東京都美術館で開催中の「日本の美術館名品展 」で「裸婦」像を見てからというもの、
いったい山本芳翠とはどんな画家なんだろうかと気になっていたのですね。
ですから、例によって少々探究してみたわけです。
ここで「裸婦」像を再度引用するのは避けますけれど、
見たところ、とても日本人が描いたものとは思えなかったものですから、
他にはどんな絵を描いていたのか、非常に興味が湧いていたのですね。
で、その山本芳翠の代表作のひとつと言われるのが、これです。
1893年に描かれた「浦島図」という作品ですが、
実はこの手の雰囲気は(極めて個人的感想ですけれど)好きになれない…。
妖しげな宗教めいたものを思い浮かべてしまったりしてしまうという(そこまで言うか…ですが)。
山本芳翠は、1878年のパリ万博 で日本館の運営にあたるべく組織された松方正義の一行に
へばりついて洋行します。
何とかツテであらかじめ同行を許可されたという話もあれば、
船倉に隠れていて、もう日本に帰れとは言われまいという頃合いを見計らって頼み込んだという話も。
なんでも、パリに美術留学したのは、山本芳翠が日本人では初だそうなのですね。
で、10年ほどもパリにとどまり修業に励んで帰朝すると、
日本ではむしろフェノロサや岡倉天心が「日本の伝統芸術」を重視する雰囲気が横溢しており、
「洋画がなんぼのものぞ!」といった状況だったのだといいます。
これにカチンと来た芳翠が「本場仕込みの油絵をみせちゃる!」とばかりに描いたのが「浦島図」だそうな。
たぶん、敢えて選んだ「にっぽん昔ばなし」だったのでありましょう。(でもねえ…)
それ以外にも、帰朝後の芳翠の作品には、
妙に日本を意識するが故の「和魂洋才」的なところが見受けられて、何と申しましょうか…。
とまあ、画業の方はともかくとして(ほんとはおいといちゃいけないですが)、
お初のパリ留学生であり、また人柄がたいへんに鷹揚で話もうまく、料理もうまく、もてなしもうまいことから
交友関係は大変に広く、西園寺公や伊藤博文、山縣有朋など明治期の大物に可愛がられるとともに、
パリでのヴィクトル・ユーゴーとのつきあいの深さからか、自分の息子に友吾(ゆうご)と名づけてしまったり。
も一つ有名な話としては、黒田清輝との関わりです。
もともと法律を勉強しに来ていた黒田でしたが、心のうちでは絵描きになりたいと思っていたわけです。
本人が言い出せないことを、芳翠は黒田の家に手紙を書いて
「日本のためを思うなら、画家にしてやりなさい」とかき口説いたとか。
結果的には、先見の明があったと同時に、おせっかいやきでもあったのかも…ですね。
その後、黒田が素晴らしい作品を次々生み出していったのは、芳翠のおかげである反面、
パリ留学の第一人者たる本人の方は、先駆者ならではの洋画の技法を駆使して、
日清・日露の従軍画家としての作品を残したりするようになったのでありました。
でも、個人的には1887年に帰朝する以前の、パリでの作品の方に惹かれてしまいますね。
先の「裸婦」が1880年頃、そしてこの「西洋婦人像」が1882年の作。
さて、皆さんにとってはいかがでありましょうか。
そうそう、三菱重工の長崎造船所にあって門外不出と言われる「天女」(1878年)も見ものです。
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