METライブで「マリア・ストゥアルダ」を見てきたのですね。


ちょいと前にMETライブの「仮面舞踏会」 を見たときに、

同じメトロポリタン歌劇場のリハーサル・ルームで稽古が佳境に入ったと思しき今後の上演作の紹介で、

出演者へのインタビューが本公演の幕間に行われたのですが、

それがドニゼッティ作の歌劇「マリア・ストゥアルダ」でありました。


実のところ、「マリア・ストゥアルダ」と聴いても全くピンと来なかったのですけれど、

話を聞いているとどうやら「マリア・ストゥアルダ」とはメアリー・スチュアート のことであるらしい。

(ヨーロッパの言語の、かくも似て非なるものかな…)


となれば、歴史ものとして俄然興味がふつふつとわき起こるものの、

こういっては失礼かもですが、「ドニゼッティで大丈夫?」と思わないでもない。


ドン・パスクワーレ 」や「愛の妙薬 」のドニゼッティ。

いまひとつ台本に恵まれていないような気がするわけですが、

実のところ、この「マリア・ストゥアルダ」もやっぱり…てな気がしないでもない。


始まりはもっぱらイングランド王エリザベッタ(エリザベス1世ですね)の独擅場であって、

マリア・ストゥアルダを慕うレスター伯にエリザベッタが思いを寄せるというあたりから始まりますので、

どうも恋の鞘当てで物語は尽きてしまうのか…なんつう気にさせられてしまうという。


ところが、幽閉されたマリア(面倒なのでこの後は英語名でいきます)が登場するや、

舞台は一転重苦しい雰囲気に包まれるわけで、これが本筋に近いと思うところながら、

どうもスムーズに入り込めない気がするわけです。


また後半になるや、メアリーの心の底に入り込むかのような内省的な歌が静かに、

そして大舞台にもかかわらず非常に動きの少ないままに延々と続くものですから、

全体のバランスも「どうかいね…」と思うと同時に、ともするとだれてしまう感もあり。


つまりはまたしても台本に恵まれなかったかと思ってしまうところでして、

(確かにそういう面は否めないわけですが)

ドニゼッティ作品でもあまり上演されない(実際、メトロポリタン歌劇場では初めてとりあげた)のも、

むべなるかなとも思うわけです。


が、こうしたやっかいな点があるにも関わらず、

今回の公演はとんでもなくドラマティックなものになっていたのですね。

とにもかくにも、それはひとえにタイトルロールを歌い演じたジョイス・ディドナートの功績でもあろうかと。

(それを引き出す演出ももちろんですが)

オペラを見るという中で、これほどの芝居が見られようとは思ってもいませんでした。


エリザベスの方はエルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァーという、メト初登場のまだ若い(と思う)ソプラノで

もちろん頑張っていたのですが、なかなか演技の方までは手が回らないようす。


メアリーとの対比もあろうかと思いますが、

演出家から「(エリザベスを演じるにあたって)上品さは不要」と言われたそうで、

のっしのっしと歩く姿はなかなか(コミカルな?)迫力があったわけですが、

メアリーの方は深いです。


囚われの身であることから来る翳り、

不本意ながらもエリザベスに媚びることが自由への道と考えて相対したときの苦渋、

しかしエリザベスの嘲りに接するや毅然として見せる女王の風格、

そして全く取り乱したり嘆いたりすることなく処刑台への階段を登っていく凛とした姿。

涙が出そうでありましたよ。


このドラマティックなところへドニゼッティの音楽も当然に寄与しているわけですが

(オペラですから当たり前なのですけれど)

