ヴィヴァルディは「四季」だけじゃない! と、

宗教曲の「グローリア」がいい曲でっせと言ったのはしばぁらく前のお話。


その後は、ヴィヴァルディがヴァイオリンの先生として関わった

ヴェネツィアピエタ養育院を背景にした小説 などを手にとっては、

その中に登場した協奏曲集「調和の霊感」 を聴いたりして

「ふむふむ、リトルネッロはこうだよねぇ」てなことを思ったりしていたくらい。


ですが、ここへ来てやおら「ヴィヴァルディ、すげ!」と感じる機会に出くわしたのですね。

チェリストのジャン=ギアン・ケラス(なんだか怪獣 のような名前ですな…悪気ないですが)が

ベルリン古楽アカデミーと共演した演奏会であります。


ベルリン古楽アカデミー演奏会@三鷹市芸術文化センター風のホール


オーケストラ演奏会をよく聴きますけれど、

バロック・アンサンブルにもかなり惹かれる方でして、

プログラムが「バロック名曲集」みたいなのではないときには出かけてみたり。

アルビノーニのアダージョ も、パッヘルベルのカノンも、

そしてもちろんヴィヴァルディの「四季」もいいんですが、どうも新鮮さが…。


今回もフライヤーに書かれた曲目をちら見でチケットを買ったまま当日に至り、

いざ蓋を開けてみれば、ヴィヴァルディのチェロ協奏曲がメインの演奏会であったという。

いやあ、新鮮でした。


上のフライヤーの写真からはちとイメージしにくいかもですが、

遠目に見たケラスは翳り要素を薄めたヒュー・ジャックマンのよう。

長いエンド・ピンのついていないバロック・チェロを軽々片手に携えて舞台に現れた姿からは

これからマジック・ショーが始まるのかと思ってしまうところ。

(これは映画「プレステージ」をご覧でないと、意味不明でしょう…)


その颯爽ぶりは、演奏が始まってなおのこと。

弓の振りも含めて弾きっぷりからは「はりきってますよぉ!」的オーラが放射されてるわけです。


当然に演奏の方も大層エネルギッシュなもの。

バロックと聴いて想像する古雅なふうでもなく、かといって

ピリオド楽器のアンサンブルにありがちな妙にエッジを利かせた尖がったものでもなく。


映画「リトル・ロマンス」に使われて有名になったギター協奏曲 のように、

ヴィヴァルディにはいろいろな楽器のための協奏曲があるものの、

どうしたってヴァイオリンと思ってしまうところなのですが、

チェロのための協奏曲も30曲ほど作ったそうな。


どちらかと言えば低音部の伴奏楽器であったチェロを独奏楽器に押し上げたのは

ヴィヴァルディの功績大とも言われているようです。


そして、その曲というのが(エネルギッシュな演奏に多少幻惑されたかもですが)

