新宿に出ることがあると、よく立ち寄ってみるのがコニカミノルタプラザというところでありまして、

基本的には写真展が行われている場所なのですけれど、

先日覗いたときには「そら色の夢」というタイトルの写真展が開かれていたのですね。


写真展「そら色の夢」@コニカミノルタプラザ

世界のいろいろな場所、

といっても空が大きく見える場所ですから自ずと都会の喧騒を離れたところになりますが、

そうしたところで撮った空の写真がたくさん展示されていたわけです。


そんな写真の数々を見るにつけ、

そして会場で流されていたハワイの空の移り変わりを撮ったという映像なども見るにつけ、

「空を見る」という時に「雲の存在とは大きいものだなぁ」と改めて思ったという。


一片の雲のかけらもない、抜けるような青空を見上げるのも

それはそれで清々しいものですけれど、一瞬間として同じ形ではいない雲の存在、

これあってこそ見ることの楽しさもあり、また色合いとしても雲は白いばかりでなくって、

光との相互作用で言葉では表しようもない空の姿を見せてくれたりしますですね。


しばらく前に「雲の楽しみ方 」なる本を読んだ、というより見たときにも

「やるよねぇ、雲!」と思いましたけれど、この写真展を見てまた少々の雲探究をしようかと。


ですが、あんまり学術的になると付いて行きかねますので、

ここはひとつ(安直に)「子供の科学」シリーズから「雲の不思議がわかる本」。

著者は夕方の某TV局でお天気キャスターとして登場する「森田さん!」その人でありました。



パラパラっと読んでいて、そもそも「ほぉ」と思いましたのは

「雲」という漢字はどうして「雨」と「云」なのかと言った点。

この本では、こう説明されています。

「云」は何だかよくわからないもの、得体の知れないものが、地上から立ち上がっていく様子を表す文字なのです。

今では「雲」と呼ばれるものに昔々は呼び名が決まっていなかった。

でも、あのもやもやとしたよく分からないものが立ち上っていくと、雨になるなぁという経験則が

「雲」という名付けに至った…というそういう説でありますね


「云」の読みは「云々」を「うんぬん」と読むように「うん」。

そこで「雲」も「うん」ということになりますが、日本語で「くも」と言うのは何故?

これはまた別の機会に。


と、言いますのも、これとは異なる説明もまた検索するとすぐに出てきてしまうのですよね。

それに従うと、気象予報的なところから離れるのですけれど、こうなります。


「云」が「もやもやと立ち上るもの」であることは同じ(はっきり入道雲と言ってる場合もあり)ながら、

それがすぐさま雨が降るという現象と結びつくのでなくして、

まず「云」の字が今でいう「雲」を表していたというのですね。


ところが、「云」の文字が「云う」という動作に用いられるようになったことから、

これと混同しないように何か部首を付けるかなんかして区別をしようということに。


では、どんな部首をつけようかという時になって、

「云」が出てくると、雨になることがあるよね!という気象状況のことに思い至ったのでしょう、

それなら「雨」+「云」ということにしよう…てな流れ。

さて、どっちが本来なのでしょう…本当はまたもっと別の成り立ちだったりして。


それにしても、雲の本をめくりながら気にかけたのが漢字の成り立ちであったとは…

つくづく理系脳とは遠いところにあるものだなぁと思うのでありましたよ。

さも何事もなかったかのように書き始めますが

親子なのに意思疎通がうまくいないという父と娘のお話です。

映画ならでは(?)のハッピーエンドを見て、
現実はもっともっと修復困難な状態に陥ったりすることもあろうかと思うところながら

逆に言えばせめて映画ではこういう終わり方であってもらっていいのかも…と。
映画「人生の特等席」を見てみましたら、そんなふうに思ったのでありますよ。


映画「人生の特等席」




ガス(クリント・イーストウッド )は大リーグ、アトランタ・ブレーブスで永年にわたり
ドラフト候補の選手たちの素質や将来性を見抜いてきた老練のスカウトとして、
「ヤツの眼はタカの眼」とも言われる存在。


