探し物が見つかるというのは嬉しいものでありますね。
かれこれ1年以上も探していたものでして…。


といっても1年以上片時も頭を離れることがなく常に探し回っていたわけではありませんし、
もしかすると忘れてた時間の方が長いやもしれません。
でも、ふいに出くわしたときには「そうそう、お前を探しておったんよ」と
即座に探していたことを思い出し、ニタリとしたものでありますよ。


では、いったい何を?
たかだか1枚のCDなのですけれどね…。


昨年の3月頃だったか、お邪魔をしたすねいぷーさんち (って、ブログのことですが)で

見かけたYoutube映像による音楽の紹介。
そこで耳にした曲といのが、ボワエルデュ作曲のハープ協奏曲でありました。


初めて聴いたのですけれど、これがなかなかに「ツボ?!」てなふうでしたので、
CDで全曲を聴きたいものだと。


ですが、あんまり見当たらないんですよね、地味な作曲家なだけに。
グザヴィエ・ドゥ・メストレあたりの演奏で見つかるかと思ったんですが…。


というわけで、ふらりと中古CDショップを覗いたときに探してみる

というふうにしてたら1年以上も経ってしまったと。
古い録音ではありますが、往年の名手リリー・ラスキーヌの盤が手に入ったことを僥倖といたしましょう。


Chain reaction of curiosity


でもって、早速聴く始めて…「あら?すっかり忘れとる!」と思っていたわけで、す、が、
先のYoutubeでご紹介いただいた第3楽章アレグロ・アジタートになりましたらですね、
「おお、これよ、これ!」となりました。


妖しげな魅力を放つ貴婦人を想わせるのですよねえ。
デュマ の「三銃士」に出てくるミレディ(貴婦人ではないか…)をイメージしたりしてしまいます。
ギャラント な中に「匂うぞ、企みが!」てな感じ(さっぱりわからないでしょう…)。


ところで、このフランソワ・アドリアン・ボワエルデュ(1775-1834)はフランスの作曲家でありまして、
(ボワエルデュー、ボアエルデュ、ボアエルデュー、ボイエルデューとも)
バロック後期から古典派にかけて以降は音楽の表舞台がドイツ方向に移動してしまうこともあり、
どうしても忘れられがちなのでありましょう。


1770年生まれのベートーヴェン よりも少々若いわけですが、
曲作りにあたって実験的な取り組みをするということでもありませんで、
至って優雅、至って軽快なところから聴くに何の抵抗もなく、耳に親しみやすいと言っていいかも。


活躍した時代はまさに大革命下であったと思われるものの、
この
ロココ 風味はいったいどうしたことなのかなと。

「かような貴族趣味の音楽はまかりならん!」てなことにはならなかったようで、
当時のフランスの音楽の嗜好はかようなものだったのやもしれませぬ。


ところで、このCDには

ヘンデル (後にオルガン協奏曲に編曲された作品4-6。う~ん、実に素敵な始まり方!)と

ゴセック、そしてボクサの曲も収録されておりますが、
取り分けボクサは元々ハープ奏者でもあり、ハープの教則本は今でも使われているのだとか。
(ところが、曲としてはボワエルデュの方が魅力的かなと…)


そのロベール・ニコラ=シャルル・ボクサ(1789-1856)でありますけれど、
ナポレオンの宮廷楽団でハープを弾いたといいますから、それなりの立場であったように思うものの、
どうも人間ができてなかったのか、通貨や文書偽造やら重婚といった諸々の罪から

イギリスへの逃亡を図ったのだとか。


で、またイギリスの話になってしまいますが、
イギリスでボクサは「おお、大陸の著名なハーピストがやってきた!」ともてはやされたそうなんですね。
何しろ王立音楽院の学長になったり、ロイヤルシアターの音楽監督になったりもしているのですから。


これがだいたい1820年代となればですよ、思い出すではありませんか。
この間触れたように、リージェンシーの時代を経て王位に就いたジョージ4世 の治世下なわけです。
やっぱりこの時代の放埓さというか、結構何でもあり?的な雰囲気を思ってしまいますねえ。


