結局、「フランダースの犬」によって、努力すれば夢が叶うというのはウソなんだということを思い知らされたわけで、そこがぼくのノワールの原点になっている。

…と、アニメ版「フランダースの犬」のことを語るのは作家の馳星周さんであります。

自分は「猫が」すっかり好きになり、中学、高校と進むうちに何度も読み返し、その都度面白がり、結果、三鷹のアパートに運ばれたときには、もうぼろぼろになっていたのである。・・・作家になって、自分は『「吾輩は猫である」殺人事件』という小説を書いた。自分が作家になったのは、間違いなく「猫」を読んだからであり、この作品を書くために作家になったのだとさえ思った。

・・・と、漱石 の 「吾輩は猫である」のことを語るのは作家の奥泉光さんであります。


このところ目にした小文に、こうした人生を決定付けるような出会いの例に出くわしたのですね。

ここではたまたま出会ったものはアニメや小説ですけれど、

それが絵画や音楽であったり、はたまた人物であったり、
人によって決定的?な出会いはまさに人それぞれでありましょう。


でもって、我が身のことを考えてみるわけでありますけれど、
幸か不幸かそうした出会いってないなぁ…と。

もちろん、人生を左右するとか決定的とかいうのでない、

小さな刺激はいろんなものから得ていると思うものの、です。


ここで「幸か不幸か」と言いましたのは、
決定的ななにものかに刺激されてある道を志したとして、
それが叶うケースの陰で叶わぬケースが実は膨大にあったりするのかもしれないことを思うとき、
こうした出会いが必ずしも「幸」とは言えないのかもしれないと。


それでも、結果叶わぬにしても出会ったこと自体、
そしてその後の一途な邁進具合を「幸」と考えられるようであれば別ですが…。


個人的には自分が凡人と分かっておりますから(ということ自体が凡人たる証しですね)、
そんなふうに考えるのやもしれませんね。


折りしもNHK-TVの「100分de名著」では孔子の「論語」を取り上げていますけれど、
「 三十にして立つ。 四十にして惑わず。 五十にして天命を知る。 六十にして耳従う。…」
という有名な一節に改めて触れるとき、
「こうではなかったし、こうではありえんだろうなあ」と思ったりするわけです。


それでも「こうではなかった」ところはもはや過ぎ去ってしまってますから如何ともしがたいにせよ、
「こうではありえんだろうなあ」の部分は「もしかすると、そうとも言えんぞ!」という気がしないでもない。


実際には年経るごとに、どんどんどんどん小さくまとまってちゃうところがありまして、
先ほどの「論語」の言葉などにも触れるにつけ、

過去と現在において「そうなってない」ことからの諦めみたいなものがじんわり湧き出すわけですが、

「そうとも言えんぞ!」という山さん精神でもって臨むと
(ここのところは「太陽に吠えろ」をご存知ないと何のことやら?でしょう…)
なんだかこの先楽しいことでもありそうな気がしてくるわけですね。


ある一事が人生を決めるといったインパクトには敵うべくもありませんけれど、
日々の日常の中で細かく小さく刺激を受け、考え続けることを「幸」と考えていくとすれば、
凡人たりとも捨てたものではない、「一寸の虫にも五分の魂」と嘯きたいところでありますよ。

ここでは、翻訳が直接的に英文から和文にすることを指しているわけではないということで
別のものと言っているのではないのでして、英文から和文に訳すときに「翻訳」という場合と
「英文和訳」(特に学校英語で試験に用いられるような)という場合との違いを言っているのですね。


翻訳ものの本を読んだりするときに、
折りに触れて訳にあれこれ言えるほどの語学力は無いのに僭越とは思いつつも、
訳を腐したりしてしまうこともあるわけで、
ま、こんな本でも読んでみようかと手に取ったのが「実況 翻訳教室」という本でありました。