されど寄る年波には抗いがたく、どうやら緑内障を患っているようす。
新人選手を見極める眼の鋭さこそが商売道具となれば、本人がやる気満々であっても
近づく契約期限で更新されるかどうかは野球ひと筋のガスにとっては死活問題になるわけです。


心配した年来の友人で同僚のピート(ジョン・グッドマン)は

普段から関係が疎遠なのを承知でガスの一人娘ミッキー(エイミー・アダムス )に連絡を取り、
ガスが有望選手の実力を見定めに赴くノース・カロライナの球場廻りに付き添うよう頼むのですね。


母を早くに亡くして以来幼い頃こそ球場廻りの旅がらす生活で父と一緒だったものの、
学校にあがれば寄宿舎に入れられ、一向に連絡もよこすことのなかった父親ながらも、
大事な案件を抱えた弁護士の仕事をやりくりして、父に付き添うことを決意します。


寄ると触ると喧嘩ばかりで球場廻りの日々が過ぎていく中、
娘には野球選手を見抜く眼があることに気付いていくガス。
そして、ミッキーの方でもずっと自分を遠ざけていたと思っていたことの裏にあった事情を知ることに。


感情表出の苦手な人というのはどこにもいるものですよね。

極力抑え込むタイプもいれば、本当の思いとは全く違った感情をあらわにしてしまうタイプも。

そうしたことを考えると、設定はどうあれ、自分に置き換えて思いあたってしまうかもです。


結局は父娘なんだと言ってしまえばそれまでですけれど、

見ている側にやっぱり似てるねえと思わせるところが差し挟まれるのも、

これまた思い当たってしまうところでしょうか。


最後の最後で結局のところスカウトとしての面目を施したガス(多分に娘のおかげです)に

ブレーブスのGMが契約更新を促すと、ガスは「考えとく」とひと言。

一度は契約切れになってしまうかというのを誰も知っていますから、

周りから「それでいいのか」云々と口を挟まれると、「考えとくっていってんだろ!」とガス。


こんなひと幕の後にガスが娘に「弁護士の仕事はどうなんだ」的に言葉をかけるのですね。

「考えとく」と答える娘にガスがたたみかけようとすると「考えとくって言ってるじゃない」と娘。


この辺りは計算づくだと思いますけれど、もそっとさりげないところも。

最初ピートから父親への付き添いを提案されたときに「仕事が忙しくて、とても行けない」と

一度は断った娘のミッキー。


とりあえず父親の様子だけでもと自宅に父親を訪ねてみれば、

本当は手術の必要さえあろうかという状況を知ってミッキーが病院に行くことを進めると、

「仕事が忙しくて、とても行けない」と答えるガス。


ここのところは、父娘ともども同じようなことを言っていながら、

促されたことをしないことの問題の大きさといいますか、

ともすれば後悔することになるかもしれないという漠とした思いを抱いている点で、

実は共通なんですよね。


元は選手で今はスカウト、

野球しか能のない(もっともその点での自負は大きいですが)ガスが送る

どさ回りのような生活を、娘にはさせたくないと思っていたわけですが、

本当のところはそんな旅暮らしを何とも思わず、

野球大好きに育っていたミッキーにようやく気付く。


そして、そんな父親はちゃあんと人生の特等席を占めてきたと

幼いころに考えていたことを思いだしたミッキー。

この二人の予想される未来には心温まる予感が…ということになるのですね。


ちなみに原題は「Trouble with the Curve」。

ドラフト1位指名にしようかどうかという選手(こいつが変なやつでして)に関して、

ガスとミッキーの見る目が試される点がタイトルになってます。


ですが、ミッキーの思い出話の中に出てくる「the best seat」という言葉を切りだして、

「人生の特等席」という邦題を考えたのは、近頃では珍しく工夫があるかなと。

野球の話でスタジアムの座席のことも思わせつつ、普遍化もしているという点で。

政治向きの話をすることはほとんどありませんけれど、

極めて稀なことながらそれらしきことを書いたのは昨年、2011年の4月11日。


つまりは東京都知事選の翌日で、その時にはどうにもひと言言わずにはおられない

という気がしたからでありますね。


