かつては、聖霊様がおられることや聖霊様のお働きを否定しているわけではなかったが、それらに流されることは警戒する方で、お言葉中心の信仰生活が好きだった。
そのためだったのか、意識のない24日間は、自然に神様が実在する霊的な世界を経験させて下さったと思う。
私は2~3階建てのビルに閉じ込められていて,その中には14~15人程度の人達が共に働いていた。彼らは私をいろんな国に行かせて金を稼いでくることをさせた。彼らが送るところで働いたり、お金を稼いだりするたびに、いつもその終わりは追い詰められたり、危険にさらされたりするのだった。そういう瞬間を経験するたびに、こんなふうなら、もう死んだほうがましだと思ったり、そんな思いがする頃には、私は奴隷のように建物に戻ってきていた。
その中で捕まっている時、苦しめられることが多く、あまりにも力がなくて死にそうだった。ある日横になっていると空から光が差し込んでいるのを感じながらラッパの音、称賛の音のようなものが聞こえた。その時、心知らずにかなり低い声で「イエスの血潮」と言い出した。実はその当時、妻がインターネットに祈り文を流して多くの人々が私のために祈ってくれたが、その祈りに対する応答ではないかと思う。
すると私を閉じ込めていた人々が急に不安で忙しくなり始めた。「イエスの血潮」と繰り返して言うと、彼らはだんだん騒々しくなり,私は相変わらず彼らと一緒にいたが,彼らは私を苦しめられなく、私に手を上げずにいた。(Q.保護を受けたのか?)保護を受けているというよりはその人々と区別される感じだった。
そして、私を金儲けにあっちこっち送ることもなくなった。14-15人もの人々の上には彼らを使う人がいた。そこで少し寝ている間に目が覚めて、部下の一人が上の人に報告をするのを耳にした。彼は「大変です。 あの人があの言葉を唱えるたびに私たちが立てていた計画が正確に3つずつ崩れています。」と言っていた。私がこの言葉を叫ぶたびに、かれらの計画、縛りが崩れているということに気づいてからは、あからさまに言葉を頼りに戦い始めた。
彼らの目立った特徴は、1つ目はお金が大好きだった。それで、世間の人たちを騙して、どうやってお金を取り出そうかということだけを考え続けていた。2つ目には、全ての会話や行動が非常に淫らだった。セクハラやわいせつは日常茶飯事だった。3つ目は、人達をだまし続ける計画ばかり練っていた。
ある日その建物から抜け出た。外には砂利畑があり、建物の横には海があった。また、石山が二つあり、右側の石山の上に体の光り輝く人が立っていた。その人がイエス様であることを知った。その時に思ったのは、私の名前は何だったのか?私は何をしていたのか?家族がいたのか?結婚はしていたのか?子どもはいたのか?ということだった。
イエス様の前に立つ時は、私がただ私という存在そのものとして立ち、私が私のものだと信じていたのが私のものではなかったということを悟った。
あの時、私は何でこれまであそこに行かず、このように暮らしていたのだろうと思い、たくさん泣いた。行く途中、あの道の上で死のうとしてもイエス様のところに行こうと心に決めて山を登った。あまりにも元気がなかったのでよじ登って、山の中腹まで行って横たわっていたら、イエス様が降りてこられた。そこでイエス様に会う経験をした。
その時すぐに、そこが私の人生が終わる審判の場であることに気付いた。全ての人が近いうちに例外なく受ける審判の座を経験した。
私の場合、建物の中で人達を使っていた者が上がってきて、イエス様と三人が一緒にいる場で、私の人生がパノラマのように見えた。その人はそこでずっと私の罪をほじくりだし、訴えるのだった。その理由は審判が終わって私を連れて行くためだった。(Q. 悪魔だったのか? A. そうだ、私はその人が悪魔だと感じた。)イエス様も私の恥ずべき人生をすべて見ておられたが、私の過ちの一つも罪に定められなかった。
後になって悟ったことは、 「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」というお言葉が、理論ではなく、信じる私たちが後で審判の席に行った時、現実に起こることであるということだった。
後で彼はイエス様にそれだけ私を放してくれない理由が何なの零しては帰った。私が犯した罪はそのまま記録に残っていたが、イエス様が私を罪に定めなかった理由は、私が彼を信じているからだった。
そしてイエス様が、私の人生の中で価値があると思われる瞬間を選んでくださったが、あまりにも少なくて驚いた。私の人生の中で本当にイエス様と同行した瞬間だけを選んでくださった。
敬虔なキリスト教信徒の家庭で育ち、教会のすべての礼拝に出席し、聖歌隊の仕事をしたり、宣教活動もしていたが、私自身も認識できていなかったその瞬間の心の動機が明らかになった。私の場合は他の人々に認められたかったのだった。人々に認められたかった瞬間は、一つもイエス様には認められなかった。
イエス様が意味があるように評価してくださった瞬間には、事業の不調でお金を全部失い、銀行口座の残高0ウォンを確認して家に帰る道、ただ切実な気持ちで跪いて神様に助けてほしいと、私にできることが何もないと祈った瞬間も含まれていた。
- EVG. YSK