあった…というような話を聞かされた方が個人的には着いて行きやすいものですから、
端的に伝わりやすいところを引いてみるとしましょう。

ナショナルフラッグ・キャリアと言えば、どこか華やかなイメージが付きまとうが、
破綻までのJALのコスト管理は「親方日の丸」的な「どんぶり勘定」と言った方が
実態にあっていた。現場には、費用とか収支とかいう概念がすっぽりと抜け落ちていた。評価、判断の基準が存在せず、採算の合わない団体客であっても、たくさん契約をとってくればお手柄になるといった不合理な話が蔓延していたらしい。

極めて素朴な印象として「こんな企業があるのか?」と思いますですよね。
どんぶり勘定、費用・収支の概念がない、採算が合わない契約もとればお手柄…ありえない。
とても何万人もの従業員のいる大々々会社の話とは思われない。


これはやっぱり日本から世界に飛行機を飛ばすという国策的な事業を背負っているがために
常にきらびやかな衣をまとっていなければならない(それが虚飾であっても)という気負い、
そしてそうであるために国が見捨てることはないという思い込みがあってのことでしょうか。


倒産前後には国がらみの右往左往があったものの、結局のところ国は見捨てなかった。
つまりは税金が投入されて再建を始めているわけですね。


当然に倒産という激震のショックは大きかったと思うものの、
借金棒引き、税金も使って資金を供与といったあたりからすれば、
「やっぱりJALは見捨てられるどころか、なくてはならない存在」との思いが
日本航空の中に残っていくのではと思ったり。
(後のことですが、東日本大震災後の東京電力を思い出したりします)


かつての仕事柄、日本航空のパーティーには何度か出かけたことがありまして、
そういう意味ではほんの少々とはいえ恩恵に預かった口といえないこともないのですが、
思い返せば「派手な世界だなぁ」と思ったものです。


おそらくそうしたことは日本航空に限った話ではないのでしょうけれど、
イメージ先行の業界ともなると、こうした装いを続けるには
着飾って見せることが習い性になってしまうのかもしれない。
怖いものですね。


そうそう、ところでなんですが、
海外旅行の大衆化に大きく寄与したのではないかと勝手に考えていた
ボーイング747、いわゆるジャンポがどうやらコスト高の大きな原因になって、
パンナムでも日本航空でもやっかいなお荷物になっていた…という話は、
何度も何度も乗った者からすると、なにやら複雑な思いがするのでありました。




かつての電気製品は「だいたい10年もてば、買い替えどきか…」てなことであったように思うのですが、
最近は幾分あしが短くなったような気がするのですね、感覚的ですけれど。


PCや携帯電話を家電と同じに考えていいのかどうかは分かりませんけれど、
PCで言えば普通にインターネットを見ようにもスペック落ちになって動きがぎこちない状況を呈するまで
おそらく10年はもちますまい。

携帯電話の機種の移り変わりの方はといえば、端から長く使うことが想定されてないかもです。


もっともいわゆる家電の類いであっても、何事もなく10年もつということでなしに
途中で修理をしたりしつつもたせていって、ついにダメという10年目ということもありましょうけれど、
昨今はおよそ修理して…とはならずに買い換えとなるわけですね。

いくらかかるかわからない修理代金を気にするより、新しいのを買っちゃおかと。


まあ、きわめてざっくりした話ながらそうした風潮があるなぁと思ったときに、
はたと気付いてみると、自宅でもう16年、17年使っている電気製品があることに思い付いたのですね。


オーディオ、昔風に言えばステレオのアンプが17年、
一年後に買ったスピーカーが16年、気付いてみるとそんな経っていたのかと。


ずいぶんと前に自宅のオーディオ機器のこと をお話したとき、
そのときすでに買い替えの目論み対象として挙げていたのがアンプでありましたけれど、
実はその後も使い続けており、むしろCDプレーヤーの方をつい先日買い換えてしまったという。


いつガタが来てもおかしくないと思いつつも、

どうしようかなぁ…というばかりでやり過ごしていたわけですが、
それと言いますのも、ひとえに気に入っているという一点においてでしょうか。
アンプもスピーカーもです。


