少々ウィリアム・モリス に触れたところで、
どうにも装飾芸術には疎い(他のことも同様ではありますが)ということを書きました。


まあこれも機会というものですから、そちら方面にも少々目を向けてみようかと手にしたのが、
以前にも水彩画 とか近世日本絵画 とかでお世話になったシリーズの一冊、
「すぐわかる作家別アール・ヌーヴォーの美術」でありました。
タイトルの傍に「アール・デコ」と小さく書いてあるので、こちらの方も少々扱っているのでしょう。


すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォー[アール・デコ]の美術/岡部 昌幸


そもそもアール・ヌーヴォーの潮流は

ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に刺激を受けて、
身の回りの芸術というか、身の回り品の芸術化というか、

そうしたことにも目を向けようということでありましょうし、
またデザイン的にもモリスお得意の草花系のくるくる模様をモティーフにしてたりしますので、
大いに関係はあるのだなとは思っておりましたけれど。
(そうそう、広重 はじめ浮世絵などのジャポニスムの影響もですが)


一方で、アール・デコはアール・ヌーヴォーからの様式的脱却であるのが、

くるくる対まっすぐの関係として現れてくるのが何とも分かりやすい構図ですが、

例えば同じ鉄という冷たい無機的なものを扱いながら、
片や鉄であるのにそうではなくて柔らかな曲線で見せようとするのに対して、

鉄は鉄としてかっちりまっすぐとばかり無機質の美を追求しようとしているかと。


ざっくりそんなこと思いながらさまざまな作品に触れていきますと、
どうやらそうした思い込みばかりでは片付かんのかなと思ってくるわけですけれど、
ともかく今となってはどっちにも理屈があって、
それぞれに「美」を見せてくれるものだなと許容できるのではないかと思うわけです。
中には「うむむ…」と思わぬものもないではないですが。


というところで、ガラス・宝飾、絵画・ポスター、建築、家具・インテリア、金属工芸・陶磁器、ファッションと
「いかにも装飾芸術なのだな」ということが窺い知れる本書の構成ですけれど、
気の付いたあたりを記しておくとしましょうか。


まずはガラス・宝飾でありますけれど、いくら知らないとは言はいえ
エミール・ガレ の昆虫やらキノコやらをあしらったガラス器は見たことがありまして、
「これぞアール・ヌーヴォーなのでは…」と思ったりしてました。


このところ見てきたように、アール・ヌーヴォーが世紀末的な位置づけの中にあるとして、
絵画にファム・ファタル がたくさん描かれたわけですが、

ジョルジュ・デプレによるガラス製のパネル(タイトルは「波」)は
女性の裸身が長い長い髪の毛のうねりとともに水流の中にたゆたう感じは「まさに!」ではないかと。


女性の長い髪というのは「男を絡め取る」みたいな魔性の権化として見られたそうでありますけれど、
その流線的なイメージはアール・ヌーヴォーの植物の蔓などと極めて近しいものですから。
清里 の北澤美術館で見て、なかなかのインパクトであったのをじわじわ思い出してきました。
(ちなみに画像はこちら 。北澤美術館にリンクします)


そして、これまた有名なルネ・ラリックの方は、

アール・ヌーヴォー風の宝飾デザインをしてたのが後に

アール・デコのガラス工芸作家に転じていったらしい。

箱根 のルネ・ラリック美術館に行ったときに、

せめてそのくらいのことは知ってた方がよかったですね…。


絵画・ポスターの章ではミュシャクリムトビアズリー といったあたりが紹介されていて、なるほど。
そして、ちょいと前にBunkamuraで展覧会のあった(行けなかったですが)

タマラ・ド・レンピッカもここに登場です。


終わってしまった「レンピッカ」展フライヤー


レンピッカの絵に登場する女性像は、アール・ヌーヴォーのファム・ファタルとは打って変わって
ボーイッシュで活動的な女性たち、いわゆる「ギャルソンヌ」でありますね。


後の章(ファッション)で出てくるガブリエル・シャネルらが提供した活動的な服を纏って、
女性が外へ外へという時代になっていたということでしょうか。


あたかも彫像が絵になったような、いささか作り物臭いというか、はたまたマネキンのようなというか、
そうした人物像は工業製品にもデザインが持ち込まれる潮流と同じものなのではないかと。