バロック音楽のひとつとしてというよりは、

これがハイドン のチェロ協奏曲に繋がっていくんだぁねぇと思えたものでありました。


ベルリン古楽アカデミーの方もケラスに負けじということなのか、

チェンバロ、リュート、チェロ、コントラバスにファゴットまで加わる底支え軍団で

厚みのあるところを聴かせてくれましたですよ。


ケラス抜きの演奏では、テレマンの組曲「ミュゼット」が楽しい音楽でありました。

さまざまな形式の舞曲を連ねてひとつの組曲にしているとなると、

バッハ管弦楽組曲 を思い出したするところですが、

テレマンは当時の流行作家でいかにもバロック風。

これに対して、バッハは当時の前衛だったのかもしらんなぁと思いましたですよ。


この組曲の中のメヌエットで浮き立つ場面のあったヴィオラはいい音でしたねえ。

もう一度聴きたいものですが、音楽は時間芸術ですものねえ。


珍しく褒めちぎりの感なきにしもあらずですが、

何しろ驚天動地の演奏会であったのすよね、実際。

と言いますのも、途中で小さいとはいえ地震があった。

あろうことか携帯電話の着信音が舞台から(たぶん…)。

そして、聴衆の中からは救急車で運ばれる方が…(ご無事を祈ります)。


いろんな意味で印象に残る演奏会であったことは間違いないのでありました。

先に「日本洋画のそもそもは… 」と言っておきながら、

高橋由一を取り上げただけでは片手落ちどころではないものと思いますので、

今度は五姓田義松ということで。


高橋由一の方は御雇外国人教師の教えを受けて腕を磨きましたけれど、
自身が洋行することはありませんでした。


これに対して海外に出かけていって直接に教えを乞うことをした人たちがいますですね。

由一が習い始めるより早くワーグマンに入門していたという五姓田義松も
かなり早い時期に洋行した一人であるとのことです。


早いと言えばワーグマンに入門したのは何とまあ10歳の時。
父親の五姓田芳柳がやはり画家(浮世絵師?)でしたので、血は争えないということでしょうか。


ところで、この五姓田義松の作品ですけれど、おそらく初めて意識して見、
しかも「うお!」と思いましたのは八王子市夢美術館 で見た「人形の着物」ではなかったかと。


五姓田義松「人形の着物」


題材は言うに及ばず、画風も仕上がりも「これ、日本人が書いたの?」と思って
解説を見れば五姓田義松という、何とも純和風な名前の人物。
一度聞いたら忘れないですね、これは(作品も名前もです)。


孫が大事にしている人形に似合う服をおばあちゃんが縫っているという、
洋の東西を問わずどこにでもありそうな光景ですけれど、和風の雰囲気はいささかも感じさせず、
むしろ見えないところには暖炉があってとヨーロッパの方の想像が膨らむという。


1883年パリのサロンに入選した油彩作品とのことですが、
すでに2年前の1881年(渡仏した翌年になります)に水彩画で入選を果たしており、
五姓田は日本人で初めてサロンに入選した画家なのだそうです。


ところで、五姓田がパリで学んだのはレオン・ボナの画塾だったそうですが、
このボナさんご自身のことは作品も含めてとんと存じ上げないものの、
弟子筋はなかなかに賑やかに個性的な活動をした人たちがおいでのようで。


例えば、ブラック デュフィ ロートレック カイユボット あたりが教え子とのこと。

その中にあっては、先ほどの「人形の着物」と同じ頃に描かれた

「パリの風景」(1883年)という作品が東京の府中市美術館で見られますけれど、

何とも古典的な印象のようで。
もっともこうした作品の方がアカデミーの受けは良かったかもしれませんが。


五姓田がパリに到着したのは1880年ですので、当時ロートレックは26歳。
弟子入り時期がどうなのかまでは調べてないのですけれど、

25歳の五姓田とは若い者同士の弟子仲間のはず。

ですが、五姓田の作風から窺い知る古典的な実直さが性格そのままだとすれば、
ロートレックの「
ムーラン・ルージュ 」な日々とは馴染めなかったかもしれませんが、
これがなかなかどうして生活者というより芸術家タイプ、つまり?浪費家でもあったそうな。


日記(のようなもの?)を見ても、金がない、飯が食えない、腹が減った…てなことがたくさん書かれ、
はたまたどこそこ宅で饗応を受くという回数も尋常ならざるものがありそうで。
「ムーランルージュ」な日々ではないものの「
ラ・ボエーム 」な日々ではあったようですね。


その後、ロンドン からニューヨーク に渡り、広く世界を見てきた五姓田ですけれど、
日本に帰ってからは1889年明治美術会の創立に加わって、

いよいよ華々しい活躍かと思うとそうでもないような。


時の傾向として維新当初の極端な欧化政策がやがて揺り戻しの国粋主義的な動きが現れ、
これは美術の世界でも同様に官立・国立の美術学校では洋画が排斥されるといったことも