本格的なオーディオ・マニアの方々には次元の違う話と一蹴されるところながら、
個人的に気に入っている大きな要素は、そのデザインがあると言ってよろしいかと。


使い続けているアンプはAura Designというイギリスの会社が作ったもの。
国産アンプではおよそ見られないシンプルさは非常にスタイリッシュであるなと。


一方で、スピーカーの方はInfinityというアメリカの会社の、
今ほどトールボーイにたくさんのバリエーションがあったわけでない当時に、
木工の工芸品のような見目麗しさに「これしかない!」と思ったものです。


こうしたお気に入り状況というのは、本来音が勝負どころのオーディオ機器において、
音を聴く前から満足感となって心地よさを増幅するように思えるのですよ。


何もオーディオ機器に限らず、おそらくは対象が何であってもお気に入りと共にある状況というのは
気分をポジティブな方へ引っ張ってくれるのかもしれません。
気に入ったものを買い、使う利点でもありましょう。


とはいえ、かほどに使用年数が経っているとわかったものですから、
久しぶりにオーディオ販売店を覗いてみたり、Web検索してみたり、
はたまた書店でオーディオ専門誌を立ち読みしたりを俄かに始めたのですね。


すると、気分的にはじわじわと買い替えモードに入り込んでいくわけです。

おそらくは多くの方にご経験がおありと思いますが、何かしらを買おうかなと思ったときに
どの機種にするのか、ああでもない、こうでもないと比べているうちが

いちばん楽しかったりもしますですね。


で、こたびもそうした楽しみに浸りつつあるわけですが、
どうしても今持っている製品に比べて決定打となるような「心のときめき」が、
あるいは向こう(製品の側)から呼びかけられるような感覚が無い…。


実はスピーカーに関してはイギリスの老舗スピーカー・メーカーのものに「お!」と思うところがあって、
実際に見て聴いてみようと思って販売店に足を運ぶところまで行きました。


その立ち姿(トールボーイですので)を間近で見ると「うむ、写真で見るよりいいかも」と思い、
音の方も当然になかなかやるなぁと思うや、「ここで一気に買い替えかぁ?!」と高揚した気分に。


ただ念のためと言いますか、
試しに近い価格帯で別のスピーカーを鳴らしてもらってみると、いきなり「おや?」と。
ありていに言うと、後から聴いた音の方が好みに近いような。


見目では断然前者ながら、本来の役割である音で言うと後者になり、
さてどうしたものかというときにふと家にあるもの見目と音を思い出してみれば、やっぱりこれだぁと。


帰宅するや、思う存分今の機材でたっぷり音楽を聴いたわけですが、
なんだか青い鳥を探しに行ったけれど、結局見つかったのは…みたいな話になっちゃいました。

買い替えどきであることは間違いないんですが、なんともはや悩ましい。
新しい「ときめき」が訪れてくれないかしらん。




果たしてバイオリズムというものにどれほどの信憑性があるのかは分かりませんけれど、
やはり好調不調が波のうねりのようにやってくるような気がしますですねえ。


ただし、それは決して一定のリズムとは思えぬものでありまして、
好調期はあっと言う間に過ぎてしまったり、不調期からはなかなか抜け出せずにということもあろうかと。


こうした書き方をすると、不調期の長い人なのね…と思われてしまうやも。
そういうことでもないのですが、少なくとも今は好調期ではないなと個人的には感じておりまして、
まあそうしたときには気分転換も必要なわけです。


軽めの映画(DVDですが)を見流すというのもありだろうと、
手に取ったのがジム・キャリー の「イエスマン」でありますよ。


イエスマン “YES”は人生のパスワード 特別版 [DVD]/ジム・キャリー,ズーイー・デシャネル,ブラッドリー・クーパー


前にも観たことはありますけれど、とになく何でも「イエス!」という言ってしまうことで、
ものごと前向きに過ごしましょうてなところでもあったかと思い、
所詮コメディとはいえ、少しは前向きになるよう背中を押されるかと思いまして。


銀行の融資係を務めるカール(ジム・キャリー)は、
問いかけに対して率直に「イエス」ということがないどころか、
「イエス」という言葉を知らないのではないかと思われるほどに言を左右にして
友人からの誘いも断り、もちろん仕事で応対する融資の依頼をことごとく却下するような具合。