ちなみにボクサはその後、作曲家ヘンリー・ビショップの奥方と駆け落ちに及び、
フランスを除く欧州やアメリカを廻ってオーストラリアで客死したのだそうな。

(そりゃ、フランスには近づけませんやねえ)


どうやらボクサの場合は、曲よりも実人生の方がドラマティックだったようで…。

どうやらビルはのっけからイラついているようでありまして…。


渋滞の行列が続く車の中にあって、ちいとも進まない。
暑さが募ってくるもののエアコンは故障しているようで、
風を入れようにも窓を開ける回転レバーまで壊れているという。


どこから入り込んだのか、さきほどから頭の周りを大きなハエが飛び回ってもいるのに
窓も開けられないとは…。


だいたい渋滞の元は道路工事であって、ついこの間通ったときには補修が必要な様子はなく、
さしずめ役所の予算消化のためにちがいない。


進まない、暑い、煩わしい…。


やおらドアを開けて外へ出たビルは車を放棄して、居並ぶ車の間を抜けて歩き始める。
後の車のドライバーの「どこ、行こうってんだ?」という困惑の声に振り返り、
ビルは叫ぶ、「家へ帰るんだ!!」

やっぱりビルのイライラ爆弾の導火線にはすでに火がついているかのよう。


…というまあ、こんなふうに始まるのが映画「フォーリング・ダウン」でありますね。
車の窓を開けるのに、レバーをぐるぐる回すあたりが時代を物語っておりますけれど、
1993年のアメリカ映画であります。


フォーリング・ダウン [DVD]/マイケル・ダグラス,ロバート・デュバル,バーバラ・ハーシー


車を残してフリーウェイから立ち去ったビル(マイケル・ダグラス)は、
電話をかけようとするも小銭の無いことに気付いて、また少しイラっと。
近くの商店で1ドル札を崩してくれと頼むも「何かを買ってくずせ」という店主に、またイラっ!


ロサンゼルスの街中を歩いて野っぱらでひと休みをすれば、
(この野原は「天使の丘」と言われてましたので、例の
Angels Flight のあるとこですね)
近づいてきたチンピラにいちゃもんをつけられ、またしてもイライラっ!


こうした過程で何故か手元に武器が集まっていくのでして、
最初はバット、次にナイフ、さらには拳銃やマシンガンの詰まったバッグとなっていっては
あたかもわらしべ長者のようですけれど、

溜まっていくのは武器を使わずにはいられないほどのイライラのようで…。


Wikipediaによれば、この映画の紹介文はこうなります。

平凡な中年男性が、些細なきっかけと偶然の積み重ねからストレスを爆発させ暴走する様を描く。

ということでこの紹介をそのまま鵜呑みにすれば、
どうやら巻き込まれタイプの主人公があれこれトラブルに直面して、
ともすると笑ってしまう、あるいは笑うに笑えない状況に陥るのかなと思ったりしてしまうところです。


ですが、主人公ビルはどうも最初から「平凡な中年男性」とは言い切れないふうなのでして、
なにしろ後から分かってきますけれど、仕事も家庭も何もかもうまく行ってない前提なのですから。


自分自身のイライラ(そのタネは人それぞれでありましょうけれど)の発散を

他人への暴力的な行為としてしまう犯罪が報じられたりして、

なんだかやりきれない…そんなふうに思うことが現実にあるからかもしれません。


「不機嫌は伝染する」てな趣旨の言葉を聞いたことがありますけれど、
とにもかくにもたったひとりのイライラも周囲にマイナスの影響を振りまくわけでありまして、
つくづく「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」だよなぁとつくづく思うのでありました。


それにしてもこの当時のロサンゼルスは、

去年ぶらぶら歩きをしたロサンゼルス なんてものでない怖い場所のようでしたねえ…。

漫画家の坂田靖子さんの作品は、

日本古典文学を漫画でシリーズ化した中の一冊「堤中納言物語 」を読んだだけですけれど、
どうやら本来的には英国を舞台にした作品が多いということを小耳に挟んだものですから、
一度はそれらしきものを読んでみようかと思っていたのですね。