続いていたようす。じっと我慢の時期だったのでしょうか。


明治美術会はそうした風潮に対する洋画家たちの大同団結だったようですが、
同じく創立メンバーである
山本芳翠 、原田直次郎、浅井忠らと比べて、
五姓田の名前の残り方がいちだん低いよいうな気がするのはどうしたことか。


3年後の2015年は五姓田義松の没後100年になりますので、
ここらで一つ画家五姓田義松の画業を総覧できるような回顧展でもやってくれないですかねえ。

しばらく前に昔々のSF日本映画である

「妖星ゴラス」や「緯度0大作戦」 を衛星放送で見ましたけれど、
映画自体はもとより、見る人がそんなにいるんだろうかという点で

ほとんどレアもの(といって見てますが)の映画をよく放送してくれるものだねえ…

と思ったのですね。


そしてふと気付くや今度は「宇宙大怪獣ドゴラ」が!となれば、
やっぱり見てしまいますですねえ、見たことがないものですから。


宇宙大怪獣ドゴラ [DVD]/特撮(映像),夏木陽介,藤山陽子



それでもドゴラがどんな形状であるかということはご存じの方が多いのではないかと。
ほとんどクラゲと言って間違いない巨大生物が空から襲いかかるというもので、
当時のポスターをそのまま使ったと思しきDVDのジャケットを見れば一目瞭然。


ところが!ところがです。
いざ映画を見てみると、こうしたドゴラの勇姿?はおよそ見て取れず、
思わず何らかの理由によるカット版なのか?!と思ってしまったほど。


映画の中ではほとんど全貌を現すことが無く、

辛うじて若戸大橋が破壊されるときだったでしょうか、

クラゲの触手状のものが伸びてきて…という場面があったくらい。


なんでも若戸大橋は1962年に完成を見たばかりで、出来たてのほやほや。

当時は東洋一の吊り橋と言われたランドマークなだけに、

とかくこうした目立つ建造物は破壊対象にされがちですなぁ。


このシーンは今からすれば子供だましにも見えてしまうようなシーンなんですが、
当時はこうした撮影も大変だったろうなあと「特撮博物館」展 の展示を思い出したりするところです。


でもって後から見たWikipediaによれば、

ドゴラの姿形をポスターなどに描いてPRに使ってしまったものの、
ポスターに見られるような怪物を映画の中に登場させるのが

実はとっても困難なことだったのだそうで、結果、音はすれども姿は見えず…となったのだとか。


そんな経緯があるにせよ

(タイトルが「宇宙大怪獣ドゴラ」では怪獣映画以外の何ものでもないと思うところながら)
この映画はですね、結構面白いですよ。


宇宙からドゴラがやってくるという騒動と並行して、

ダイヤモンドの国際密輸組織と警視庁の追いつ追われつに、
外国からの捜査員も絡んだ騙しあい、誤魔化し合いの話が進んでいくという。


これがそもそもドゴラとどう関係するのかというと、

ドゴラの食料というのかエネルギー源というのか、それが「炭素」だという設定なのですね。


ですから、ドゴラは筑豊炭田を狙ってくるのでして、

北九州市の若戸大橋が出てくることも決して無理無理ではないという。


でもって、銀座と思しき街の宝石店・天報堂(こりゃ天賞堂でしょうね)で

ごっそりダイヤが盗まれたという発端に、警視庁では当然に「例の組織だな」と思うところが

ドゴラにさらわれていたのだというわけです。

ダイヤモンドも所詮は炭素ですから。


ついでに言うとこの組織の姐御役として登場する若林映子ですが、
この映画の3年後に「
007 は二度死ぬ」で似たような役?をやることに。
アルバート・ブロッコリが「ドゴラ」を見てたんでしょうかね…。