こういっては何ですがむしろ芝居を邪魔しないで側面援護といったらいいでしょうか。

それほどに芝居としての印象が強く、その芝居は感動的ですらあったという。


ここまで持ち上げておきながら、

不覚にも途中途中で睡魔(体調からきたものです)に襲われたりしたものですから、

ないものねだりは覚悟の上で、この公演のDVDが出ないかなと切に願うものでありますよ。

何とは無しにTV朝日の「奇跡の地球物語」 を見てみましたら、

缶詰の話をやっておりましたですね。

昔はずいぶんと缶詰を食べたものだなぁと思いつつ、見ておりましたですよ。


今のようにプルタブをえいやっと引っぱると開くような缶ではありませんでしたから、

缶切りでもってきこきこと、それなりのひと仕事を終えてようやくありつける缶詰の中身は、

魚、肉、そしてみかんやパイナップル、ももといった果物、いずれもそれなりにありがたみがありました。


が、今ではごはんのおかずにと缶詰を開けて「めしあがれ!」と言われたら、

たぶんに貧相な食事と思えてしまうであろうほどに、

缶詰のステイタスはいつの間にか急降下していたのですなぁ、感慨深いところです。


ですから、今では普段のおかずとして食卓にのる姿を見かけるというよりは、

もしかしたら本来の特徴を活かす形でもっぱら保存食として考えられているような。

番組では、その保存食として存在意義を発揮する缶詰の保存がきくからくりなどに触れてましたですよ。


中身が何であるかを問わず、缶詰は賞味期限が3年間なのだそうですね。

しかも長持ちさせるための添加物のようなものは使われずにです。


なぜそんなことが可能なのか。

なんでも缶の中を真空状態にすると同時に加熱殺菌をして、

腐敗や酸化をさせる微生物の繁殖を限りなく抑えるとのこと。

限りなく…というあたりが微妙ですが、それが故に3年という賞味期限が設定されるのでありましょう。


ただそうした加工法が確立されているのなら、どんな食べ物でも缶詰にできるのかと言いますと、

どうやらそうでもないらしい。

例えば、肉系なら牛肉の大和煮があり、魚系ならいわしの蒲焼がありますけれど、

野菜系の缶詰は豆やアスパラ、トマトと素材ばかりでそのままおかずというのが見当たらない。


これは、缶詰が保存食足りうるための加工法である加熱殺菌が

どうやら野菜にはなじまないとうのですね。


考えてみれば、生のほうれん草はシャキッとパリッとしているわけですが、

これを茹でてみれと、くたっとしおらしく柔らかくなってしまいます。

これは加熱によって野菜の細胞を結び付けている役割を持つペクチンという食物繊維が

壊れてしまうことによるのだとか。


番組の中では野菜のお惣菜の例としてきんぴらごぼうを取り上げ、

缶詰にできないかということを試みてました。


普通の方法で缶詰にしたのでは、缶から出てくるきんぴらごぼうは

もやはにんじんもごぼうも歯ごたえのある触感は失われ、

煮てくたくたになった感じで現れるそうですから、あんまりおいしくなさそうですなぁ。


それでも、加工法に手を加えることで何とかきんぴらごぼう缶はできあがったそうですので、

もしかするとこの後はもっともっと蓋をあけただけで「すぐおいしい、すごくおいしい」という

おかず缶詰が登場するかもですね。


この新たな加工に携わった工場担当者の方の夢は、

缶詰の蓋を開けたら、そのままお弁当というものだそうですよ。

いわしの蒲焼缶の4倍くらいの缶詰があって、えいやっとプルタブを引き開けてみれば、

中から幕の内弁当が出てきた!てなことがあれば、びっくりですよね。


何だかもはや過去の技術で、すっかり「出来上がってしまっている」感のある加工技術かと思えば

どうやらそうとばかりも言えず、「おお、こんな缶詰が?!」というものに出くわす日も

遠くはないのかもしれません。


缶詰もまた侮るべからずとの思いを新たにして、

とんでも缶詰の登場を楽しみに待つといたしましょうか。

音楽にも季節ものというのがありまして…といっても、

直接的に「この音楽は、この時季に演奏されるべきもの」というまでのことではありませんので、

他の時期に演奏したり、聴いたりしてはいけんということはないのですけれど。


それでも、第九だったら12月 っていうのと同じくらいに

シュトラウス ・ファミリーのワルツポルカ が並んだコンサートというのは、年明け1月の気分なかと。


これはウィーン のニューイヤーコンサートの影響でもありましょうし、