達人に挑戦 実況翻訳教室 (ちくま学芸文庫)/別宮 貞徳


著者の別宮貞徳さんは長年翻訳の技の伝授に関わっておられる達人ということですけれど、
その翻訳教室を紙上に再現するとこんな具合ということのようなのですね。


いちばん最初に英文の課題が示され、

生徒たちの和訳が提出されたことを前提に縷々講評を語っていくパターンでありますが、
英語力拙き者にとっては実に率直に切り捨てられる様子に全身から血飛沫が!という印象。
そうしたところのサワリを少々引いてみましょう。

explainやexplanationにはたいていの人が「説明」っていう言葉で対応しますね。もちろんそれでいい場合もありますよ。ただ、いつもそうするのはバカの一つおぼえっていうやつ。単に「説明する」じゃなく、「理由を明らかにする」っていうことから「理由」とか「原因」の感じで読み解くと、そして書きほぐすと、すっきりわかるものです。

これはまだまだ序の口発言ですけれど、まあそこらへんを何とか我慢して読んでみれば、

こんなふうに教えられたらもそっと英文和訳の成績がよかったのではなかろうか

と思えたりもするのでありました。


が、それでも「ちと、待てよ!」と思ったのでして、

例えば「our」と出てきたときに、辞書的には「われわれの」という訳語を当てますけれど、
別宮先生にしてみれば「この文章の中で、われわれとは誰のことですか」となる。
そして、もし文章の流れといいますか、文脈から誰を指して「われわれ」と言っているのか自明の場合、
あえてこの語を訳さないこともありましょうし、また別の訳し方をしたり…となるわけで、
本書にはこんなふうな紹介がありました。

過去の時代と対比してwe、ourが使われることもよくあります。その場合の「われわれ」は、
今この世にある「自分たち」です。そういうときには「今日では~」と副詞的に訳したりもしますね。

和訳されて日本語で読む場合には、日本語ですぅーっと入ってくるように翻訳してほしい。
読む側からすれば、望ましい配慮ではなかろうかと。


でも、学校英語でこれをやったら減点されたりしませんかね。
どうも学校英語によって逐語訳を植えつけられてしまったような気がしないでもない。
ま、多分に「負け犬の遠吠え」的物言いではありますが…。

翻訳者の資質は、一に日本語力。二に英語力。三に常識力。そして四に調査力と言ってよろしい。このことを肝に銘じておいて下さい。

ちなみに別宮先生はこう仰っておいでですが、
一と三なら何とかなるような気がしますし、四も対応可と思いつつも、
二がついていかないのでは、やっぱり資質はなさそうですなぁ。


ところで余談をひとつ(本書の中でも余談だったわけですが)。
マイルはキロメートルに直してもらった方が、おそらく日本の読み手にはすっと来ると思いますけれど、
海里(sea mile)も距離的に考えるならばキロに直してあった方がわかりやすいだろうと…。


ところがですね、1海里(1sea mile)というのは丸い地球の緯度で1分に相当する距離になってるそうで、
例えば「○○航海記」みたいな本に「60海里、進みました」とあったら
地球儀を思い浮かべて「そうか1度くらい進んだわけね」と受け止めた方が茫漠とした海の上も
分かりやすくなるのでは…てな話がありました。
なるほどですねえ…。

今シーズンもMETライブ の回数券を買っておきながら、

気がつけば残り演目少なの状況になってきてまして、慌ててというわけでもありませんけれど、

リヒャルト・シュトラウスの「カプリッチョ」を見てきたのでありました。

 

で、いきなりですが、

今さらこの記事のタイトルを見なかったことにしてください!とは無理がありますけれど、
リヒャルト・シュトラウス のオペラ「カプリッチョ」(何だかお菓子の名前みたいですが)を

ご覧になったことがなく、これからご覧になろうと思っており、

かつネタばれなんてとんでもない!と思われている方、すいません、もう遅いです。


でも、これから先をお読みにならずにいただければ(それはそれで残念ですが)

まだ取り返しはつくかも…。


ということで、個人的には予備知識がほとんどない状態で見に行ったわけですが、
METライブらしく開幕直前に少々解説してくれる部分がありまして、
その中で「三角関係」(Love triangleと英語でもまんまなんですねえ)と言っとりましたので、
「ああ、そういう話か…」と。


MET Live「Capriccio」



麗しき伯爵令嬢マドレーヌを巡って恋の鞘当てにやっきの男性二人。

(伯爵令嬢といっても深窓でピアノをぽろりというふうでなく、たっぷりとした?女性ですが)