ところで「007は二度死ぬ」は1967年作品ですからその3年前、

つまり「ドゴラ」は1964年作品なのですね。


そして、炭素をエネルギー源にしているとは言ったものの、そもそもドゴラが誕生してしまったのは

日本の遥か上空に溜まった放射性物質(当然に原爆の影響ということでしょう)が
何らかの宇宙物質と反応した結果なのだとされています。


今さら言うまでもないことですが1945年、日本には2発の原爆が投下されました。
1954年3月にはビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で

日本のマグロ漁船、第五福竜丸が被曝しています。


そして、同じ1954年の11月にゴジラ映画の第1作目が公開されるのですね。
公開当時のゴジラは水爆大怪獣と言われていました。

10年後の1964年、今度は「宇宙大怪獣ドゴラ」が公開されます。


SF的に宇宙からやってくることになっているとはいえ、
どこにも置き場のない、どこにもやり場のない放射能は

宇宙空間でも悪影響を払拭できないことの喩えでありましょうかね。


笑い話のようですが放射能雨で頭が禿げるなどということも散々聞かされた頃で、
子供に意味するところが全て伝わっていたとは思われませんが、
少なくとも頭が禿げることは大きな脅威と感じていましたですねえ。


つまり、脅威をかなり近いところに感じていたのかもしれません。
冷戦という時代背景もあったでしょうし。


そうしたことが段々と希薄になっていったのは決して悪いこととは思われませんが、
改めて日本の原発のそもそもは、研究開発のための予算が国会に提出された

1954年であったことを知ると、「そういう時期だったの…」と。


科学技術の発達が目覚ましく、その万能さを信じて疑わないところがあったのでしょうかね。
もしかしたら、科学研究を推し進めることで核廃棄物など出さずに済ませられると言ったような。


遠い遠い将来のことは分かりませんけれど、
今現在のところからすれば処理に困っているのが実状なわけで、
そんな困った状況が無くなることを考えるよりはむしろ「ドゴラ」が近くにいるかもしれないと考える方が
現実的なことなのかもしれん…と思ったりしたのでありました。さしあたり今現在は…。

新宿へ出たついでに損保ジャパン東郷青児美術館館を覗いてみたのですね。


基本的には年間を通じて企画展が行われいて、最後のコーナーでだけ

所蔵品の目玉、ゴッホ の「ひまわり」とゴーギャンセザンヌ という別格の三点と

(個人的にはゴーギャンの「アリスカンの並木道」が贔屓ですが
グランマ・モーゼス東郷青児 のコレクションが多少見られるというのが
普段の常設展示。


ですが、ちょうど訪ねたときには年1回のコレクション展が開催中なのでありました。

単純に所蔵品を連ねるというのでは変わり映えしないということでしょうか、
今回の展覧会には「絵画をめぐる7つの迷宮」というタイトルが付けられて、
見せる工夫をしているわけですね。学芸員の方の腕の見せ所というところでありましょう。


「絵画をめぐる7つの迷宮」@損保ジャパン東郷青児美術館


解説の最初のあたりで

「ひとつの明快な答えが出るはずもない芸術的な探究を『迷宮』に見立て」
7つのテーマで展示したものというようなことが記されていましたけれど、
明快な答えの出ない芸術的探究とはもっぱら作者たる画家たちに対しての言葉とは

思われるものの、見る側にとっても全く同じだなと思ったのですよ。


見てるだけで「芸術的探究」とは大げさではありますが、
作品は御披露目された瞬間から一人歩きするものでしょうし、
その一人歩きの中でたくさんの見る人がいて、

その一人一人によって感じ方も受け止め方も違うのですから、
まさに「ひとつの明快な答えはない」、こう見なきゃいけないみたいなところに

縛られることはない…と背中を押される感じで展示を見始めたのでありました。


ところで7つのテーマということですけれど、こんな構成になってました。

  1. 妖精の迷宮
  2. 人物の迷宮
  3. 風景の迷宮
  4. 色と形の迷宮
  5. 描写の迷宮
  6. 絵画の迷宮
  7. 画家の迷宮
  • もうひとつの迷宮