でもって、たまたま古本屋で見つけたのが文庫版「バジル氏の優雅な生活」第1巻であります。
これまたたまたまでしょうけれど、「バジル氏」は代表作のひとつだったようで…。


バジル氏の優雅な生活 (第1巻) (白泉社文庫)/坂田 靖子


いわゆる連作短編というもので、一話完結のどこから読んでも可といったところでありますが、
最初はやおら「
オリヴァー・ツイスト 」を思わせる雰囲気。
労働力としての子供を売買するような背景がのっけから語られることになります。


そこに通りすがりのバジル・ウォーレン卿が根っからの「世話焼き」を発揮して、
一人の少年を救い出し、使用人(といいながら家庭教師をつけたり)として雇うところから始まるわけです。


が、「労働力としての子供を売買するような背景」と言いましたけれど、
いったいこの作品の背景はどういった設定なんでしょうか。
ものによっては、語り出しの頭に「18XX年 ロンドン」とかいう記載もされようところですが、
そうしたことはいっさいなし。


文庫版巻末の解説にはこんなふうにあります。

純潔な女王の下に大英帝国が栄光を極めた時代-すなわち、十九世紀ヴィクトリア朝の末期は、文化がもっとも爛熟した面白い一時期です。作者が、この時代への憧れと造詣を傾けて描きはじめたのが、月刊誌「ララ」に掲載された、本「バジル氏-」シリーズであります。

ということでヴィクトリア朝、

つまりはヴィクトリア女王 の治世下の時代(1837-1901)ということのようでして、
なるほどそれらしいふうなイメージはあるのですね。


といっても、その時代の何を知っているわけでもありませんから、
そういう感じだろうなぁ…というところから外れてなさそうだくらいなものですが。


ではありますが、ところどころに現れるヴィクトリア朝のロンドンを思わせるような言葉でもって
なおのこと「なるほど」と思ってしまいそうになるわけですが!!、
ちょっと立ち止まって、あれこれ探究してみるといたしましょう。


最初に登場する人身売買的な部分。
これに関しては、主人公バジル氏の友人で議員(まあ貴族院でしょうねえ)である

ウォールワース氏が少しばかり後にこんなことを言っています。

僕が何を苦労してる思ってる!!

児童雇用禁止法案議会通過だぞ!

ちなみに英国議会で初めて工場法が制定され、

9歳以下の子供が繊維工場で働くことを禁止したのが1833年。

その後数次に渡って改正されていきますけれど、

その段階では労働禁止の年齢が9歳以下から変わることがなかったわけで、
ウォールワース氏の発言は架空であるにしても、まあ1833年より後の時代設定と推定できそうです。


となればやっぱりヴィクトリア朝の物語かといえば、こんな台詞も飛び出します。
救い出されて召使となった少年ルイがお忍び旅行に出かけようとするバジル氏にこう言うのですね。

あえて言わせていただくなら、僕はそういう種類の事は好みません。

人妻との浮気旅行です!第一、不道徳です!

ご存知のようにヴィクトリア朝は、

女王の治世でもありドイツから迎えたご亭主のアルバート公と仲睦まじい家庭を築き、
これを見本とするように放埓な生活は戒められ、規律が求められた時代であったと。


相対するように、リージェンシーの時代 とも言われるジョージ4世(ヴィクトリア女王の先々代)が

摂政皇太子であった頃からジョージ4世ご本人の治世にかけては

王様自身がしたい放題で、よく言えば何ごとにも大らかな時代であったとなれば、
先のバジル氏のご様子はこっちの方に近いのでないの?と思ったりするところです。


ですが、摂政時代は1811年から1820年、

ジョージ4世としての在位が1820年から1830年ですから
(架空のお話にせよ)工場法成立との関係から考えても、ちと時代が古すぎかもしれません。


そこで冷静に考えなくてはいけないのは、

ヴィクトリア朝にいいとこばかりを想像してはいけんのだろうと。


女王の在位以前に工場法が出来たといっても時代の趨勢であって、
しかも10歳以上なら(9歳以下なら繊維工場以外なら)労働させてもいいわけですし、
リージェンシーの時代の雰囲気が早々急転直下変わるはずもなかろうかと。