建築はといえばオットー・ワーグナー ガウディ
そしてアール・デコの分類でフランク・ロイド・ライトが出ていましたけれど、「そうだったのかぁ…」と。


ところでその後のページのインテリアや工芸品のところでは、

「お!こういうの、ウィーン で見たっけ」というコロマン・モーザーや

ヨーゼフ・ホフマンの作品が紹介されてたりするんですが、
ドイツで言うところの「ユーゲント・シュティール」はざっくり言って「アール・ヌーヴォー」だったわけで、
いわゆる「分離派」の流れも同根となれば「そりゃ、そうだ」となりますねえ。


今さらではありますが、欧州の席捲した様式だったのでありますね、「アール・ヌーヴォー」は。

ちょっと中休みかもですが、まだまだ梅雨どきでありますね。


頃合いの雨としては、しとしと降る感じが似合いやもしれませぬが、
先週でしたかふと雨降りの様子を眺めやっておりますと、も少し強い印象の降りだったせいか、
空から糸を引くように雨が落ちてきていたのですね。

「あっ、広重の雨ではないかいね」とその時に思ったのですよ。
例えばこんな具合に。


広重「名所江戸百景」より「大はしあたけの夕立」


もっともこれは「大はしあたけの夕立」でして、
隅田川は
新大橋 を渡る人々に降りこめる夕立風景ですから梅雨どきとは違うのでしょうし、
そもそも雨の描き方としても、広重オリジナルなわけではないでしょうから、
お門違いの想像だったかもですが、とまれその時にはパッとこの絵を思い浮かべたわけでして。


という思いつきではありますけれど、唐突に広重探究を少しばかりということで、
手に取ったのが集英社新書ヴィジュアル版「謎解き 広重『江戸百』」というものでありました。


謎解き 広重「江戸百」 (集英社新書ヴィジュアル版)/原信田 実


もとより役者絵、美人絵といった人物画にあまりピンとくるものが無いこともあって、
浮世絵、錦絵と言いますと俄然風景画に注目してしまうことからすれば、
北斎と広重にはいささかの興味も湧くわけなのですね。


さりながら、ここで広重、広重と言っている人物でありますが、
昔は「安藤広重」と言っていたんじゃなかったかなぁと。
ところが、最近は「歌川広重」という名前でよく聞くような気がするのですね。


本筋の「謎解き」とは関わりませんけれど、この辺りの名前のからくり?にも
最初の方で触れられておりました。


安藤家というのは江戸の定火消(じょうびけし)同心を勤める武家であったそうな。
父の跡を継いで広重自身もこの職に就いたものの、
火事は消せても絵描きになりたい一心は燃え上がるばかりだったのか(お、座布団一枚!笑)、
入門した先が歌川豊広であったそうな。


広重自身は一遊斎だの一幽斎だのと名乗ったりしたそうですが、

結局広重は広重のままに過ぎたのですが、
時代は下って三代目広重が作品に「安藤広重」と銘を入れたことから、
明治期以降の教科書ではこの名が通用するようになったのだとか。


もともと武家の名であって絵師に関わりなく、ましてや三代目には何の関係もないだけに、
遡って初代広重を「安藤広重」と呼ぶのはどうも適当ではないのだそうですよ。

かと言って歌川広重と本人が名乗ったこともなさそうとなれば、
本書のように単に「広重」で通すしかないのかもしれませんです、はい。


と、名前のことで長くなってますが、肝心なのは「名所江戸百景」の方ですね。
いろんなところで「この場所は、広重の名所江戸百景にも描かれて…」などと

引き合いに出される有名な連作で、ちらりほらりと目にする機会はままあるのではないかと。


ただ素人目に見て、描かれているところってのは「本当に名所なの?」と思ったりもしていたわけです。
構図の大胆さなどは西洋にも刺激を与えたところであるにしても、
名所というわりには前景でクローズアップされてるものが景色を邪魔してたりするんでないのとも思ったり。
例えばこんな具合でしょうかね、「四ツ谷内藤新宿」という一枚です。


