まあ、昨日のようなここで書かずともいろんなところでいろんなふうに展開されるであろう議論は、
弊店「chain reaction of curiosity」には必ずしもそぐわないので、また元の路線に戻ります。


戻ったところが「またアーサー王 かよ…」とお思いの方もおいででしょうけれど、
そのうちに気が付いたら興味の方が全く別の方向に行ってるものと思いますので、
ご容赦くださいませ。


いささかの探究をしつつも、物語としてのアーサー王の話を素通りしておりましたので、
手っ取り早く筋をたどれるのではと映画に頼ってみたわけでありますね。


キング・アーサー ディレクターズ・カット版 [DVD]/クライヴ・オーウェン,キーラ・ナイトレイ,ヨアン・グリフィズ


アントワン・フークア監督による「キング・アーサー」。
前から家にDVDソフトがあったので、一度見始めたとこがあったのですが、
どうにもツカミがよろしくない!とほんの頭のところで一度は諦めたという経緯があります。


おかげさまで今回は先に周辺部分を探究しておりましたので、
も少しすんなり入り込むことができたわけでありますが!
探究していたおかげで(せいで?)「なんだ、この話?」と思ってしまったのですよ。
(ちなみに、あれこれ映画の解説を探ることなく見て気付いたことだけで書いてますので、
 思い違い部分もあろうかと…)


映画はアーサーがブリトン人の王になるまでを描いたものであるようですけれど、
そもそもアーサー(クライヴ・オーウェン )はどうやらローマ人とブリトン人との混血であるらしく、
最初からキリスト教徒であり、ローマを懐かしむような場面も時折混ざります。


そして、円卓の騎士であるランスロット、ガウェイン、ガラハッド、
そしてトリスタンらはローマに年季奉公する傭兵隊であって、
かつて勇猛で知られたというサルマティア(南ウクライナ あたり)の

イラン系遊牧民族サルマート人だということになっているのですね。


ローマ軍はウォードと呼ばれる土着の民族(ローマから見てですが)との戦闘を繰り返しており、
そのウォードの長がマーリンであり、グウィネヴィア(キーラ・ナイトレイ)はウォードの女性闘士という設定。


北辺からサクソン人が侵攻してくる頃合に、ローマ軍はブリテン島を放棄し、
アーサーと円卓の騎士たちは紆余曲折の後にウォード(どうやらブリトン人のようです)と組んで、
サクソン人との一大決戦に臨むという…。


このサクソン人との決戦では、トリスタンが倒れます。
サルマティアから15年の年季奉公として連れてこられたのは少年時代でしたから、
イゾルデとの出会いはその後でないと話になりませんが、
ここでトリスタンが倒れては「トリスタンとイゾルデ」の話は消え失せてしまう…。


そして、ランスロットが倒れます。
苛烈な戦場にあっていささかも怯むことなく戦っていたグウィネヴィアが、
危機にさらされてまず駆けつけるのがランスロットと、その後の二人の関係を思わせるところながら、
ここでランスロットが倒れてはその後のロマンスも消え失せてしまう…。
そもグウィネヴィア姫とは、かほどにご気性の荒い方とは…ですが。


最後の部分に触れるのは反則かもですが、
結果的には何とかサクソン人を撃退し、アーサーはグウィネヴィアと結ばれることをもって(?)
ウォードすなわちブリトン人の王位を就くことになるという。
以上、全巻のおしまいであります。


てなことでですね、ひとつだけ言えるのはまかり間違っても
この映画「キング・アーサー」の筋が一般的に流布されたアーサー王のお話だと思ってはいけませんよ
ということなわけです。マーク・トウェイン の話があるなら、これだって…なのかもですが。


そうそう、湖の騎士ランスロットを演じたヨアン・グリフィズですけれど、
どうしてもインパルス板倉に見えてしまうのは「私だけ…」でありましょうか。

昨日の午後8時以降、何とも言われぬ鬱々とした気分で過ごしているのですね。
無力感というのか、何と言うのか…。


統一地方選第一弾の開票速報番組がTVで始まるや、

開口一番に東京都では現職が当確になったと報じられ、
ネット上での現職候補者バッシングは、あたかも都民バッシングに変わったかのよう。
その都民のひとりとしては、暗澹たる気持ちになってきます。