そして、それから1年8カ月が過ぎて再びの東京都知事選、

加えての衆院選が昨日あったわけです。


結果から言えば、もはやどうにもひと言言わずにはおられない気分は通り越し、

せいぜい思ったところは、返り咲き内閣とは戦前みたいだな…と。

「日本を、取り戻す」とは「戦前の」だったのかと。

たくさんの人がそれにのっかる日本だったんだなぁ。


たまたま日本に住む者としては、

多数決の結果を受け止めていかねばならんのでしょう…。


良し悪しは別として、明日は何事もなかったかのごとく

いつものようなことを書くことにするとしましょかね。

あれこれ憂いは感じるものの…。

東京の出光美術館に行ってきたのですね。

ここでわざわざ「東京の」といいましたのは、出光美術館は門司にもあるからでして、

何でもサム・フランシスの大型作品が見られるそうなので、

一度は!と思っておりますが…。


ところで東京の方では「琳派芸術Ⅱ」という展覧会が開催中。

「Ⅱ」というからには「Ⅰ」があったということになりますが、

確かに昨年始め頃に「琳派芸術 」という展覧会がありました。


「琳派芸術」展のときには、会期の前半が俵屋宗達 、尾形光琳を中心に、

そして展示替えした後半が酒井抱一を中心とする江戸琳派という内容だったんですが、

東日本大震災の関係で後期展示は途中閉幕となっていたそうな。


ということで、この後期部分が「琳派芸術Ⅱ」として

あらためて公開されることになったということで、

先の展覧会で前期の展示しか見られずじまいだったこともあり、出向いてみたという次第。


「琳派芸術Ⅱ」@出光美術館



京都で活躍した俵屋宗達や尾形光琳の作風を自分たちなりに咀嚼して

江戸に持ちこんだ酒井抱一、鈴木其一らを称して江戸琳派というようですが、

展覧会の中でもいちばんに目を引くのはやはりその代表者たる酒井抱一でありますね。


そして、目玉と思しき作品が2点。

「風神雷神図屏風」と「八ツ橋図屏風」でありましょう。


宗達が描き、光琳が挑み、抱一が取り組んだ「風神雷神図屏風」の、

宗達と光琳との違いは先に宗達をいささか探究した際に見てみましたけれど、

これに酒井抱一が加わるわけですねえ。


抱一の実物の傍らには三者の図版を並べた掲示が出ていたました。

宗達と光琳との比較では動きの要素を「雲」に見ましたけれど、

その点で抱一は、光琳よりは宗達オリジナルを意識したように思われます。


厚い雲に乗っかってやってくる感(とりわけ風神)のある光琳作よりも

雲を巻き起こしつつ、その雲を引き連れてやってくるふうな宗達作の方が俄然動きがある、

そうしたあたりを抱一は意識して、薄くばらけた雲を描いのではなかろうかと。


それでもやっぱり雲の描き方を変えるとずいぶん変わるもので

宗達のラッシュ感に比べてしまうと、どうも風神は失速しかけているような。

薄い雲にしたために反ってそんなふうに見えるのかもです。

ということで、三つ巴の勝負にもやっぱり宗達に軍配があがりますかね。


さて、一方の「八ツ橋図屏風」。

こちらは光琳の同名作に抱一が挑戦したものでありますね。


「風神雷神図」のような動的なものでは宗達に及ばぬところを感じさせた光琳ですが、

「八ツ橋図屏風」のような静的な情景では天下一品(ラーメン屋ではないです)。

余白の活かし方といいますか、描くところと描かぬところのバランスが絶妙ではないかと。


で、抱一作のものですけれど、燕子花の株の集まり具合を独自に描いているものの、

パッと見の構図という点ではほとんど光琳作と変わりがないですよね。


ところが、色合いにはかなりの違いがありますね。

図版で見ても、光琳の方が濃く深い色を用いていることが分かりますけれど、

抱一作の実物を見て驚くのは、その色の明るさ。


屏風として引いて見るとさほどに感じなかったものが、

間近で見ると「なんとポップな?!」とも思える色合い。


靉嘔 (あいおう)を思い出すとまで言っては言いすぎでしょうけれど、

抱一は光琳に私淑すると同時に光琳の弟である尾形乾山のポップさをも気にかけたのでしょうか。

(ポップさというのは展示されていた乾山の絵皿を見ても感じられるでありますよ)


