(マルコ 10:46-52)

当時、イスラエルに多くの乞食、盲人がいた。しかしイエス様の前に行った人はごくわずかなのが現実だった。最初は皆、熱望があったはずだ。しかし、それを最後まで執拗に追いかけた人は少数だった。主が望まれた信仰のは劣悪な環境の中で希望を回復することだった。そしてこれが祈りだ。
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聖餐の意味:新しい約束の中に入った。

初代教会は礼拝そのものが聖餐だった。礼拝のたびに主の言葉を記憶し、主の臨在を経験した。天国がこの地に来たかのような聖餐だった。以後教会が分裂する時代も、聖餐がきちんと行われていたら問題は解決できたはずだ。教会や家庭など聖餐さえきちんと受ければ解決しない問題はない。
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神様を失って生きること自体が死だ。
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すべてをなくしたのに、神様までなくしたなら、それより悲惨なものはない。
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イエスを信じなければ、今のように損して、屠殺場に連れられていく牛のような生活はしないと思われる人、すなわち世間から見ると愚かだと思う道を行く人は、主が飲む杯を一緒に飲んでいるのだ。
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(ヘブライ人への手紙 4:9-10)
「安息する」 - 肉体の休息、精神の回復 (古代ギリシャ語 katapausis) ;魂が神に帰ること(ヘブライ語 sabbatismos)

ヘブライ語も他の新約聖書のように、古代ギリシャ語で書かれたが、安息という言葉はその意味を十分に表現するためにヘブライ語が使われた。

神様が仕事を中断して自分自身に戻られる。

安息は私たちが思うより深い資源を持っている。休息を通じてのみ生命に関することが強力に起こるようにするその何かがあることを神様が知って、聖徒たちに手本を示され、神ご自身もこの中で何か新しいことを始まれたという意味だ。
神様の安息に参与することは、生命力を再び咲かせる時期、とても重要だ。
安息は神の呼吸に私の呼吸を調律することだ。 (引用) 自分の人生を受け入れられる決定的な根拠もここから生まれる。 
 
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(マルコ 10:16-31)

「当時、金持ちで官員層だった人がイエスに来て膝を折ったことはなかった。官員のニコデモもイエスにこっそり来てお目にかかっただけだ。その金持ちの青年にはそれだけ切迫した問題があったのだ。

イエスはこのような彼を愛し、弟子と呼びたがっていたようだ。イエスは彼に「あなたにはまだ足りないものがあるから、行って供え物を分けてあげなさい」と答えた。青年は憂いながら帰る。

この人が他の戒名を守るようにした動機は、経済的余裕だったのだ。これが彼の信仰生活だった。イエス様の考えでは、彼は物質の虜になって飛び去ることのできない、縛られている人だったのである。

この地で神様を信じるために、損することがあるなら、神様はご自分のために失ったこと、諦めたことをそのままにせず、100倍、1000倍も返してくださるという言葉を、ありのままに受け取って信じなさい。

金持ちの青年は本文でも気を落としたが、一人でいる時でも気を落とすだろう。永遠にそれに縛られて生きるのだ。

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人格のあるすべての存在は認められたい。 神も同じ。
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緊要なものほど類似品が多いが、真実に近いものを愛してはいけない。(神に似ているものに忠誠を尽くしているのではないか。)
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私をこの広野から倒そうとして、エジプトの地から引きずり出したのではない。 神が私よりも私の人生をもっと愛してくださる。
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コンパスのように重心があれば、円はいくら大きくなっても大丈夫だが、重心の取り方を知らずに成功すれば、そのために滅びる。その中心にイエス様がいなければならない。
 
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(同行)
(マタイ11:28-30)
28 すべて重荷おもにを負おうて苦労くろうしている者ものは、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休やすませてあげよう。
29 わたしは柔和にゅうわで心こころのへりくだった者ものであるから、わたしのくびきを負おうて、わたしに学まなびなさい。そうすれば、あなたがたの魂たましいに休やすみが与あたえられるであろう。
30 わたしのくびきは負おいやすく、わたしの荷には軽かるいからである。

イエスは疲れきったすべての者に荷物を降ろすようにおっしゃった。そしてご自分のくびきを背負って学ぶようにおっしゃった。これはアイロニックにも見える。

昔の農耕社会では未熟で幼い牛とよく訓練された成長した牛、二頭の牛がくびきを担う。彼らが安息できるのは,お互いに歩調を合わせる時だ。
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神様は、ごく小さなことを使って夢を叶える。
 
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復活後の人間関係は続くのでも終わるのでもない。
完成されるものだ。
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(ヨハネによる福音書 6:1-15)
5つのパンと2匹の魚を快く差し出した子供のように、自分のものをあきらめ犠牲して主に差し上げるとき奇跡が起きる。