おっと、これでは8つではないかと思うところながら、
最後のところには「8」の番号は振られておらず、「∞(無限大)」マークが付いておりました。
こうした芸術世界を7つに区分けて見たものの、広がりは無限大なのですよとなりましょうか。


ただし、意味合いは広大無辺ながらこのコーナーはグランマ・モーゼスの集中展示ですから、
広大無辺さは裾野のなだらかさと考えていいのかも。


それは取っつきやすい絵であると同時に、

老齢になって絵筆をとったモーゼスおばあちゃんに倣えば
誰にでもトライできるものだという点でのとっつきやすさ。
美術の裾野はそれくらいなだらかだと思えてしまうところでありますよ。


と、やおら最終コーナーの話をしてしまいましたが、
最初のコーナー「妖精の迷宮」は東郷青児の作品集で、解説に曰く
「画風に一貫性が必要な注文制作で生計を立てつつ、『新しさ』を標榜する二科会を率いた」

ことが東郷青児の抱えた矛盾とありました。


並べられた作品を見比べるだけでも、画風の変遷はあるものの、
それだけではなく描き分けてるんでないのと思えるような揺れ戻し感や時折の爆発ぶりが伺えます。


とかく美人画で語られてしまうわけですが、東郷青児の奥深さというか懐深さというか
そうしたことを多様な作品を見るたびに思うのですよ。


とまあ、このように残り2から7までに触れていってはやたらに長くなってしまいますので、
申し訳ないのですが、いささかざっくりと見て行きますが、
損保ジャパン美術財団では選抜奨励展というのを設けていて現代作家のサポートもしているのですね。


そうした関わりのある作家たちの作品は個展を開催したりもしますから、
例えば元永定正小杉小二郎 といった画家の作品はこの美術館で見たことがあります。


とまれ、このような現代作家の作品がそこここに展示されていまして、
その中で「おお!」とか「うむぅ!」とか思った作品をいくつかと思いますが、
ひとつは櫃田伸也さんの「不確かな風景」ですね。


櫃田伸也「不確かな風景」


思いっきりの抽象画ですけれど、
「不確かな風景」というタイトルが文学的なだけについつい物語を思い巡らしそうになる反面、
これはこれだけの世界で目を離せない、「見せる」力が内在しておりますよね。


もうひとつは佐野ぬいさんの「二つの青のシネマ」という作品。やはり抽象画ですけれど、

これは最初パッと見で「色合いがきれいだな」と(いうだけで)通り過ぎたのですが、
館内をふらりふらりと見返す中で遠目に見てみると「おお!」と。


佐野ぬい「二つの青のシネマ」


小さな画像でももしかしてと思いますが、具象的な姿がおぼろにあるとは思われませんでしょうか。
そう見えてしまった途端に
カンディンスキー の「印象Ⅲ」を見るのと同じ感興が

ぐおっと湧いてきましたですよ。


加えては、井上覚造さんの「猟人日記」と清川泰次さんの「Painting No.482」。
前者はどっしりとした石積みを描いて、実は不均衡な重なりからは
何ともいえぬ不安に駆られるような作品でエルンスト を思い出します。


後者は大きなキャンバスの全面を白が支配し、ビルの縁取りかと思える直線が少々。
ここが新宿の高層ビル群の合間を縫って訪ねる美術館なだけに、
この作品は思わぬインスピレーションに繋がっていくのですね。