広重「名所江戸百景」より「四ツ谷内藤新宿」


見てのとおり、いくらなんでも「邪魔じゃね?」と思しき馬の尻ではないかと。
ただ、こうしたことが本書で言うところの謎解きの焦点になるのだといいます。


広重がこの大連作である「名所江戸百景」を手がけだしたのが安政三年(1855年)ですけれど、
その前年に起こったのが安政江戸大地震なのだそうでして、
被災したあちこちの「世直り」(復旧・復興)を描き出そうとしたのが、
この連作であると著者は言うのですね。


本のカバーにもなっている「浅草金龍山」ですけれど、前景に雷門がでかでかと描かれて、

誰にも「あ、浅草!文字通りの名所だぁね」と分かるものではあるものの、
実は遠くに小さく見える五重塔、これこそが「世直り」のシンボルであったとか。


安政大地震では、塔の尖端の九輪部分が歪んでしまって

(東京タワーみたいですが…)大騒ぎになったらしい。

大騒ぎになるということは「観音様の塔の上の方が、ひんまがっちまったらしいぞ」てな噂は

すぐに広がりますね。


それが、広重の名所を見ると塔はすっくと立っている。
「ああ、直ったんだねえ」と噂に聞いて憂えた人々が実際に本物を見ずとも
「世直り」過程をつぶさに知ることができたという。

そいでもって「あたいらも、頑張んなくっちゃね」と江戸っ子の心意気に繋がったかどうかは分かりませんが。


という具合に「世直り」のメッセージを込めながら、

お上に関わる建物や何かを直接的に描くとどんなお咎めが舞い込むものやら。
時代は「安政の大獄」前夜でありますからねえ。


そこで、広重の取った策というのが、目くらましに?描かれた前景のでかでかしさとは別に、
遠く目に、小さく、あるいは霞んでぼんやり描いた遠景の中にこそ

読み取るべきものが隠されていると著者は言うわけです。


全部ではないにせよ、半分くらいの作品に対する著者の解釈が示されていますけれど、
どこまで「ふむふむ」となりますことやら、これもお目通しいただいてのお楽しみではありますが。


あっそうそう、この連作の中には少々別のパターンとして、高所から風景を見下ろす構図が出てきますね。
上部に鷲や鶴やらが描かれて、まさに鳥瞰した景色を描いたような。


広重「名所江戸百景」より「深川洲崎十万坪



この辺りは、元々広重が定火消同心であったことを知ってみますと、
普通は誰もが上れるわけでもない火の見櫓からの江戸の町並なんつうのも
広重には馴染みだったのかなと思えてきたりしますよね。

先日聴いたタリス・スコラーズ では、

10人のシンガーを前にして指揮者の方が実に優雅な手の動きで指揮をされておりました。

何故かしら合唱の指揮の場合、あまり指揮棒を握る例は見ないような…。


一方、オーケストラとなりますと、基本的にはタクト を振ってというのが多い気がします。

もちろん素手で振られるケースもままありますけれど、

合唱には馴染むかに見える手の動きがオケを前にするとどうももっさり感があって、

機能的なふうに見えない気がしてしまうのですね。ひとえに個人的な感想なんですが…。


とはいえ、例えばハリー・ポッターやハーマイオニーが

呪文とともに振るう魔法使いの杖(というには、小ぶりのイメージですが)に

指揮棒は見てくれも似たふうな気がしないでもないのでして、

それだけにひと振りで何十人もの奏者から色彩豊かな音色(共感覚的に表現ですね)を引き出す(ように見える)タクトもまた、「魔法の杖」なのではなかろうかと思ったりするという。