積極的に支持をしているのか、それともネガティヴ・チョイスの結果かはともかくも

現職に票を投じた方々には「過去の実績を評価する」という理由でもってというケースが

見受けられますけれど、最大の実績は「『NO』と言える日本」を現した著者が

「『NO』と言えない東京」を作り出したってことなのやもしれぬと思ったりもしたわけです。


たぶん当選したご本人は顧みることもなかろうとは思いますけれど、
「ダメ都民」の底力は、せめて得票率を辿ることで感じておきたいところかと。


現職が初めて都知事選に出た1999年。
鳩山邦夫、桝添要一、明石康、三上満、柿沢弘治らが乱立する中、
現職知事は30.47%の得票率で初当選したわけですが、
二期目となる2003年は、何と70.21%の圧倒的な得票率。
今考えても驚くべき数字だったなと。


しかし三期目、2007年の選挙では宮城から鞍替えした浅野史郎との一騎打ちを
51.06%の得票率で制したわけですが、さて今回は泡沫ばかりと言われる中で
やはり現職が当選したものの、得票率は43.4%だったわけです。


個人的には一度も票を投じたことのない人なだけに
何かしら集票力に繋がる「眩惑」要素があったのだろうとしか思えないわけですが、
その「眩惑」の魔力もだんだんと効力を失い、ようやっと過半数を切るところまで来たのですね。


そもそも投票に行かなかった人は誰にも任せられないと思った方もおいででしょうし、
一方で投票に行った側の56.6%、つまりは過半数は支持していないのですよね。


ネットの記事の中には絶対得票率として、
(投票者でなく)有権者数に対する得票率を出して東京都知事の場合は24.9%、
今回の各知事選のうち、神奈川についで下から2番目の低得票率であることを
伝えるものもありました。


…とまあ、都民バッシングに対する言い訳めいたことをあれこれしてしまいましたけれど、
震災対応が済んだら早々に退場というのが、せめてきれいな引き際ではないですかね。


そうでもないと、鮮魚を扱う市場を液状化と有害物質でずぶずぶの場所に持っていくことになったり、
根本的な議論もなくえいやで東京に原発を作ったりすることになるやもしれませんし。
(これは他県に作る原発で東京の電力を供給することを良しとする意味ではありません)


このところ、普段はあまり近づかない政治がらみの話が多くなってしまったりしますけれど、
やっぱりひと言いわずにはおけないときがあるものではないかと。
なにしろいろんな意味で東京は臨界寸前の気がしますし…。

アーサー王伝説 は後のさまざまな芸術作品にインスピレーションを与える源ともなった…

てなことをこの間書きましたけれど、

これほどまでに自由な扱いもあるものなのかというくらいの作品があったのですね。

アメリカの作家マーク・トウェイン(1835-1910)の小説「アーサー王宮廷のヤンキー」(1889年)であります。


トウェイン完訳コレクション アーサー王宮廷のヤンキー (角川文庫)/マーク・トウェイン


ちなみにこのタイトルはロンドン版で、

ニューヨーク版では「アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー」というそうな(内容は同じですが)。

理解の助け?に、本書の注を引いておきましょう。

「ヤンキー」とはもともとニューヨークのオランダ移民がコネチカットの英国移民を呼んだあだ名。

ところで、タイトルはともかく内容でありますけれど、なにが凄いってその設定でありますね。

トウェインの同時代人、つまりは19世紀の兵器工場現場監督のハンクが喧嘩で酷く殴られた勢いで?

6世紀にタイムスリップしてしまうという。


厳めしい甲冑姿の騎士にひっとらえられて、

連れていかれたのが何とアーサー王の宮廷であったわけですが、

不審者としてあわや縛り首になるところを機転で切り抜けてからは、

魔法使いと勘違いされたおかげで王にも一目置かれて宰相の地位を手に入れ、

ザ・ボスと呼ばれることになるんですな。


そうではあっても、1300年の時を遡ったハンク(ザ・ボス)のとまどいは一方ならぬものがあって、

こんなふうに思うわけです。

わたしは無人島に打ちあげられたロビンソン・クルーソーそっくりのような気がした。人間社会などというものはなく、あるのはただ多少飼いならされた動物だけだった。だから、毎日をなんとか我慢できるものにしたいと思ったら、クルーソーのやったようにやらなければならなかった。