それの便乗企画的なコンサートが年初めにはたくさんたくさん繰り広げられるせいでもありましょう(それはそれで楽しくはあるのですが)。


もとより、ワルツやポルカそのものが必ずしも新年の気分を表すものでもないでしょうに、

それらがまとまって演奏されるコンサートに接すると「気分は何だか新年?」てなふうにもなってしまう。

本末転倒な気がしつつも、確かにそんな気分になってしまうのは不思議なものでありますねえ。


こたび聴いてきた読響の演奏会はフライヤーに

「ひと月遅れのニューイヤーコンサート」とありますが、

聴き終ってみれば正しくひと月逆戻りしたような気がしたものでありますよ。


Chain reaction of curiosity


そんなニューイヤーコンサートっぽい雰囲気を高める演出としては、

指揮者にウィーン・フィルのコンサート・マスターであるライナー・ホーネック を持ってくるのも

そのひとつなんでしょうなぁ。


演奏会後半にシュトラウス・ファミリーの曲がまとめて置かれていたのに対し、

前半のプログラムはいわば名曲小品集といったところ。

ですが、最初に演奏されたロッシーニ の歌劇「泥棒かささぎ」序曲 が始まったとたんに、

「お!何やらウィーンの気配が?!」と思わせられたのは、いささかびっくり。


もっとも、その「ウィーンの気配」とは何ぞや?と言われましても、

説明のしようもないですし、個人的な思い込みとも言えるものでもありますが、

それでも「音が香り立つ」ようであったとは言えましょうかね。

もともとウィーンとは関わりのない曲であるにも関わらず…。


続いてはシューベルト 劇音楽 「ロザムンデ」から2曲、

ベートーヴェン のロマンスヘ長調(もちろんソロはホーネック自身)、

ドヴォルザーク の「スラブ舞曲」作品72-2、ブラームス の「ハンガリー舞曲」第1番と、

ウィーンゆかりというより、オーストリア帝国 ゆかりと言えそうな曲でもって雰囲気固め(?)をしたあと、

いよいよシュトラウス・ファミリーの登場と相なります。


ところで、オーケストラ演奏会を定期会員として聴きにいきますと、

毎回座席は同じわけでして、周囲の人たちもまあだいたい毎回同じ顔ぶれなわけですが、

比較的近くの席に「もしかして、この人は音楽評論家か何か…?」という、

ちと厳しめの佇まいで演奏に臨んでいるやに見える老翁がおいでなのですね。


どんな演奏でもと言っては失礼ながら、比較的「ブラボー!」の大安売りの中で

ぴくりともしない(つまりは拍手をしない)瞬間をこれまでに何度も見かけてきました。


それだけに凡人といたしましては、

この人のメガネにかなう演奏とは?といささか気にかけてしまったりしてましたが、

個人的にも珍しく(?)称揚した前回のシベリウスの交響曲第2番の演奏 には

かなりはっきりした意思表示でもって拍手されていたので、「そうだろう、そうだろう」と思ったものです。


で、今回のどちらかと言えばファミリー・コンサートとも言えるプログラムでの

反応やいかにと思うと、これが頬を緩めていかにも楽しかったという拍手を送られていたのですね。

何だか勝手な思い込みなんですが、難しいがり屋さんも思わず笑顔にさせるシュトラウスの音楽、

やはり侮りがたしと思ったのでありますよ。


有名な「こうもり」序曲から始まって、エジプト行進曲、ポルカ「遠方から」、加速度ワルツ、

ピチカート・ポルカ、ポルカ「休暇旅行で」、ワルツ「南国のばら」、トリッチ・トラッチ・ポルカと、

有名無名を取り交ぜた演奏が続き、気分はやっぱりニューイヤーコンサートっぽく。


となれば、アンコールがありましょう?と思うのは必定でして、

やってくれないとこれまでの演奏が水の泡になりかねない。

「楽しかったね」と言われるはずの演奏会が「なんだよ、あれで終わっちまって」と言われてしまう。


さすがにそこは外すはずもなく、

小太鼓がたたき出して、ひっこんでいたホーネックをひっぱりだすという演出付きで

アンコールの「ラデツキー行進曲 」となり、例によって聴いてる側も手拍子で加わり、

満足度がぐおおっとアップしたところで、お開きとなりました。


やっぱりニューイヤーコンサートはこうでなくっちゃ!って、

すでに2月なんですけどね。

JR東京駅が往時の姿に復元されて賑わいを呼んでおりますけれど、
それと時を同じくして再開された東京ステーションギャラリーも当初は
予約だか整理券だかが必要という話が伝わってきてました。