そうしたイメージを見る側(聴く側)が持っているのに対して、

果たして本職の指揮者の方々はどうであろうか?という実に興味本位のインタビューを

敢行した記録をまとめたのが「指揮棒は魔法の杖?」という一冊でありました。


指揮棒は魔法の杖? マエストロが語る指揮棒考/エックハルト・レルケ

たくさんの指揮者の方々に「指揮棒なるもの」に関するインタビューが行われたのですが、

どうやら指揮者の側では「なんだって、そんなことが気になるかいね」的な

様子であった方が多いようなのですね。

ですから、話は必ずしも「指揮棒」のことと言うよりは指揮法そのものに流れたりもしますし。


それにしても、素人考えからすれば驚くほどに指揮棒という道具に対する考え方がまちまちだったりして、

それぞれに頷けるところもあり、頷けないところもありということになりますが、

いくつかの引用で並べてみることにしましょうか。

指揮にはバレエに似たところがあります。バレエにおいてダンサーは肉体の動きで物語を表現します。 …指揮者も物語を腕の動きや、眼や顔の表情で語ります。足や腕、そして全身の正しい動かし方を知らないと踊ることはできないでしょう。同様にそれを知らない人は指揮ができないのです。
セミヨン・ビシュコフ
そもそもどんな棒でも指揮できるのであり、棒を持たずに指揮することもしばしばです。そうしたところでたいした違いはありません。指揮棒を用いると、ほんの少し正確になります。素手による場合よりも、棒の先端が運動を正確に示すからです。もちろん、素手で指揮してもオーケストラはタイミングがちゃんとわかります。
ウラディーミル・アシュケナージ
私たちは自分が聴きたい響きを指揮で示しているのです。硬い和音が欲しいとき、手を見るとゲンコツになっています。逆に軽い和音が欲しいときは、手を開きます。だから楽員が理解する視覚上の身振りがあります。これはたんなる技術ではないのですね。私が知る楽員が慣れている視覚上のシグナルなのです。
ピエール・ブーレーズ
私はいろいろな方法で指揮棒を持ちます。…もし、ひと通りの方法でしか指揮できないというなら、複雑なアイデアを伝達することはきわめて難しくなるでしょう。私が棒の持ち方を変えるのは、表現、感覚、感情が変化するときや、別の音色を指示したくなるときです。
ケント・ナガノ
指揮棒は指揮において本質的な要素です。棒によって明晰さが得られます。左手は感情、表現や線を描くことを主としてつかさどり、右手は拍子を与えます。棒の先端の動きが大事です。
ネーメ・ヤルヴィ
指揮棒は緩く持たなければなりません。そうでないと指揮が硬直してしまいます。もし指揮棒にすがってしまうと、肉体的な問題が生じます。指揮棒は自立した部分でなければならないのです。ですから、指揮棒が守ってくれると考えてはいけません。指揮棒はたんに指揮者の意志の延長であるべきです。
ローター・ツァグロゼク
良いオーケストラは、指揮者が少女だろうと男性だろうと、または古めかしく指揮棒で独裁的に指示する人だろうと、いっさい驚きません。そんなことはどうでもよいのです。楽員は常にこの指揮者が何を欲しているのかを読みとろうとするでしょう。
クルト・マズア
いわゆる手首で指揮するタイプと、体で指揮するタイプがあります。典型的な手首タイプはジョージ・セル、ブルーノ・ワルター、カール・ベームらです。典型的な身体タイプには、レナード・バーンスタイン、ヘルベルト・フォン・カラヤン、そして私が特に尊敬しているシャルル・ミュンシュらがいます。身体タイプの人は本来指揮棒は使いませんが、手首タイプの人は使います。
ゲルト・アルブレヒト

アシュケナージ やマズアにとっては楽員がプロであることを以て、

相対的に指揮の意味合いが低めかなと思う反面、

ナガノのように指揮者のアイデアが曲の個性を生み出すという意識から指揮の持つ意味が高く思われる。

ま、インタビューのほんの一部だけで「この人は、こういう人」してしまうのは危ういですけどね。


ただ、複数の指揮者が言っていたこととなりますと、

「ブーレーズの、素手であの演奏は凄い」ということと、

最後のアルブレヒト発言にもある「手首での指揮」というのは、

どうもドイツの伝統芸・伝承技術のようなものかなということ。


ドイツのと言いましたけれど、

長い長い指揮棒で有名なピエール・モントゥーも手首型だったようですね。

手首タイプは身体的負荷が少ないので、かなり高齢になっても指揮できるという面があるそうな。

でまた、セル、ワルター、ベームと見るとそれぞれ老人としての姿が思い浮かぶというか…。


そうそう、ゲルト・アルブレヒトは指揮者の理科系、文科系の違いにも言及してて、

面白いなと思ったのですね。この違いはといえば…

ま、後は本書を読んでのお楽しみとしてください。

(でも、過度な期待はしない方がいい本だとは思いますが…)

以前ジョン・エヴァレット・ミレイの展覧会 で見た「マリアナ」という一枚の絵。
そして、つい先日訪れた目黒区立美術館の展覧会 にもウォーターハウス描くところの
「南の国のマリアナ」が展示されておりました。


ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「南の国のマリアナ」


この「マリアナ」を題材にした作品はロセッティにもあるそうですけれど、
いずれもシェイクスピア の戯曲「尺には尺を(Measure for measure)の登場人物である

マリアナに想を得たアルフレッド・テニスンの詩によるものだそうなのですね。


そもそもミレイ展を見たときから気にはなってたものですから、
今度こそというわけで「尺には尺を」を読んでみたというわけです。


尺には尺を シェイクスピア全集 〔26〕 白水Uブックス/ウィリアム・シェイクスピア


数あるシェイクスピア戯曲の中でもあんまり取り上げられない部類だなと思ってましたけれど、
こう言ってはなんですが、「むべなるかな」ではありました。


いくつかの先行するお話の要素を使ってシェイクスピアが纏め上げた作品といえそうですが、
全体的なストーリーとしても、切れ味もどうも今ひとつのような。


例によってよくある人物のすりかわりがここでは「変装」によって行われ、
公爵が旅に出るとして領内の全権を公爵代理に預け、実は修道僧を装って領内をふらふらしつつ、
あれこれの良くない情報を耳にしながら、いざ公爵の姿に戻って

水戸黄門ばりの種明かしとなるのかと思えば、これが異常に気を持たせるのですね。


その気の持たせ加減が文字通り「異常」ではなかなぁと思えるくらいに、ひっぱりにひっぱる。
いくら何でもひっぱりすぎだよなぁと。


そして、本編のヒロインはと言えば実はマリアナではなくって、イザベラという女性なのでして、
公爵代理に死刑を宣告された兄の助命嘆願に東奔西走する言えば、健気な感もあるものの、
これがまた何とも「分かりにくい人物」でして。
公爵代理に最初の嘆願に訪れた際の、諦めの良さには唖然としてしまいました。


とまあ、筋としてはしっかりヒロインがいるわけですが、

マリアナはイザベラが兄を救い出すために修道僧(実は公爵)が

一計を案じた策略の中で出てくるのですね。
脇筋の人ですから、目立つこともなくひっそりとしているわけです。


もっとも、それもそのはずかつては恋仲であった公爵代理に一方的に婚約を破棄されてもなお一途に
公爵代理が戻ってくれるの待ち暮らすという「待つわ」状態(といって本人が積極的に企みはしませんが)。


こうした点にこそ「世紀末の赤毛連盟 」で触れられていたファム・ファタル 的女性の登場とは裏腹に、ヴィクトリア朝 の詩人テニスンが目をつけた女性像であったのでありましょう。
同時代的な思いが合致して、それを画家たちも描いたのではないかと。


となれば、やっぱりテニスンの詩の方にも目を通してみようかと思うわけでありますよ。
関連するテニスンの詩は「マリアナ」と「南の国のマリアナ」と二編あるそうでして、
ミレイは前者から、ウォーターハウスは後者からインスピレーションを得てということのようです。


対訳テニスン詩集―イギリス詩人選〈5〉 (岩波文庫)/テニスン


残念ながら手にした岩波文庫の「対訳テニスン詩集」に後者は掲載されてませんでしたので、
もっぱら「マリアナ」を読んでみてということになります。


先に絵を見てしまっているからかもしれませんけれど、
かつての恋人を想うことだけで生きているようなところがありますから、
もはや荒れ果てた茅屋の印象である住まいのようすから何から、

ついつい絵の世界と結びつけてしまうそうなのですね。


ただ解説を読むと「なるほどねぇ」と思うような言葉の選び方などからも、
テニスンの工夫というのか、詩人としての才というのかが窺い知れるわけです。

心情の方はといえば、各連の最後に出てくるリフレインを引いてみるとしましょう。
ここでは何となく雰囲気をということで、原文の方にしてみます。

She only said,‘My life is dreary, He cometh not,' she said;
She said,‘I am aweary, aweary, I would that I were dead!'