一人は詩人であり、もう一人は作曲家でありまして、

詩人を取るか作曲家を選ぶかというところから「言葉が先か、音楽が先か」といった

芸術論に摺りかえられたりして論じられるところとなるのですね。


マドレーヌにしても「選ぶことは失うこと」などと嘯いて

二人の男性にちやほやされるのを楽しんでいるふうでもあり、
どちらにもほどほどに科を作って(このあたり、ルネ・フレミング、うまいですね)の繋ぎとめ作戦かと。


でも、結局はこの三角関係、「結局どっちかに決めて、終わるんでしょ」と思ってしまってますから、
全1幕で2時間20分ほどこのまま続くのはしんどいなあと、やや中弛みを覚えてしまったりもしたわけです。


ところが、最後の最後に見せ場が用意されておりまして、マドレーヌの独り舞台となるのですね。
最初は男性二人より心持ちで優位に立っていたマドレーヌでありますが、

独り舞台に先立つやりとりに触発されてか、

言葉も音楽もどちらも我が身と一緒に織り成された織物のよう!かなんか言い出す始末。


こうなると、男性二人の土俵に降りてきて、つまりは恋にどっぷりつかっているわけで、

逡巡するさま(「そうよ!」「いいえ、違うわ!」みたいな一人芝居というと実も蓋もありませんが)を

示すわけですが、結末は(まだ知りたい無い方は、ここで読むのを止めてもまだ間に合います)

メモ用紙にさらさらと書いて執事に渡し、少しほっとした体で部屋を後にするマドレーヌなのですね。


つまり、どう考えてもこのメモに「詩人か、作曲家か、思いのたけを書き付けた」と

思われるにも関わらず、後はご想像くださいとばかりの幕切れ。

リドル・ストーリー と言わずして何と言おう!ということを言うまでもないリドル・ストーリーなわけです。


これを見た時には実は一瞬「口あんぐり」になったのですけれど、

そして途中中だるみ的印象を抱いていたにもかかわらず、

「面白い!」と思ってしまったのですね。「こう来たか!」と。

リヒャルト・シュトラウスにしてやられたという、清々しさというと大袈裟ですが。


見ているうちに忘れていましたけれど、「言葉が先か音楽が先か」と言いながら、

それを両者の融合であるオペラで提示しているのですし、

敢えて細かなストーリーにまでは触れませんでしたけれど、

起承転結の「転」が見事に意表をつく入れ子的構造を思わせるという。


きっと端から「答えが無い」ことが承知の上で作られた物語。

シュトラウスがその遺言とも言われる最後のオペラでたどりついたところは、

思いも寄らぬ入れ子とリドルなのでありました。

「アンフォルメルとは何か?」という展覧会がブリヂストン美術館で開催中でありまして、
シュルレアリスム をあんまり理論に拘らずにも見る性質としましては、
「アンフォルメルとは何か」よりも「それって、どんなの?」という思いで見てきたのですね。


「アンフォルメルとは何か?」展@ブリヂストン美術館


ま、そうは言っても、会場の説明文からの引用でもって理屈を少々。

「流動的な筆の動きによって理性ではとらえられない意識下の心の状態から生み出される抒情的で非幾何学的」な絵画

ということになるようでありますけれど、「意識下の心の状態から生み出される」となれば
先のシュルレアリスム展でも見かけた「オートマティスム」と同じ?となってしまいそうでありますね。


ただ「抒情的」は雰囲気の問題でもありますからまだしも、

「非幾何学的」とはっきり定義できるのなら、
「意識下の心の状態から生み出される」ものを自動筆記ではなく、

意図的して非幾何学的に描くものということになりましょうか。


単純にオートマティスムに従えば、アウトプットされたものが時に幾何学的なものであった…

ということはありましょうし。


そして、「意識下の心の状態から生み出される」、「抒情的」、「非幾何学的」を並べてはみましたけれど、
そもそも「アンフォルメル(informel)」という言葉に立ち返れば、

意味するところは「不定形なるもの」であって、
やはり「非幾何学的」のところにこそ重点が置かれているような気がしないでもありません。


展覧会では、アンフォルメルと呼ばれることになる芸術運動が起こる以前、
それを予兆する「抽象絵画の萌芽と展開」の時代から始まって、
マネ モネ セザンヌ やレジェなどを見ていくことになります。