つまり、いろいろなものを発明し、工夫し、創り出し、改造しなければならないのだ。

Wikipediaによれば、この小説は

「サイエンス・フィクションの分野においては、時間旅行および歴史改変を扱った初期の作品」

となるようでして、初期であればこそなのか、

過去を変えてしまうと未来も変わってとんでもないことに…なんつう意識はかけらもなく、

上の引用にあるように、本来6世紀にあるはずのないものを次々と作りだしてしまうのですね。

電信、鉄道、学校、そして数々の兵器まで。


そして、厳格な身分制社会に対して義憤を感じたザ・ボスは、

密かにアーサー王の死後には主権在民の共和国を作り出そうという画策まで始めるわけです。


このあたりは、「ヤンキー」とタイトルにあるとおり

主人公ハンクはアメリカはアメリカでも北部人ですし、

国内での黒人奴隷の存在を多分に意識しているものと思われるのでして、

アーサー王とザ・ボスがお忍びで街中へ出かけ奴隷商人に売り飛ばされてしまうところでは、

こんなことが書かれています。


伯爵はわたしたちを追いたててゆき、競売にかけて売ってしまったのだ。これと同じような地獄の法律がわたしのいた十九世紀のアメリカ南部にも存在していた。今から1300年以上も後のことだ。そしてその法律のもとで、何百という自由民が、自分たちが自由民であることを証明できないばっかりに、売り飛ばされて一生のあいだ奴隷とされたのだ。

奴隷制やら自由民とは名ばかりの貧しい庶民の暮らしぶりなどを目の当たりにして

ほおってはおけないと思う気持ちは分からないではない。

単純な読み手としても第二十九章(天然痘の小屋)に描かれた痛ましい状況には、

ほとんど落涙を禁じ得ないものがありますし。


というふうに明らかに6世紀のイギリスには、19世紀目線のザ・ボスにとっては

「遅れている」「酷い」「野蛮な」といったことが多々あるのですけれど、

すこぉしばかり引いてみると、「未開の人々に文明の息吹を送り込んでやろう」という意気込みは

どうしてもキリスト教の御旗を掲げて南米に乗りこんでいったコンキスタドールを思わせるという。

ザ・ボスに私腹を肥やす姿勢がないのはまだしもですが。


背景としては、どうもザ・ボスの側に自分の元いた19世紀の産業革命後の世界、社会を

基本的には是とする前提がありますね。

「夜にはろうそくを灯す?電灯を作ってやろう」

「情報が入ってこない?新聞を発行してやろう」

「王様が庶民に目を向けぬ政治をしている?共和国にしてやろう」

という具合。


さりながら、6世紀の人々は戸惑います(当然ですが)。

ザ・ボスにしてみると、「これだけ言って、何故わからない!」といらだつという。


今や21世紀となった、さらに後の時代からこの構図を見てみるならば、

19世紀を余りに無批判に押しつけてるように思えてくるのですね。

6世紀の人にとってみれば、大きなお世話的側面もありましょう。


これを作者マーク・トウェインはどういう思いで書いたのかまでは不明ながら、

単に6世紀と19世紀の比較による文明の対比を試みたというのでなくして、

何の疑問もなく6世紀に19世紀を持ちこむことにやっきになるザ・ボスを

冷やかな目で見て描いているのではないかなと思う(思いたい)ところではあります。


物語終盤、ザ・ボスが故あってイギリスを留守にした折、大きな反動がイギリス中に巻き起こります。

そして、王都キャメロットに戻ったザ・ボスが唖然とする場面が続くのですが…。


国じゅうでいちばん明るく電灯のともっていた町、これまで目にしたものの中では夕陽にいちばんよく似たこの街も、いまや一点のしみにすぎなくなっていた。

ザ・ボスにとっても、明るく電灯のともる町は文明の象徴であったと思われるところですけれど、

たまたまではあるにせよ、電力需給が云々される昨今にあっては、

「明るい電灯」を文明の尺度とすることに対する揺らぎを思うわけでして、

一面荒唐無稽な物語ながら、考えるところの多い話なのですね。


トム・ソーヤーやハックルベリー・フィンの冒険物語よろしく軽快な筆運びで語られるものの、

そこはそれ、新聞記者あがりのマーク・トウェインが批判的な目をもって語りたかったもの、

それは何ら古びるところがないという以上、今に繋がってくるやに思われるのでありました。

この村は発展せんで、いいんです。みんなが仲良くやれば、いいんです。

これはかつてある村の村長さんが言ったひと言なのだそうですけれど、
先の大震災で(無理やりかもしれないものの)歩みを一端留められて立ち止まり、
よぉく考えてみると「なるほど、そうかもしれんなぁ」と思ったりするところがあるかもですね。