おそらくは元々そういう人だったということもありましょうけれど、
妻と別れてから(妻に逃げられてから…というところかも)というもの、
一層「ノー」に磨きがかかったというべきでしょうか。


あるとき、久しぶりに出くわした友人から「自己啓発セミナー」のようなものを紹介され、
それこそくさくさした毎日の中でさすがにいささかの変化を求めるところがあったのか、
セミナーに参加してみるわけですね。


そこでは、セミナーの主宰者テレンス(テレンス・スタンプ)が「問いかけには全てイエスと答えよう!」と
聴衆に呼び掛けると一同は「イエス!イエス!」と連呼するという光景に出くわします。


初めての参加者代表としてテレンスと直接対話することになったカールは、
勢いに飲まれるように、はたまた破れかぶれにもなったように、「イエス」と言い続ける誓言をすることに。


会場を後に車で帰途につこうとすれば、

身なりのよろしくない男に「乗せてってくれ」と声を掛けられ、「イエス」と答える。
「携帯電話を貸してくれ」、「2ドルほど貸してくれ」、「ついでに持ってる金を全部くれ」と続く要望に
全て「イエス」で答えるカールですが、さすがに嫌気がさし始める。


「あんた、いい人だね」と告げて先の男が立ち去っても、
今度は車がガス欠、携帯電話は先に使われてバッテリー切れと、

とても運命の好転とは程遠いことばかり…のようでありましたが、

ここからようやく「イエス」と言い続けることで生じた、
つまり普段の自分であったらそうはしないだろうということから生じた事態が展開していくわけです。


そして、どうやらその事態というのは悪くない、
恋人(ゾーイ・デシャネル)が見つかり、仕事では昇進しと

むしろ幸運とも思えるようなものだったのですね。


まあ、コメディですからこうした展開もありでしょうけれど、
何らかの問いかけに対してまず自分が「こう答えよう」と考えたことは自分らしくもあり、
いわばいつもどおりの展開が予想されて、安心だということはあります。


でも、その安心さは変わり映えのしない毎日の安穏そのものでありましょう。
もちろんそれがいけないわけではありませんけれど、
ごくごく自然に答えを出す前にちょっとだけ考えて、最初に思ったのと違う答え方をしてみると、
それがその後に巻き起こす日常との違い具合はどれほどになるか。


そういう意味では何でもかんでも「イエス」でなくって言いわけですが、
たったのひと言が思いもよらぬ冒険(?)をもたらすのかもしれませんですね。


当然に映画の中のカールに起こるような

いい展開(悪いと必ず切り抜けられる)ばかりではないでしょうけれど、
ちょっとパターン化に陥ったものを変えてみてもいいのかなと思うところでありますよ。


そうそう、映画の中でこんなことが言われてました。
「人生は『遊び場』だったはずなのに、大人になるとそれを忘れてしまう」というようなこと。
「遊び心を忘れない」てなことは、ついつい掛け声だけにしてきてしまったかもしれませんね。




(宇宙戦艦ヤマトのエンディングみたいですが…笑)

ご来訪者各位


あと10日ほどして2月24日を迎えますと、

このブログを書き始めて丸6年が経過ということになります。

アメブロに引っ越してきてからでは丸5年ですけれど、まあ折りや良しという気もしますので、
この機会に取り敢えず記事更新を停止することといたしました。


長らくご愛顧賜っております皆さまには「何度も聞いたよ」という話ながら、
アメブロ引っ越し前のブログが強制閉鎖され、
およそ1年分の記事のかなりの部分が雲散霧消したという経験がありますだけに、
こちらもまた強制閉鎖とはいわずとも何かの加減で書いた記事が消えてなくなってしまうような懸念を
常に抱えてはおりました。


そこで、これまでの記事をいったん冊子状にとりまとめ、
個人的な記録として手元に留めておきたいとは常々思っていたことでありまして、
折りや良しとは10日後に迎える丸6年がそのタイミングとして切りがいいのではと

