以前ジョン・エヴァレット・ミレイの展覧会 で見た「マリアナ」という一枚の絵。
そして、つい先日訪れた目黒区立美術館の展覧会 にもウォーターハウス描くところの
「南の国のマリアナ」が展示されておりました。


ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス「南の国のマリアナ」


この「マリアナ」を題材にした作品はロセッティにもあるそうですけれど、
いずれもシェイクスピア の戯曲「尺には尺を(Measure for measure)の登場人物である

マリアナに想を得たアルフレッド・テニスンの詩によるものだそうなのですね。


そもそもミレイ展を見たときから気にはなってたものですから、
今度こそというわけで「尺には尺を」を読んでみたというわけです。


尺には尺を シェイクスピア全集 〔26〕 白水Uブックス/ウィリアム・シェイクスピア


数あるシェイクスピア戯曲の中でもあんまり取り上げられない部類だなと思ってましたけれど、
こう言ってはなんですが、「むべなるかな」ではありました。


いくつかの先行するお話の要素を使ってシェイクスピアが纏め上げた作品といえそうですが、
全体的なストーリーとしても、切れ味もどうも今ひとつのような。


例によってよくある人物のすりかわりがここでは「変装」によって行われ、
公爵が旅に出るとして領内の全権を公爵代理に預け、実は修道僧を装って領内をふらふらしつつ、
あれこれの良くない情報を耳にしながら、いざ公爵の姿に戻って

水戸黄門ばりの種明かしとなるのかと思えば、これが異常に気を持たせるのですね。


その気の持たせ加減が文字通り「異常」ではなかなぁと思えるくらいに、ひっぱりにひっぱる。
いくら何でもひっぱりすぎだよなぁと。


そして、本編のヒロインはと言えば実はマリアナではなくって、イザベラという女性なのでして、
公爵代理に死刑を宣告された兄の助命嘆願に東奔西走する言えば、健気な感もあるものの、
これがまた何とも「分かりにくい人物」でして。
公爵代理に最初の嘆願に訪れた際の、諦めの良さには唖然としてしまいました。


とまあ、筋としてはしっかりヒロインがいるわけですが、

マリアナはイザベラが兄を救い出すために修道僧(実は公爵)が

一計を案じた策略の中で出てくるのですね。
脇筋の人ですから、目立つこともなくひっそりとしているわけです。


もっとも、それもそのはずかつては恋仲であった公爵代理に一方的に婚約を破棄されてもなお一途に
公爵代理が戻ってくれるの待ち暮らすという「待つわ」状態(といって本人が積極的に企みはしませんが)。


こうした点にこそ「世紀末の赤毛連盟 」で触れられていたファム・ファタル 的女性の登場とは裏腹に、ヴィクトリア朝 の詩人テニスンが目をつけた女性像であったのでありましょう。
同時代的な思いが合致して、それを画家たちも描いたのではないかと。


となれば、やっぱりテニスンの詩の方にも目を通してみようかと思うわけでありますよ。
関連するテニスンの詩は「マリアナ」と「南の国のマリアナ」と二編あるそうでして、
ミレイは前者から、ウォーターハウスは後者からインスピレーションを得てということのようです。


対訳テニスン詩集―イギリス詩人選〈5〉 (岩波文庫)/テニスン


残念ながら手にした岩波文庫の「対訳テニスン詩集」に後者は掲載されてませんでしたので、
もっぱら「マリアナ」を読んでみてということになります。


先に絵を見てしまっているからかもしれませんけれど、
かつての恋人を想うことだけで生きているようなところがありますから、
もはや荒れ果てた茅屋の印象である住まいのようすから何から、

ついつい絵の世界と結びつけてしまうそうなのですね。


ただ解説を読むと「なるほどねぇ」と思うような言葉の選び方などからも、
テニスンの工夫というのか、詩人としての才というのかが窺い知れるわけです。

心情の方はといえば、各連の最後に出てくるリフレインを引いてみるとしましょう。
ここでは何となく雰囲気をということで、原文の方にしてみます。

She only said,‘My life is dreary, He cometh not,' she said;
She said,‘I am aweary, aweary, I would that I were dead!'

我が身の境遇の嘆き節でありますが、これが5回繰り返された後の最終連では、
「my life is dreary」の部分が「I am dreary」となって、
客観的な「私の人生」でなく主観的に「私!」が侘しいのよとなることで、
ぐおっと感情の高まりを表現しておるそうな。

詩を読むのに巧みではありませんので、言われてみればの世界ではありますけれど。


ということで、さまざまな作品の成立経緯というものが
単に古えの有名どころから題材を借りてきてというばかりでなく、
(もちろんそうしたものもありましょうけれど)
題材の選択に時代の空気が大きく関わっていることであるなぁと改めて思ったようなわけでありました。