ということで、企画の妙味を感じて出かけたのですけれど、
思いがけずも久しぶりに現代作家を見る楽しみで勝る展覧会でありましたよ。

予告編だけで釣られて「またやられたか…」と思うことしばし。

それでも性懲りもなく見に行ってしまう映画でありますが、

こたびはまずまず面白かったなと思ったのですね。

「砂漠でサーモン・フィッシング」という作品であります。


砂漠でサーモン・フィッシング


タイトルがかなりキャッチーと思われるだけに、

原題は全然違うところへストーリーからの印象で付けちゃいました!みたいなものかと思ったら、

どうもそうではなくって、原作小説の題名が「Salmon fishing in the Yemen」、

邦訳されたタイトルが「イエメンで鮭釣りを」というのですから、

映画の方もどうやらテキトーにつけたわけではないのですねえ。


でも、不思議なことに「イエメンで鮭釣りを」という題名は小説に似合うけれど映画には似合わない。

そのまま映画に使うと、開高健さんあたりがスキットルからウィスキーをぐびりとやりながら

竿を振っている…姿が浮かんでしまいます。


これを「砂漠でサーモン・フィシング」に変形すると、いささか軽い感じになって

お笑い要素の映像化(首相と広報担当官のチャットのやりとりとか…)とマッチしてるように

思えますから、不思議なものですね。やはりタイトルは大事。


ところで、お話ですけれど、

イエメンの大金持ち族長が砂漠の国に鮭を放流して釣りをしたい…と思い立つという。

財産管理の委託を受ける投資会社の担当者ハリエット(エミリー・ブラント )は、

水産学者のアルフレッド・ジョーンズ博士(ユアン・マクレガー )に協力を求めますが、

「砂漠で釣り?何とバカな」と博士は一蹴。


ところが、族長と直に会って話をしてみれば、単に金持ちの道楽ではなくて、

要するに何とか水利を確保して農業を起こしたいという壮大なプロジェクト。

そのついでに好きな釣りができれば…という話なのでありました。


一方で、その水をどうする、暑さはどうする、そもそもいない鮭をどうする…と

難問山積であった状況は不思議と?クリアされていってしまうという。

このあたりは、深いことを考えずに楽しんで見るべきでありましょうねえ。


やがて、天然の鮭が輸出できないということで

やむなく養殖された鮭をイエメンに持ち込み、川に放流することになります。

果たして自然の鮭のように川を遡上するという行動を、養殖鮭がとるのかどうか…。


そもそもは養殖鮭が自然天然に育った鮭と同じような動きを示すわけがない。

誰もがそう思う中で、ジョーンズ博士自身最初はそう思っていたわけですが、

その博士が「養殖ものでも大丈夫だろう」という結論に至るのですね。


博士自身がそう考えるに至った背景には、

どうもすれ違いすれ違いになってしまっている夫婦の間柄が関わっているという。


このプロジェクトが始まるまでの博士は、

「釣りバカ日誌」のハマちゃんと言ってはいいすぎかもですが、

金銭欲とか出世欲とか名誉欲とかそうしたものとは無縁なタイプ。

これに対して奥さんの方はバリバリの企業人といったふう。


毎度毎度の言い争いをしてしまうジョーンズ博士夫妻ですけれど、

妻のひと言は「きっとあなたは私のところへ戻ってくる、そういうDNAなんだから」と。

ですが、これを聞いて博士が考えたのは「養殖鮭でも大丈夫」ということ。


そして、イエメンにはダムが築かれ、満々の水を湛えた下流には川が流れ、

そこに養殖鮭が放流され、さあてどうした…とは、先にお話したとおり。


で、ここで考えるのは「鮭はやっぱり鮭だった」ということと

それに対して人の行動はときに変化を起こすものだなということ。


鮭の場合には天然ものでも養殖ものでも

遠い遠い昔からの本能に支配されるところがあるとしても、

人の場合はふいにいつもしないようなことをしてみたりということもありましょうし。


具体的な言及を避けているので、まどろっこしい言い方になってますが、

それでも大方の予想通りの展開ではありながら、

果たして鮭の行動は…ではなくて、果たしてジョーンズ博士の行動は?

お楽しみにということで。


そうそう忘れないうちにもうひと言。

首相広報担当官を演じたクリスティン・スコット=トーマスがいいですねえ。

エミリー・ブラントが出ているだけに「プラダを来た悪魔 」のメリル・ストリープ を思い出しますが、

それともまたひと味違う存在感。こちらもお忘れなく。