でも、この発言は1970年頃のことらしいのですけれど、
1970年と言えばまさに万博の年なわけですね。


日本でもその後に万国博覧会は、沖縄海洋博(1975~76)やつくば科学博(1985)、
そしてついこの間の愛・地球博(2005年)などもあるものの、
万博といえば1970年の大阪万博と言っても過言ではないかと。


それほどにエポック・メイキングな出来事でもあった大阪万博のテーマは
ご存知のとおり「人類の進歩と調和」でありますね。

ついこの間までNHK-TVで放送していたドラマ「Taroの塔」で、
松尾スズキ扮する岡本太郎が、万博に反対しつつもその渦中に飛び込んでいって、
これまた万博といえばこれ!というほど印象的な「太陽の塔」を作り出したりする話をやっていました。


そのドラマの中で、岡本はこんなことを言っていたのですね。
「何が人類の進歩か!そんなものありゃしない。宇宙に行けても、宇宙を感じられなくなってしまった」


大阪万博の前年1969年にアポロ11号の月面着陸が報じられ、人類の進歩は遂に

月に足跡を残すまでになった時代ならではの「人類の進歩と調和」だったのでしょうけれど、
「進歩だと思って進みながら、置き去りにしまっているものがあることを忘れていないか」

てなことを岡本は言いたかったのかもしれません。


ただ、ごくごく一般的には非常にシンプルに「進歩」を信じていて、
つまりは「岡本太郎は何、言ってんだぁ?」みたいなところであって、
もっともっと、もっともっと先へ進むことを信じて、願っていたような時代だったのではないかと、その頃は。


そういう時代にあって、

村長自ら「村は発展せんでいい。みんな仲良くやればいい」というふうに語るのは、
ある意味大変勇気がいることではなかったろうかと。


それでも、このひと言からは「満足」の何たるかを考えてしまうのではないですかね。

もしこの考え方がその村の人たちの共通認識になっていたとしたならば、
そうしたコミュニティができるんだとしたならば、
も少し広げた町の単位でも、もそっと広げた市の単位でも、さらに県の単位、

そして国ぐるみでもできないことではないと想像してしまうところです。


現実には抱える人口が多くなれば、

考え方がそれぞれである人たちに出くわす率は高くなりますから、
そうそう簡単な話ではないにしても。


発展には経済活動が伴って、その経済活動は実は非常に無駄も無理も生みますし、
そして人と人との関係をぎすぎすさせたりもするところがありますね。
たとえそうであっても発展し続けることを考えるのか、
そうでないあり方でもって、皆が仲良くそれなりの満足感を持てればいいとするのか、
かなり大きな違いではないかと。


これまでは、基本的には発展こそ幸福、満足を導くものであるかのように

「イケイケどんどん」でやってきましたよね。
時には停滞することがあっても、それを乗り切って再び発展路線に乗せれば、

きっといいことがあるだろうと。


でも、どうやら必ずしもそうではなさそうで、

勝ち組なんつうのができてしまう反面、負け組なんつうのまで作られてしまった。
ちょっと考えてみれば、こうしたことが「目指された世界」ではなかった

と気付くことがあるように思うのですが…。


ちなみに、先の村長さんの村は福井県の名田庄村というところでありまして、
昔々「受験生ブルース」なんつう歌も歌っていたフォーク・シンガーの高石ともやさんが
先の村長のひと言にぐっときて移り住み、自分のグループに

「ザ・ナターチャ・セブン」という名前までつけてしまったという、その村なのですね。


あいにくとその後の市町村合併によっていささかサイズが大きくなったようですから、
もしかすると先の村長のひと言はもはや生き続けていないのかもしれませんけれど、
例え小さな単位であっても、こうした考え方で生きられる場所があったとしたら、
かつての高石さんではありませんけれど、飛び込んでいかれる方々がおられるかもしれませんね。
むしろ今だからこそ。

監督がヘンリー・ハサウェイ、音楽がエルマー・バーンスタイン

そして主演がジョン・ウェインとなれば、こてこての西部劇 だろうと思うわけですね。


実際に、ジョン・ウェイン演じる黒い眼帯をした隻眼のガンマン、ルースター・コグバーンが
馬上で手綱をくわえ、ライフルを振り回しつつ突貫を図るシーンが夙に有名という。
それが映画「勇気ある追跡」であります。


勇気ある追跡 [DVD]/ジョン・ウェイン アラモ [DVD]/ジョン・ウェイン,リチャード・ウィドマーク,ローレンス・ハーヴェイ


アカデミー賞の賞取りレースで余りに露骨なキャンペーンを展開したせいか?