考えたわけでございます。


新しい記事を書きながらでもできることかと思い何度か試みてはみましたが、
冊子にする際のレイアウトの調整や誤字脱字等を含めた校正の点等からして
どうにも自分にとって両方は難しいということが分かり、一度過去の総ざらいに邁進するためには、
記事更新の停止が必要と判断したような次第です。


10日後のことをわざわざ前触れとは大袈裟な…と思いはいたしましたが、
毎日にようにお越しいただいている方もおられる中で、
唐突に「今日でおしまいです」とはいささか言い出しにくく、
大袈裟なことを承知の上で、お知らせいたしたところでございます。


願わくば残りの10日ほどのひととき、ご来訪を賜りまして
共にカウントダウンを刻んでいただければと考えております。


店主謹白

出先で昼飯をと思ったときに目につきましたのが、カンボジア料理のお店。
ベトナム料理やタイ料理の店はそれなりに見かけることはありますけれど、
カンボジア料理とはあまり聞かないなぁと入ってみることに。


昔々と比べれば国情も安定しているのでしょうか、
世界的な文化遺産であるアンコール・ワットやアンコール・トムを抱えるお国柄、
訪ねたことがある人も増えてきているのかもしれません。
そのせいか、小さな店内はあっという間に満杯になってしまったのでありますよ。


その満杯直前に席に着いたのですが、メニューはさすがに写真付き。
でないと、カンボジア語のカタカナ表記だけでは何を頼んだものやらですものねえ。


とりあえずシェアするかとランチ・メニューの中から
どうやら焼き飯状と思しきバイリンを頼むと、ランチセットゆえに

サラダとスープとデザートが付くといった具合です。


で、そのスープを食しているときでしたか、
「あ!かぼちゃが入ってる」と思ったときに「カンボジアだものね」と勝手に一人合点。


かぼちゃはカンボジアが語源であるとは聞き及んでいたものの、
改めて考えると「これももしかして思い込みであるか…」という気もしてきて、
調べてみることにしたわけでありますよ。
果たしてWikipediaにはかぼちゃの名の由来がこうありました。

一般にはポルトガル語由来であるとされ、通説として「カンボジア」を意味する Camboja (カンボジャ)の転訛であるとされる。方言では「ぼうぶら」「ボーボラ」などの名を用いる地方もあり、これはやはりポルトガル語で、「カボチャ」や「ウリ類」を意味する abóbora (アボボラ)に由来するとされる。ほかに「唐茄子(とうなす)」「南京(なんきん)」などの名もある。 漢字表記「南瓜」。

やっぱり「かぼちゃ」の元はカンボジアでありました。
しかしながら、それがポルトガル語 由来であったとは。


ともかくポルトガル人が持ち込んだものであろうかと思うところですが、
かぼちゃ持ち込みの際に、ポルトガル人が「カンボジアを通ってやってきた」みたいに言ってるのを
聞いた日本人が「おお、これがカンボジャというものか」と勘違いして記録され、
日本名「かぼちゃ」が定着してしまったのでもありましょうか。


もしちゃあんと聞き取っていたとすれば、方言としては似た響きで生き残っているように
ポルトガル語本来のかぼちゃを示す言葉「あぼぼら」が呼び名になっていたかもですねえ。


ところで、ポルトガル人がかぼちゃを持ち込んだのはよいとして、
「カンボジアの特産物」と紹介したとする話もあるようですけれど、どうなんでしょう。


ちなみにかぼちゃは南北米大陸が原産とのことですので、
カンボジア名産というわけではなさそうです。


加えて、南北米原産でポルトガル人とくれば、例えばブラジルあたりで見出されたかぼちゃを
(スペインがカカオ や何かを紹介したのと同じように)ポルトガル人が他の地域に紹介したんでは…
てなことを考えてしまいますですねえ。


ということで、カンボジア料理とかぼちゃ自体はおよそ関係無かったことになりますけれど、
今度は、はてカンボジアではかぼちゃを何と言うのだろうと思ったり。


カンボジア語(クメール語)では、どうやら「ラパウ」てなふうに言うらしい。
実は少々「えええ??!」という言葉を期待したわけですが、
何でもかんでも面白いように、面白いように話が展開するわけではありませんなぁ。