また、厳然とした貧富の差があったことは

先に読んだ「感染地図 」のコレラ禍での様子を思いだしても容易に知れることでして…。

つまりは、おもて向きと実際とがあったような構図でありましょうかね、ヴィクトリア朝も。


そういえば、「感染地図」の中にこうした引用がありましたね。
ロンドンでも有名な目抜き通りであるリージェント・ストリートを設計したジョン・ナッシュの曰くであります。

高貴な人びとの住む街路と職工や商人がざわめく路地を新しい大通りで完全に分離するのが目的だ…新しい大通りは西側の高級住宅街の通りとはすべてつなげるが、東側の汚い通りには直接つながらないようにしたい。

この通りの名前がまさに摂政皇太子、後のジョージ4世に因んでいるわけですが、
貧富の差というよりもはや隔離政策ではなかろうかと思えますよね。


一方では雑踏で貧富こもごもが行きかう場所もあるわけで、

バジル氏も出かけるコヴェント・ガーデンなどは典型でしょうか。


バジル氏とってコヴェントガーデンと言えばロイヤル・オペラ・ハウスのことでありましょうけれど、

庶民的には「やっちゃ場」ですよね。


映画「マイ・フェア・レディ」で花売り娘のイライザ(オードリ・ヘプバーン )が
オペラや近くのドルリー・レーン劇場の芝居がはねた後に出てくる上流階級の人びとに
花を買ってもらおうとしているところを思い出しますね。


…と長くなってしまってますので、後は端折りますけれど、
他にも気づいた(気になった)ことをいくつか。


馬車を拾ったバジル氏が「ホルボーン」と告げるからには屋敷はホルボーンにあるのだろうと思うものの、
当時のホルボーンはどうだったのだろうとか。


バジル氏に娘のエスコートと頼みきたルーカス氏が「急用でエールへ立つ」と言っていたけれど、
アイルランドを「エール」というのはアイルランド語によるわけで英国貴族の側が使うかなとか。


ハッチンスン公爵が「ヨハン・シュトラウス でも呼びますか」と言いますがつつ、
ヨハン・シュトラウス(1825-1899)がイギリスに演奏旅行にやってくるのは1867年なんですが、
やっぱり時代的にはいつ頃の想定で、

だいたいヨハン・シュトラウスがイギリスにまで名が通るのはいつ頃なんだろうとか。


そしてバジル氏は、正しくはバジル・ウォーレン卿ということなれば、
サー・チャールズとかサー・リチャードとかいうよりにサー・バジルで、
それなら「バジル卿の優雅な生活」か「ウォーレン氏の優雅な生活」かどっちかなんじゃなかろうかとか…。


ま、こんな読み方する人、たぶんいませんね…。

おっと、面白かったんですよ!とは言っておかねばですね。

世界を巡る旅の空想 ではつい先日、

マルセイユからコート・ダジュールを廻ってみてわけですけれど、
今、三鷹市美術ギャラリーでグランヴィルとの二人展が開催されている

オノレ・ドーミエがマルセイユ出身だったようで。


ということで、「ドーミエとグランヴィル」展を見てきたというお話であります。


ドーミエとグランヴィル展@三鷹市美術ギャラリー


J.J.グランヴィル(1803-1847)とオノレ・ドーミエ(1808-1879)は諷刺画で有名でありますけれど、

シャルル・フィリポンが主宰した「ラ・カリカトゥール」や「ル・シャリヴァリ」といった

諷刺新聞を専ら発表の場にしていたという点では同僚と言ってもよいのやもしれません。


1830年のフランスは七月革命の後に誕生した

ルイ・フィリップによる七月王政下で健筆ならぬ絵筆を揮ったわけですね。


ナポレオン後のブルボン朝復古王政では、
大革命によって生じた新たな時代の潮流にともかくも反動的な政治が行われたことで、
不満、鬱憤が七月革命で爆発するわけですけれど、結局のところ