「アラモ」ではすっかり滑ってしまったジョン・ウェインがようやくにして

主演男優賞を手にいれた作品としてもまた有名ですけれど、
その記念碑的作品が、コーエン兄弟 によってリメイクされたという。
「ほぉお」と思いつつ見てみた「トゥルー・グリット」なのでありました。


映画「トゥルー・グリット」フライヤー


「勇気ある追跡」のストーリーをおよそ記憶に留めていなかったこともあって、
「リメイクと聞いていたけれど、これは後日譚なのでは…」と思ってしまうくらいに、
かつてのアメリカン・ヒーロー、ジョン・ウェインが見たら嘆くのではと思えてしまう
今回のルースター・コグバーンは果たして
ジェフ・ブリッジス だったのですね。


どうしてこう汚い役が似合うのか…とまで言っては可哀想かもしれませんが、
ちょうど「クレージー・ハート」を西部劇にするとこんなふうな小汚い爺さんが
出来上がるのではと思ったものです。


もちろん、やるときはやる!という場面はあるものの、
先に触れた「勇気ある追跡」の馬上のライフル・シーンは

無理せず?二挺拳銃の形ではありましたけれど。


と、コグバーンの酔いどれぶりだけに目を向けてもなんですから視点を変えますけれど、
西部劇にも昨今の風潮(昨今と言っても昨日今日の話ではありませんが)が

入り込んできてるのかなと思ったり。
要するに、女の子が元気というか、元気な女の子が登場するというか。


ただ、下敷きになっている原作小説により忠実なのは、今回の「トゥルー・グリット」の方なのだとか。
14歳の少女マティ・ロスが明らかに主人公であって、

(オーディションで選ばれた13歳の女の子。アメリカは常に子役に事欠かない…)
ここではコグバーンもテキサス・レンジャーのラビーフ(
マット・デイモン )も完全に脇ですし。


父親を殺害して逃走中の犯人チェイニー(ジョシュ・ブローリン )を法の裁きに委ねるために、
マティはおよそ14歳とは思えない交渉を繰り返して、追っ手を雇う費用を捻出し、
トゥルー・グリットと目されるルースター・コグバーンに追跡を依頼します。
(ここでの「True grit」は「真の勇気ある者」てな意味でしょう)


途中から、別件で追いかけ続けているラビーフも加わって追跡を続けますけれど、
思わぬところでチェイニーに出くわしたマティは奮闘むなしく囚われの身となってしまいます。

まあ、後はご覧になってのお楽しみでありますけれど、
このマティという役どころは、大人を食ってしまうところがあるわけです。


先に「女の子が元気」と言いましたけれど、
世界的にはどうだか分からないものの、少なくとも日本では「女性の元気」が感じられるような…。
もしかしたら、老若に関わらずどの年齢でかもしれませんね。

逆に言えば、男性の影が薄いような。一般的に言って、ですが。


そうしたことからすると、良し悪しは別として(今となっては「悪し」なのかも)、
西部劇のような弱きを助け強きを挫くストーリーの活劇では、
それこそ見終わって映画館から出てきた男性が肩で風を切って歩くふうなところがあって、
(高倉健の映画なんもそうだったのではと思います)


自分じゃできなくても「男はこうでなくっちゃ」みたいな満足感を得ていたのかもしれません。

それが、今や西部劇までが大の男二人が女の子に翻弄されて、
(今回、そこまでの話ではなかったとは思いますが)
ますます肩身の狭さを感じることになったりもするのかなと思ったり。


個人的には極めて客観的に見ておりますので、それで気分がどうのということはないものの、
「世の中、変わったなぁ」くらいは思ったりはするところでありました。
もっとも、昔を全面的に肯定するものではありませんし、かといって全否定もしませんけれど。