ですので、出かけるにあたっては頃合いを見ていたわけですが、
さすがにもうそろそろ良かろうと思って立ち寄ったのでありますよ。


開催中であったのは東京駅復原工事完成記念展「始発電車を待ちながら」というもの。
「東京駅と鉄道をめぐる現代アート9つの物語」という言葉が添えられていました。


東京駅復原工事完成記念展「始発電車を待ちながら 東京駅と鉄道をめぐる現代アート9つの物語」@東京ステーションギャラリー

丸の内北口改札を抜けますと、

ついつい復原されたホールを見上げてしまったりするところですが、

そのホールの、改札を背にして右手側にギャラリーの入口があります。


まず自動券売機で入場券を買い、

それを受付に出して展覧会チケットと引き換えてもらうという

便利なんだか不便なんだかよく分からないひと幕ののち、

古びた赤レンガの中を妙に斬新なエレベータで3階の展示室に向かいます。


3階にたどりついてエレベータの扉が開くと、その段階でまずびっくり。

よくペンシル・ビルの中の飲食店か何かに行こうとしたときに、

エレベータの扉が開いたら、そこはエレベータ・ホールでなくすでに店の中だった・・・

みたいな感じでしょうか。


好みによっても違いますが、実際のところはびっくりと同時に実はにんまりも半分くらい。

エレベータが開くと正面の壁からすでに展示は始まっており、

メインの展示室までつながっている。

何が?って、プラレールの、あの青いレールがでありますよ。


パラモデルという制作グループによる「パラモデリック・グラフィティ」という作品。

周囲の壁、天井、そして床までも鑑賞者が歩いて通り抜けられるくらいのスペースを残すだけで、

プラレールの線路で埋め尽くされているのですね。

フライヤーからちと借りてみると、こんなふうです。


パラモデル「パラモデリック・グラフィティ」


ひとつひとつを部品としてみれば、

「ああ、こんなカーブ・レールも、あんな分岐もあったっけな」と、正しくプラレールの世界。


でありながら、全体を見渡すようにすると、

継ぎ合わせたレールがさまざまなデザインを浮かび上がらせているのですよ。


プラレール好きの子供だったら、

こんな広さの中で思う存分レールをつなげたら夢のような!と思うことでしょうねえ。

大人から見ると、あのレールをつないだだけで「こんなふうになるんだ…」と思うと、

大人でもつなぎたくなってしまうのではないかとも。


そんな楽しくも興味深い展示のあとにも次々ユニークなものが登場しますが、

もうひとつ挙げるとすればヤマガミユキヒロさんの作品でしょうか。


といっておきながら、その作品がいったい何故面白いのか?と思うのですね。
描かれているのは、本来は動きの多い活動的な場所。


もちろん「場所」自体は動くはずもありませんから、

その場を行き交う人が多く、街の雰囲気として活動的との印象がある場所なのですね。

今回の展示では、東京駅前とか地下鉄駅のコンコースとか。


しかし、ヤマガミさんがキャンパスに描き出すのは、

そんな活動的な印象を持つ場所の動きのない風景、
つまりはそういう場所ながら誰もおらず、動きを伴うものは何もないという場面を描いている。

しかも、色付けもなく鉛筆書きですから、これ以上なく至って静的な画面なのですよ。


ですが、そこに描かれたのと全く同じ場所の映像が重ねられるのですね。

映像の中には動きがあります。人も車も通り過ぎる。


それだけといえばそれだけの作品なのでして、

考えてみれば、そもそもキャンバスに映像を映すだけと何が違うのと。

ですが、見ているとしばしたたずむ面白さ。

