「英国王のスピーチ 」じゃあありませんけれど、
よくよく考えてみると、王様という仕事?も楽じゃなさそうですねえ。
先日、アーサー王伝説 を探究した折りに、
イギリスはプランタジネット朝のヘンリー2世が自分の権威付けのために
「アーサー王の末裔」みたいなふうに利用したことを書きましたけれど、
誰に対して威を示すか言えば、国民に対してとも言えるものの、
シャルルマーニュ(カール大帝)の末流を以て鳴らすフランス王家に対してというものでもあったわけです。
なんだってフランス王家にことほどさほどの敵対意識を持たねばならんのか?
「百年戦争を戦っりする犬猿の仲ではないか」と思ってしまうところながら、
以前読んだ集英社新書の「英仏百年戦争 」で当時はそもそもイギリス、フランスそれぞれ別個の意識が
どれほどあったのか…というのを思いだしたのですね。
別の国としての敵対意識でなくって、むしろ仲間内にも似たところの敵対意識といいますか、
イギリスの王朝を並べるときに、ノルマン朝、プランタジネット朝、チューダー朝…と行きますが、
ノルマン朝の始祖はイギリス王でありながら、ノルマンディー公、つまりはフランス王の封臣ですから。
そんなあたりをもそっと探究してみようかと思ったのですけれど、
どうもプランタジネット朝を扱った書物を見出しかねて、代わりに目にとまったのがフランスのほう。
先の「英仏百年戦争」を書いた作家の佐藤賢一さんによる「カペー朝」なる一冊であります。
フランスの王朝はといえば、メロヴィング朝、カロリング朝、そしてカペー朝となりますけれど、
そもそも最初の方はフランク王国なわけですから、いわゆる「フランス」となったのはいつのことやら。
一時期勢威を誇っていたフランク王国は相続による分割でそれぞれの規模が小さめになり、
(このあたり、ずいぶん前にロタリンギア のことを書きました)
フランスの基礎は西フランクになりますけれど、どうも王権というものが確たるものでなく、
諸侯の自立心たるや、日本の戦国時代もかくやの様相。
つまり王様というのも、当時の室町将軍ではありませんけれど、
有名無実的な存在から来る苦労ばかりであったような。
そんな状況でカロリング朝が絶えたとなると、世界史の教科書では
「987年、ユーグ・カペーがカペー朝を開きました」で終わってしまうのですが、
元の王朝の遠縁やら諸侯やらが「ああでもない、こうでもない」、
結局は投票みたいなものでユーグ・カペーが選ばれたというだけらしい。
それも、「王にふさわしい」というより無難な選択として。
要するに、後のブルボン朝のルイ13世、14世の頃とは大違いのたどたどしい王権。
こりゃ、やっぱり何らかの権威付けが必要になりますよね。
でも、王様ってのは、イメージからすると絶対王政的なところを思い浮かべてしまうのですが、
そうした状況というのは必ずしも多くはないのかもです。
これまた以前に「オリエント急行 」を探究した折りに、
沿線のバルカン半島 諸国の歴史的情勢に関する記述にも出くわしたのですが、
例えばルーマニアではこんな具合。
後の元首をどうするか、集まった議会政治家たちは、ヨーロッパの王家から誰か適当な人物を迎えることに腐心した。国際的地位を高められる君主を選ぶことが重要だったからである。白羽の矢がたったのは、プリンス・カール・フォン・ホーエンツォレルン・ジグマリンゲン(1839~1914)だった。住民も票決で賛意を表した。プリンス・カールは、ドイツ帝国皇帝となったホーエンツォレルン家の支流の出だった。だが、オーストリアとオスマン帝国は、この選出に意義を唱えた。それは1858年の協定に違反しているというのだった。協定の条文には、「公位」に就くことができるのは、モルダヴィアかワラキア生まれの父親をもつ者に限ると規定されていたのだった。
そんなあれこれでもって、
王様(ここでは大公でしょうか)ってのはどっかから借りてきたりもするんですよね。
このときプリンス・カールは出自の取り決めを無視して、カロル1世として即位するわけですが、
あんまりうまくいきそうにないなぁって、誰でも思いそうなものですが…。
それでも、ブルガリアの方でも似たような状況が。
(東ルメリア問題で退位させられたアレクサンダル公の)その後には翌87年、ドイツ系小君主の中からザクセン・コーブルク・ゴータ家のフェルディナント(1861~1948)という人が選ばれた。国内諸党派の思惑だけでなく、列強の思惑、ブルガリアの場合には特に、保護者的立場にあるロシアの態度を意識しなくてはならないので、王様選びもパズルを解くゲームのような観があった。
奇しくも王様選びがゲームのようと書かれておりますけれど、
一時の思惑で血脈も実績も子飼いの取り巻きも何もない状況では、
王様というのも相当以上にリスキーな役割ではなかろうかと改めて思うのですね。
ちなみに、カペー朝に話を戻しますと、
最初が投票で選ばれただけに諸侯の態度はそのときどきのその場しのぎ、
王家とはつかず離れずのようでしたけれど、フランスにとっては幸いなことに、
イギリスにジョン失地王(1167-1216)が現れてくれたおかげで?
だいぶ地歩固めが進んだようではあります。
そして、フランス王に威信なるものが備わったやに見られるようになるのは、
聖王とも言われるルイ9世(1214-1270)までまたねばならなかったようで。
カペー朝も9代目になってようやく…といったところでありましょうかね。
