(列王記上17:8-16)
ザレパテの未亡人には息子と最後に食べて死ぬ小麦粉一握りと油少ししかなかった。エリヤは未亡人にそれで小さな餅を作って彼のために持ってくるよう頼んだ。
女性は死ぬ状況で自分が食べることをあきらめ、他の人に食べさせ、5つのパンと2匹の奇跡を経験した。
 
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悪魔は忙しさを嘲るが、人が祈りを通して強くなることを恐れる。
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今日の命令に現状, 論理, 理屈を問わず即時答えること⁻
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砂漠では人が水筒を持っているにもかかわらず、脱水で死亡するケースが多い。砂漠は乾燥で汗がすぐ乾かれる。体の中では脱水が起こるのに、自覚できず水を飲まず、そのうち死ぬのだ。サタンがすぐに汗を蒸発させても一定時間水を飲まなければならない。
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敵軍より恐ろしい味方の誤射

1991年の湾岸戦争当時、英国軍の4分の1が英国の戦車をイラク人と誤認攻撃した米軍の銃撃で命を落とした。
(教会の中での暴力性について)

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神様は動かれる神様だ。私がいるべきところに私より先に行かれる神様だ。神様は一度も元の場所に留まっておられたことがない。
生涯の局面が変わると、神様の姿も変わる。紅海の前での神様と広野での神様の姿が違ったように。
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パウロは復活を肉体の死で種が地に植えられ生命を咲かせることに例えた。つまり、神に似た創造されたときの原型を回復することである。全く想像のつかない体ではない。たとえ長くて100年余りの、罪に縛られているこの世の中で持っている体とは違く、復活の時に神の形象をした完全に変化された体を持って神の国に入ることは、体に障害があったり身体的コンプレックスがある人たちにだけ希望になることではない。

また復活の信仰は殉教の信仰である。死を恐れれば十字架の道を歩まず。死の恐れを無くすためにイエス様が来て十字架を背負われ、復活された。初代教会で洗礼は、死を覚悟して受けるものだった。殉教の信仰で信じなければ、コロナのような状況ですぐ崩れる。
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「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。」という聖書の言葉は、前後の脈絡を見る時、その要旨は聖霊を求めよということだ。
  
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死ぬふりをしていては生き返ることもない。本気で自分が死ねば、神様がまた生かしてくださる。
 
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金持ちは金持ちだから地獄へ行ったのではない。富自体は価値中立的である。金持ちが天国に入ることは、らくだが針の穴を通ることより難しいという言われたのは、裕福さが人の魂を蝕んで霊的なものを見ることができず、貪欲の奴隷となって生きるようにする可能性が非常に高いからである。
 
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「従順」のイメージは猟犬が餌を見つけて攻撃的に、熱情的に、そして集中的に全力疾走する状態をいう。
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最上の攻撃が最上の防御。

目標が罪を犯さないこと、大きな過ちをしないことくらいなら、むしろ今のうちにやめた方がいい。
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神様の国へ行った時、神様が聞かれるのは神々しさへ向けた熱望に関することで、何人の人を伝道したのかなどではない。
 
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コロナは「見えない敵との戦い」という点で「霊的戦争」と似ている。
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(三国志の赤壁の戦い)
100万の兵を持つ曹操に比べ、劉備と孫権は絶対的に劣勢だったが、彼らには見えないものを見る力を持つ諸葛孔明がいた。諸葛孔明は風、霧などを見ることができる知略があり、四方が塞がれた状況で火攻めという戦術で勝利した。
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(あるラビの解釈)
アブラハム:なぜ私を試したのですか?
神:私はあなたを試したことがない。
アブラハム:それではなぜそうしろとおっしゃったのですか?
神:もろもろの国に自慢したくて
 
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時々試験がある理由は幸せを人から見つけようとするからだ。
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恐れは悪魔の招待状であり、完全なおもちゃである。恐れがどれほど霊的に恐ろしいのか分からないため、しきりに心配するのだ。これは神様を信じないという告白でもあり, 神様との悪影響を与える。

もし神様を否定しろという迫害を受ければ否定しないはずなのに恐れのため、後で天国へ行く前すべきだったことを一つもできずに入るようになったら心配は放蕩のようなものになる。
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Exodusは「抜け出す」という意味の接頭語と古代ギリシャ語で「道」を意味するHodosという語彙で構成されている。これは、留まっていた場所が正しくないことに気づき、今いる場所から脱出することだ。
出エジプトは不便なことだが、神様は絶対手ぶらで抜け出すようにしない。必ず賞がある。

出所:複数の教会