山梨県立美術館
とは向かい合う形で山梨県立文学館がありますけれど、
ここはまたそそられる企画展のときに立ち寄ることにして、
(以前、太宰展で覗いたことがあったものですから)
今回はむしろ山梨県立博物館へと足を向けたのでありました。
県立美術館と県立文学館が向かい合わせであるのですから、
県立博物館も同じ敷地にでもあれば観光客には便利なのですが、
それでは甲府にばかり人が集ってしまうということであるのか、
県立博物館は石和と春日居町の間という、ちと(大層?)不便な場所にあるのですね。
(もちろん路線バスは走ってますが)
では、そのようなところにまでどうして出かけたかと言いますと、
開催中の企画展にちいとばかりピクっと来たからなのでありますよ。
その企画展のタイトルは「黒駒勝蔵対清水次郎長」というもの。
学芸員の方からして「博物館がヤクザを取り上げて、お客が呼べるだろうか…」と
集客に不安を抱くところがあったようですが、こうして見事に釣られた者もいるわけで。
ただ、全体的な集客がどうなのかは雪交じりの日の開館早々に出向いた限りでは判断できませんが。
まあ、博物館の入りこみの心配はともかくとして黒駒勝蔵ですけれど、
どうしても清水次郎長
が有名な分、その敵対者としてしか見られないようなところがありますね。
ですが、昔から仲良しなんだか仲が悪いんだかという静岡県と山梨県ですから
(もっとも戦国時代の今川
、武田
というような話ではありますが)
駿河の次郎長ばかりでなく、甲斐の国は黒駒の勝蔵をクローズアップしておきたかったのでしょうか。
しかしながら、県立博物館としては
ヤクザというか博徒色を濃厚に展示を構成するわけにもいかないのか、
司馬遷の「史記」にある游侠の徒を説明したところを引いて紹介するようなことから始めているという。
彼等の行為は、世の正義とは一致しないことがあるが、しかし言ったことは絶対に守り、なそうとしたことは絶対にやりとげ、いったんひきうけたことは絶対に実行し、
自分の身を投げうって、他人の苦難のために奔走する者
中国のこととあって「水滸伝」に出てくる梁山泊に集う義に厚い豪傑たちを思い浮かべてしまいますけれど、
これが日本の「天保水滸伝」になると江戸期の侠客の話になるわけですから、
思い付きもそう遠からじなのかもと。
とまれ、そうした義に厚い性格は残しながらも、
その後の展開では「切った、はった」になっていってしまったところもありましょうか。
清水次郎長は山岡鉄舟
との出会いを通じて、後に堅気としての貢献も伝え聞かれるところながら、
どうも黒駒勝蔵の方はそうした話も聞かれない。
末路の無念は感じられるものの、です。
と言いますのも、以前にも触れましたが、幕末期における対立構図として、
清水次郎長が佐幕派、黒駒勝蔵が尊王派と思われる動きが見られたことなのですね。
そうでありながら、明治になって佐幕派であった次郎長が社会貢献的活動ができた一方で、
勝蔵は官軍の先兵たるつもりで倒幕運動に関わったにもかかわらず、
(勝蔵が浪人を集めて甲府城
を奪取するてな噂があったと記した文書もありました)
結局のところは明治政府から罪人として処断されてしまう。
ところで次郎長の佐幕的な動きというのは山岡鉄舟との関わりを通じてか、
少々俄か仕込みのように思われなくもないわけで、
勝蔵が尊王派というのも次郎長への対抗上かとも思われたのですが、
どうやらそうでもないらしい。
甲斐の国は武田氏滅亡以降いささかの紆余曲折を経て、
ほとんど幕府直轄のような形で大事にされる(?)わけでして、
空気としては幕府側かなという方が考えやすい中で、
勝蔵の尊王思想というのは俄仕込みかと想像されたのですけれど、
展示によれば檜峰神社神主の武藤外記・藤太父子から尊王思想の影響を受けたと考える方がよさそうです。
とまあ、とかく対比される勝蔵と次郎長のふたり。
そしてどうにも次郎長に分のあることにばかりなりがちなのは、
講談やら浪曲やら、後には映画などでも次郎長中心に描かれてきたせいでもあろうかと。
展示の中で触れられていましたけれど、子母澤寛の小説「富嶽二景」は勝蔵側から見た物語だなそうな。
折りをみて読んでみるのも一興ではないかと思ったのでありました。
また、かくも甲州と駿州との関わりが生ずるのはひとえに富士川の流れがあったればこそ。
山形の最上川、熊本の球磨川とともに日本三大急流に数えられるこの川は、
徳川家康が甲州から江戸へ年貢米を運び入れるために整備したのだとか。
背景にある、こうした川のようすもまた探究したいところでありますなあ。