写実へのこだわりからの脱却して、キャンバスに動きを持ち込んだり(マネですね)、
予定調和的にお決まりの色遣いでない色彩で埋め尽くしたり(モネですね)、
ものの形を表し方を極端に類型化したり(セザンヌですね)と手法はさまざまながら、
本人たちに「抽象画を描くんだけんね」という意識はないにせよ、
確実に「見た目に抽象的」という方に向かう流れがあったことが、ここから見て取れたりするわけです。


でもって、いよいよ「アンフォルメル」の画家たちの登場であります。
名付け親である批評家ミシェル・タピエ(ロートレックの末裔らしい)が「アンフォルメル」と呼んだのは、
まずはジャン・フォートリエ、ヴォルス、そしてジャン・デュビュッフェの3人であったようです。


さりながら対照させてみると、フォートリエとデュビュッフェの作風は素人目に見ても
(というより、素人目だから?)ずいぶんと違ったものであるなあと。


このあたり、印象派の画家たちがともすると似たような趣きを湛えているのに対して、
シュルレアリスムはと言えば、そうした主義主張の旗の下に集まりつつも

個々の作風はそれぞれといったふうなのと同じことなのかもしれません。


ジャン・フォートリエ「旋回する線」(ブリヂストン美術館ポストカード)


また抽象性の点では、
フォートリエの「旋回する線」(1963年)を見ても「抽象という言葉しか思い浮かばん…」と思う一方で、
デュビュッフェの「暴動」(1961年)の、背景はともかくとして、

描かれているものが人々だと一見して(おそらく誰にでも)分かるだけに
「抽象?具象でしょう」と思うわけです。


ジャン・デュビュッフェ「暴動」(ブリヂストン美術館ポストカード)


ですので「アンフォルメル」を文字通り「不定形な絵画」の意であるととれば、
フォートリエには「なるほど!」となり、デュビュッフェには「そうなのかな」と思ったり。


特にデュビュッフェに関しては、具象としては幼稚な漫画のようでありながら、

その暴力的な筆触はゆがみを思わざるをえないのでして、
このあたりは余所の人が「アンフォルメル」と括ることとは別に、
デュビュッフェ本人が子供や美術教育を受けていない日曜画家的な人たちの作品を

「アール・ブリュット(生の芸術)」と呼んで関心を寄せたことの方が

デュビュッフェ作品とは関わりが深いような気がするのですね。


「都会生活」(富山県立近代美術館所蔵)などは、

先の「暴動」よりも穏やかな装いではあるものの、
都会生活の中に描かれた「ゆがみ」はへたうま風アール・ブリュットにも結びつきつつ、
その実、本人はそれなりの美術教育を受けている上での確信犯的作風なのでありましょう。


その後、アンフォルメルの系譜としてはサム・フランシスやジャクソン・ポロック
それにザオ・ウーキーなどもその流れにあるとされたりするものの、
抽象表現主義(ポロックはもっぱらここに入るようで)とは一緒にされたくないとする向きもあるようで。
やがて多様性の中に「アンフォルメル」なる言葉は埋没していったのやもしれません。


ザオ・ウーキー「07.06.85」(本展フライヤーより)



そうそう、やはりその後のアンフォルメルに位置づけられるらしい

ピエール・スーラージュへのインタビュー映像が館内で流されていたのですけれど、

「そう言われれば、そうだよな」ということを言ってました。


専ら自作に関してという話ではありますけれど、

鑑賞者が絵と相対するときに一歩横に動いただけでも、もう同じ絵じゃないのだと。


これまで絵画にしても、音楽、文学にしても、時を違えて同じ作品に相対するときには
鑑賞者の側が以前のままではない、前に作品にあたったときの自分ではなくなっている

てなことを書いたことがありますけれど、

スーラージュの言うような「作品の側もまた同じでない」とまでは
考えてみたことはなかったわけです。


絵画のように描かれて完成した作品として現前しているものが、
見る側でなく見られる側の作品が同じでなくなるなどとは思いもよらなかったわけですが、
例えば一歩横にずれただけでも当たる光の加減が変わる…となれば、
確かに一歩動く前の作品とはもはや違うものになってるとも言えますね。