とまあ、眺めながら思ったことをあれこれ書いてしまったものの、

例えば「風神雷神図屏風」の三者揃い踏み、「八ツ橋図屏風」の二者横並び、

こうした展覧会やってくれませんかねえ(開催されたことがあるのかもですが、見てないので)。

実物どおしを直に見比べれば、もっともっとあれこれのことが思い浮かぶでありましょうから。


と、楽しみを後にもつなげる「琳派芸術Ⅱ」展なのでありました。

かつて「新書」には、ちと敷居が高いけれど、知的な雰囲気を放っていて、

読んでるだけでも何かかっこいいような気さえしてくるところがあったような。


かつてというのは、新書と言えば岩波新書と中公新書しか見かけなかった頃。

当時から文庫クセジュとか他にもあったのだろうと思いますけれど、

基本的に新書といえば、この二つ。


ここで「知的」の元はと言えば「知識」ということになりましょうけれど、

いつの間にか「こんな内容で、新書と呼ぶのはおこがましい!」的な規制?が緩和でもされたのか、

書店の新書コーナーには膨大なシリーズ展開がなされてますですねえ。


それにつれて知識の森が広がったのかと思うと、どうやらどうでもなくって、

周辺部分に知恵の林が促成栽培的に出来上がったふうな感じでしょうか。


そして、周辺部にはどうも発育不良なのか、

「こんな木ではどうにも使いようがない…」といった木々が混在する状況に。

そうしたものを手に取ってしまった日には、後悔先に立たずてなことにもなろうかと。


とまあ、またまた年長者の「昔は良かった」的に話になってきてますが、

少なくとも現状はどうもいただけないような。まあ、手にしなきゃいいだけなんですが…。


こうした前振りに続いて登場させる本、新書であればなおのことですけれど、

これは当然に「知識の森じゃない方ね」と思われることでしょう。

その通りなんですね。ただ「発育不良」とまでいうつもりはありませんです、はい。


でもって、ここで引き合いに出しますのは新潮新書の一冊「ひっかかる日本語」。

新潮社のPR誌(よく書店に無料で置いてある冊子ですね)を眺めているときに、

自著紹介コーナーで著者のフリー・アナウンサー梶原しげるさんが書かれていたことに

ひっかかる、でなくてひっかけられてしまいました、見事に。


ひっかかる日本語 (新潮新書)/梶原 しげる


で、そこに書かれていたというのは、こんなことでありました。

例えば病院にやってきた患者が自分の経過がどうかと聞くと、

医師が答えて曰く「大丈夫と思いますよ」と。


こんなふうに交わされた日本語にして梶原さんはひっかかりを覚え、

こんなふうに考えるのですね。

話し手は「大丈夫だ」の「だ」を抜くことでで断定を巧妙に避けているのだ。

あとで大丈夫でないことが判明した時、責任を追及されたくない。この種の表現を私は「防衛的曖昧表現」と呼んでいる。

この見解を即座に肯んずるものではないにしても、

日常的にいろいろな場面でぴくっとこれに類するようなひっかかりを感じるものですから、

この人(著者)はほかにどんなところにひっかかっているのだろうと、手にしたわけです。


最初に出てきたのが、駅のトイレなどでもよく見かける貼り紙の文章。

これを見たときには「おお!そうだろう!きっと誰か他にも気になってる人がいると思ってましたよ」

と思わず膝をうちそうに。この一文です。

いつもきれいに使っていただきありがとうございます。

個人的にひねた性格が災いしているかもですが、