ということで、最初の「なんで面白いんだろう?」という疑問に逆戻り。


こうして書いている段階ではまだ答えはないんですが、

東京駅に来られることがありましたら、

ぜひギャラリーを覗いて答えを探っていただければと思うところでありますよ。

新潟に出張で行っていて…といっても、

新潟とはちいとも関わりのない話なんですが、久しぶりに「見たなぁ」と思ったもので。


まあ、どこででも見られるもので目新しいということはなく、

個人的にも経験がないではない。

何かと申しますれば「貧乏ゆすり」であります。


もはや自分自身の記憶にはあまりないのですが、

子供の頃にはたぶん結構な頻度で「貧乏ゆすり」をしていた時期があるのでしょう、

親から言われた「貧乏ゆすりは、しない!」という叱り言葉だけがしっかり刻みこまれてまして。


今ではおよそ「貧乏ゆすり」をしていることがあるとの自覚はありませんけれど、

自覚的にやるものでもないようなので、他人のことを言えたものではないという瞬間が

あるのでしょうか。


ところで、久しぶりに「貧乏ゆすり」らしい「貧乏ゆすり」を見て、

ふと思うのは「どう考えても、貧乏ゆすり」というのは俗称であろうなぁということ。


例えば「食あたり」という言葉がありますけれど、

腹を下したりした場合に「食あたりじゃないの?」的に使いますですね。

ですが、「食あたり」がいわゆる医学的な言葉であるとか、

正式な病名であるとか思わないのではなかろうかと。


似た言葉に「食中毒」というのがありますが、

まだこちらの方が正式っぽいというか、それらしくはある。

もっとも「食中毒」という言葉自体も俗称かもですが。


とまれ、いかにも俗称っぽい言葉には、もそっと正式といいますが、

本当の本当に正式な名称があるはずだろうなぁと思ったときに、

はて、「貧乏ゆすり」の正式名称は何であるか?と思ったわけです。


インターネットでささっと検索した限りでは、

これがどうも「貧乏ゆすり」にはそれらしい正式名称もなければ、言い換える言葉もない様子。

つうことは「これが、正式名称なの?」と思ってしまうところでありますよ。


Wikipediaによれば、英語では

ひざをゆすっている、ひざがゆれているといった単なる動作としての言い方しかないように

書かれています。


そうしたどこにもある行為(とっても、一般的には無意識のものでしょうけれど)に対して、

特に名前をつけ、しかもその名というのが「貧乏ゆすり」であったとは、

日本人の持つ何らかの心性の発露やもしれませんですなぁ。


「貧乏ゆすり」をしてしまう原因というのも諸説あって決定打はないようですし、

分からないことずくめですけれど、検索していて「ふ~ん」と思いましたのが、

「貧乏ゆすりは健康に良く、ダイエットにも効果的」という言説がもてはやされた時期が

あるようですね(個人的にはちいとも知りませんでしたが)。


でもよく考えてみると、「自覚的にひざをゆする」という運動が血流をよくしたり、

筋肉を刺激したりといった効果に繋がることを言っているだけであって、

無自覚にところ構わずやってしまう「貧乏ゆすり」と結びつけるのは無理がありますよね。


さきほど日本人の心性と大袈裟な言い方もしましたけれど、

あの、ひざの揺らし方をして「貧乏」という言葉が冠されたように、

おそらくは誰にも歓迎されないさまではなかろうかと。


運動をするならする、貧乏ゆすりはしない…てなことを

「人の振り見て我が振り直せ」ということわざどおりに

自戒的に受け止めておくことといたしましょう。