担ぎ出されたオルレアン公ルイ・フィリップが王様になる点ではやっぱり王政なわけです。


とはいえ革命を経ての王政ではありますから、

最初の頃は出版の自由を保障し検閲もしないとしてはいたものの、
どうも権力を握ると守りに入るせいか、公約も粉飾状態となっていくとなれば、
ルイ・フィリップ王とそれを取り巻いて政治の実権を握る人たちが格好の諷刺対象になるという。

さればこそ、グランヴィルもドーミエも大いに活躍できたというのは皮肉な気がしますが。


それにしても、カリカチュアライズするのに都合が良いといいますか何と言いますか、
ルイ・フィリップの頭の形が洋ナシにそっくりであったとか。
そして、洋ナシを表すフランス語poireは「まぬけ」の意もあったそうな。


直接的に王様の似顔絵を書くのはさすがに不敬であったにせよ、
頭が洋ナシの形をした人物が出てくれば、誰もがルイ・フィリップと分かるというのに、
これを摘発しては「王が洋ナシ=まぬけ」と認めたようなもので、
当のご本人はさぞ地団駄踏んだことでありましょう。


オノレ・ドーミエ「悪夢」(同展フライヤーより)

このドーミエの「悪夢」なる作品、どうぞご覧くださいまし。

長椅子に横たわるラファイエット将軍にのしかかるぼってりした洋ナシ!

王様には担ぎ出したものの、将軍にももはや重荷でしかないルイ・フィリップ。

頭の形どころか、身体全体を洋ナシにしてしまってますよ。


そんなふうですから発行人ともども投獄の憂き目にはあいもし、
結局のところ思い余った政府としても1835年に検閲法を復活させたりするのですが。


そのせいでドーミエは風俗諷刺へと転じていき、

1848年の二月革命後に政治諷刺を再開するものの、
1852年にナポレオン三世の第二帝政となると弾圧もあったでしょう、また風俗諷刺に戻っていきます。


長生きはしたものの、一番の華があった時代はルイ・フィリップとの対決の日々だったのですかね。
どうも後の作品というのは精彩を欠いているようにも思えてならないのですよ。


ドーミエが長きに渡って基本的に諷刺画家ひと筋とも言えるのに対して、
グランヴィルの方はさほど長い生涯ではないながら、
挿絵に転じて独自の世界を拓いたのがなんとも対照的なような。


しかも単なる挿絵というのでなく、グランヴィルの絵に文が付けられる、
つまりは先に挿絵ありきという本が出版されるようにもなるという。
(こうなると、挿絵とは言いませんね、きっと)


そんなふうに自立性のある絵を描いたグランヴィルの作品は
「擬人化された無機物や不条理な世界観」を表出して

ルイス・キャロル などにも影響を与えたそうですが、

「トランプの戦争」という作品など「まさに!」でありますね。


また、後のシュルレアリスム 作家から高い評価を得たというのも
「二つの夢-罪と償い」あたりを見れば、むべなるかなではないでしょうか。


グランヴィル「二つの夢-罪と償い」(同展フライヤーより)