「きれいに使ってくれてないからこういう貼り紙がいるんだろうに、それをありがとうとは…」

なんてもって回った言い方かと思っていたわけです。


梶原さんの方はもう少し分析的?でして、

使うのこれからなんだから「未来」のこと(つまりは現在ではわからないこと)対して、

先取りしてありがとうと言ってしまうことの違和感といったものかと。


もそっと読み進んで、専門家らしき人の話を聞いてみれば、

簡単に言って日本語には馴染んでしまえば誰も違和感がなくなるといったところがあるようで。

(すぐに「ら抜き言葉」が思い浮かびましたけれど、これも馴染まれちゃってるのでしょうか)


ですが、これは近頃のことばかりではなくしてですね、

先程の、未来のことを今言ってるということでの例として、「毎度あり!」が挙げられてました。


最近はあまり耳にしなくなった「毎度あり!」ですけれど、

おそらくは個人商店が少なくなったせいでもありましょう。

威勢のいい「毎度あり!」は絶滅危惧種かもですねえ。


で、この「毎度あり!」ですが、意味としては「毎度ありがとうございます」ですから、

初めての客が来た時に「毎度」はおかしいということになりますし、

初めての人が二度三度来ることを想定しての「毎度」なら、

ありがとうを先んじて言っていることになる。

トイレの貼り紙と何ら変わらない。


ところが、この「毎度あり!」に対しては件の梶原さんも、

そして個人的にも違和感を抱くことはない。

つまりは誰しも馴染んでいると。


…とまあ、こうした「ひっかかる日本語」が次々出てくるのかと読んでいきますとですね、

しばらくしてハッと気付くことには、内容が「話し方教室」に変わってるような…。


実際最後の頁によれば、

雑誌に「プロのしゃべりのテクニック」に大幅な加筆・修正を施したものとありました。


それならそうと早く言ってくれりゃあいいのに…と、騙された感がふつふつと。

そして、冒頭の新書云々てなことになってしまったわけなのですよ。

つかみは良かったと思うんですが、どうも看板に偽りありのような。


ところで、「ひっかかる日本語」という本の中に

ひっかかる日本語を見出すというのもどうなんだろう?と思うところですが、

「一発勝負で関係性を築いてしまう」、「その関係性は今後とも大事にしていくべきだ」などと

本書の中に何度か出てくる「関係性」という言葉がそのひっかかりです。


他でも見聞きすることがありますから、流行りもののひとつかとも思いますが、

どう考えても「関係」という言葉で差し支えない、あるいはむしろ「関係」という言葉を使うべきということも。


ついでに思い出しましたが、本書には登場しないものの

「関係性」以上に見聞きする度に違和感を覚えるのが、「世界観」という言葉。


「世界観」はその字づらの通り「世界の見かた」を表していますけれど、

この言葉が使われるときの多くは(ほとんどは?)「世界」でいいはずのところに

「世界観」を入れてしまっている気がします。


こちらの方も流行りものなのですかねえ。

そうすると、上の方で専門家氏の言われたとおりに日本語が変化するとすれば、

これらも「ほんとは違うんだけど、許容度合いが高いからOK」になっていくのかと。


世の流れにあらがって愚痴る人になった気がしてきましたけれど、

本書の著者もひっかかるならこうしたことにもひっかかってもらって、

タイトルどおりに全編ひっかかりまくって欲しかったものだなぁと思ったのでありますよ。