我が身の境遇の嘆き節でありますが、これが5回繰り返された後の最終連では、
「my life is dreary」の部分が「I am dreary」となって、
客観的な「私の人生」でなく主観的に「私!」が侘しいのよとなることで、
ぐおっと感情の高まりを表現しておるそうな。

詩を読むのに巧みではありませんので、言われてみればの世界ではありますけれど。


ということで、さまざまな作品の成立経緯というものが
単に古えの有名どころから題材を借りてきてというばかりでなく、
(もちろんそうしたものもありましょうけれど)
題材の選択に時代の空気が大きく関わっていることであるなぁと改めて思ったようなわけでありました。

先日、ビール工場の見学 からの帰路、

多摩川沿いのサイクリング・ロードを通って帰ってきたのですけれど、
府中四谷橋を過ぎたところで前方に異様な形状の建物が目に入ったのですね。


実は多摩川の水門


どうにも人の顔にも見えるというか、そうまで言わなくとロボットくらいには…。

無機物が人の顔に見えたりというのはままあることでして、

一説によると「逆三角形のかたちに穴がみっつ開いていると『顔』と認識するようになってる」らしく、

いち早く外敵なりに対処すべき本能のようなものかもしれませんですね。


とまれ、先ほどの写真は水門の建物を横から、そして遠目に見たらそんなふうに見えた…

ということでありますけれど、怖がりタイプはあれこれの想像がたくましいのでもありましょうか。

まあ、そんな「怖い建物」的なところからふいに思い出したのが映画「モンスター・ハウス」がありました。


モンスター・ハウス [DVD]/ミッチェル・ムッソ,スペンサー・ロック,スティーブ・ブシェミ


アニメで作られているからまだしも、はっきり言うと完全なホラーでして、
つくづく実写(CGを使えば十分可能でしょう、きっと)でなくって良かったなぁと思うのでありますよ。
何せ怖がりだものですから…。


主人公たる男の子DJの家の向かいには古ぼけた家があって、

そこの家主のネバークラッカーさんが実に恐い人なわけです。
自分の家の敷地に一歩でも足を踏み込むことすら許さずにがみがみと怒鳴りつけるという。


そんな怪しげな家が向かいにあるものですから、
DJは2階の自分の部屋から望遠鏡でもってそうっと様子を伺っていると…ぬぁんと!家が!!…。


ご覧になったことの無い方もおいででしょうからとこの辺で止めると

何やら消化不良でも起こしそうですけれど、
まあ結末含めての紹介は数多ある別サイトに譲ることにしまして、
この望遠鏡のシーンはヒチコックの「裏窓」が浮かんできますし、
そもそもお向かいの家の怪しさは「サイコ」のベイツ・モテルを思い出したり。
(昔はユニバーサル・スタジオにベイツ・モテルが建ってたんですが、今ではどうなんでしょ?)


と、思い出しついでで言いますと、

怪しげなお爺さんの登場となれば「ホーム・アローン」を思い出しますね。
ケヴィン(マコーレー・カルキン)がハリー(
ジョー・ペシ )とマーブ(ダニエル・スターン)を相手に

大活躍をする際に、それにしても近所は誰もいないんかいね?と思ったものですが、

クリスマス休暇というのはそういうものなんでしょう。


一方「モンスター・ハウス」の方はと言えば、DJたち(孤軍奮闘ではないところが違いますが)の戦いは

「ホーム・アローン」に輪をかけて大騒ぎを呈しているにも関わらず、

近所の誰一人として出てこないのはいったいどうなっちゃってるんでありましょう。


「モンスター・ハウス」ですから家そのものに謎があるわけですけれど、

もしかして近所一帯からして「変?!」なのかも。


ゼメキス 絡みの映画なだけに「フォレスト・ガンプ」の始まりに登場する鳥の羽のひらひらを模して?
冒頭部分でひらひらとカエデの葉が三輪車に乗った女の子をまるで導くように舞っていたのを見て、
いささかの期待してしまった映画だったのですけれど、

も少し練り込んでから映画にすればよかったのになと思ったり。


家の擬人化という点で考えてみると、
逆にシンプルならシンプルで「ちいさいおうち 」(こちらも絵的には家の擬人化といえますよね)のように
さらりと心地よい後味に繋がるようなものもあるわけで、

最後のいささかほろりとさせられる展開にはなるものの、
違ったものにもできたろうにと思うと、残念な気もするのでありました。


とまあ、ずいぶんと「モンスター・ハウス」の話ばかりになってしまいましたけれど、

ところで個人的にことほどかほどに怖がりであるならば、自分の住まいでも怖かったり?…

いえいえ、住まいの中で見つけられるものといえば、せいぜいこんなものでありますから。


我が家の顔?