黒の画家とも言われるスーラージュですから、
「なんだ真っ黒じゃん」ではない画面の黒が放つ反射光をも見せる点を意識すれば

極めて全うなひと言なのでしょうけれど。

でも、この後に絵画は言うに及ばず美術作品に向き合うときに、

どうしても思い出してしまうのではなかろうかと。


ということで、「アンフォルメルとは何か?」というより「アンフォルメルってどんなの?」に触れ、
最後に刺激的なひと言をもらった展覧会なのでありました。

いやあ、NHKも凄い番組を作るもんだなぁと。
昨晩見た「タイムスクープハンター」というドラマ(?)のことであります。


といっても「探偵X 」もそうでしたけれど、こちらも同様にすでにしてシーズン3ということですから、
今さら「いやぁ!」などと言っても遅いのやも知れず…。


とはいえ何が凄いったって、軸になってるタイプワープというSFっぽさを
これほどチープな扱いで仕立ててるのは、とにもかくにも「わざわざ」なんでしょうねえ。

そのくせ、内容的には時間移動した先の様子を極めてまともに取り上げているちぐはぐ感も何とも言えず。


そして、何より凄い!と思いましたのは、わざわざタイムワープして出かける先が、
大戦争とかクーデタとか、それこそ「その時歴史は動いた」的な一面トップネタではなくして、
非常にニッチな点を突いているということでありましょう。


今回飛んだ先というのは、平安時代の対馬。
スクープハンターの名前どおりに、出向いた先で取材を行うわけですけれど、
その取材対象が沖合いを通る舟を見張る「のろしの番人」であるとは。


こうした末端(見方によれば最前線ですが)の人物を

導入に取り上げることはお話としてないではないでしょうけれど、
沖合いに舟が見え、例えば敵が攻めてきた、そぉらのろしをあげろ!となって、
あとはその敵との戦いとか、戦いに備えての中央政府の評定やら混乱やら…というふうに
歴史ドラマは進むのが、まあ自然かと。


ですが、ここでは「のろしの番人」に密着取材ですから、
最初から最後まで焦点を当てられているのは「のろしの番人」なわけです。


ひとつ関心したのは、彼らが話す言葉でしょうか。
最初は何を喋ってるのか全然分からず、字幕が出るものさもありなむと思っていたのですが、
だんだんピントがあうようになると、何を言ってるのかが分かるようになります。


うろ覚えなので確かではありませんけれど、
「私が」というところを「吾が(あが)」と言ってたり、
「そうだ」というところを「然り」と言っていたり、あたかも昔の文章を読むごとしなのですね。


実際に当時そういう言葉が話されていたという確証はなかろうものの、
こうした「変な」懲り様がまた、いいじゃあありませんか。


「のろしの番人」があげる烽火は商船の場合と海賊らしき場合とで違ったあげ方をしたそうですが、
それを間違えてしまったり、リレーとして繋ぐ次の烽火台でいっかなのろしがあがらずに困ってしまったり、
はたまた海賊との戦闘があったりと、彼らの日常からおそらく経験する可能性のある事柄を凝縮して伝える
(それがスクープなんでありましょうけれど)ふうになっているのですね。


ただ惜しむらくは、ここまでの密着取材であるなら、
烽火守りの本音を引き出してもらいたいところではないかと。


こののろしの番をするというのは兵役にも似て、

例えば農民が3年任期で借り出されてきているとすれば、
「やってらんねえよ」的なところがあったのではないですかね。


それを誰もが「国のために義務を果たす」といったところは、

ある種美しくもあるのやもですけれど、「ほんとかよ」と思わざるを得ないわけで。


と持ち上げてるのか、ケチつけてるのか分からなくなってますが、
いずれにしても凄い番組だなとは思ったわけです。


予告として紹介された次回取り上げるスクープネタというのが、江戸時代の髪結いの話らしい。
ちょんまげとは切っても切れない時代ながら、正面からそれを取り上げることはほとんどないという
実にニッチに目の付けどころは、実にすごい!
ですが、来週も見るかどうかは考えてしまいますねえ…。