ルイ・フィリップを目の敵といった形で健筆を揮った二人ではありますが、

その後のありようは結構違うのかなぁと。

一概にどちらがどうとは言えませんけれど…。

サン=サーンス づくしの演奏会を聴いてきました。

オケは日フィル、指揮は小林研一郎さんでありますけれど、

「炎のコバケン!」などと言われるだけに、これまで生で聴いたことの無い者からしますと、

いったいどんだけ燃えあがっちゃうの?!と思っていたわけなのですね。


コバケン・ガラ@サントリー・ホ-ル


プログラムはといいますと、

日フィルの首席をソリストにした「序奏とロンド・カプリツィオーソ」とチェロ協奏曲第1番、

そして締めには交響曲第3番のオルガン付きでありました。


コンパクトな(予算的にもですが)演奏会の場合、

オケの首席が独奏を担うことはままありますけれど、

「序奏とロンド・カプリツィオーソ」のヴァイオリンも、コンチェルトのチェロも実にそつがない。

いわゆるソリスト然としたのとも違って、オケと合わせようという気持ちありきなんでしょうか。


でもって、指揮をするコバケンさんはと言えば、見ている限りどうも大人しげ。

こりゃ、看板に偽りあり?!とも思いかけたのですけれど、

ま、この辺はソリストに譲って、譲って…ということなのかもと。


では、最後のシンフォニーは指揮者の好きなようにできることから、

どんなんかいなと構えていたわけですが、

ここで分かったのは、コバケンさんの「炎」というのは赤く暑く燃えあがるというよりは、

クールにでもしっかり燃えてるけんね、青い炎で!という印象かなぁということなんですね。


オルガン付きのシンフォニーは前回は1年ちょっと前に井上道義さんと新日フィル で聴きましたけれど、

そのときには井上さん のダンシング・マエストロぶりに眩惑されてしまって?あまり曲の記憶がない…。

でも今回は、ともすると最後に向かってぐおっと、とりわけ演奏者の側では「熱くなれよぉ」的にも

行ってしまうところを、落ちついてしかも勢いに水をかけるでなく、進めていったやに思われます。


たった1回の演奏会で決めつけるのは何ですが、

「炎のコバケン」はこういうことだったのかと思ったわけです。

このあたりの裏付けとしては、休憩後にシンフォニーを始める前のトークにも現れていたような。


こんなところで話を長くすると、演奏にあたってオケのテンションが下がる…

てなふうに語りだしたのですが、その話しっぷりはといえば「この人、天然かも」と。

このタイプが、ぶおっと燃えあがり、燃え尽きるふうではなかろうなと思えていたのですね。

実際、演奏を聴いて「そうだよねえ」と思えましたし。


ところで、サン=サーンスの交響曲第3番でありますけれど、コバケンさんのトークの中で、

ベルリオーズ幻想交響曲 の終楽章に使われているグレゴリオ聖歌 の「怒りの日」を

モティーフとして通底させているてなことを話しておられました。


これを聞いたこともあってでしょうけど、曲を聴きながら

ときおりベルリオーズが顔をのぞかせるような気がしたのですね。

「あら、これはラコッツィ行進曲?」みたいな。


てなことを思うと、

19世紀フランス楽壇でのサン=サーンスの立ち位置なんつうことも考えてしまったり。


サン=サーンスは1835年生まれですけれど、

例えばブラームス が1833年生まれですからまあ同世代なわけでして、

イメージ的には音楽界の保守本流 (フランスだと傍系かな?)に位置する感じかなと。


1886年に完成した交響曲第3番にしても、

も少し後にマーラー が交響曲を爛熟させていく流れの手前にあって、

ざっくりみればかなりオーソドックスなものに思われたりするところなのですね。


となれば、美術でいうところのアカデミスムの系譜かと思ってしまいかねませんけれど、

どうもそうでもない。


とりわけ19世紀も後半にさしかかると、

美術でのアカデミスムは新しい芸術の湧き出すさなかにあって

どうも反動的とさえ言える凝り固まりようだったりしますけれど、

そしてむしろ音楽では聴衆が保守的だったと言われるフランスにあって

サン=サーンスは国民音楽協会を作って、フォーレ らの若手を支援するという。

ドビュッシー とは決定的に合わなかったようですが…)


てなことを考えてみると(って、思いつきなんですが)、

サン=サーンスは美術で言ったらギュスターヴ・モロー かもと。


モローはアカデミスムの体制側に身を置きながらにして、

マティスルオー といった新しい芸術の担い手を送りだしたのですし。


そりゃ、時代的にドビュッシーの音楽はちと先に行ってたかもですが、

これと対比してサン=サーンス、イコール保守的と片付けて(あまり耳を傾けないでようであって)は

もったいないのかも…てなことを思ったのでありました。