【散歩】たみ散歩「京都・近鉄丹波橋」Vol.39 歴史的な建造物が多く見られる伏見を散策!⑥
※プロマリを更新しました。プログラミングやニュース記事を纏めていますので、是非ご覧になって頂けましたら幸いです。
引き続き、歴史的な建造物が多く見られる京都伏見区の「近鉄丹波橋」を散策します(前回の記事はこちら)。
伏見桃山城運動公園の多目的グラウンドの裏手から伏見城の外堀の遺構を利用した「伏見北堀公園」に行ってみます。
堀の跡ということで、公園全体が深い谷のような形をしています。
伏見の桃山地区は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地でありました。
伏見城は三度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めました。
このとき築かれたものを「指月伏見城(しげつふしみじょう)」、後に近隣の木幡山(桃山丘陵)に再築されたものを「木幡山伏見城(こはたやまふしみじょう)」と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられます。
指月に築かれた伏見城は築城開始から2年後の1594年(文禄3年)に秀吉が入城し、更にその2年後の1596年(文禄5年)に完成をみるが、その直後に慶長伏見地震によって倒壊したんです。
慶長伏見大地震は、京都府京都市伏見区付近で発生した大地震で、伏見城天守や東寺、天龍寺等が倒壊し、死者は1,000人を超えました。
そのため、秀吉は指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き、翌1597年(慶長2年)に完成をみます。しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没したんです。隠居後に築いた2つの城にはわずかしか住んでなかったんですねぇ。
「憩いの広場」
秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとりました。
関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていましたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失しました。
焼失した伏見城は1602年(慶長7年)ごろ家康によって再建され、1619年(元和5年)に廃城とされました。このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築されたんです。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、現代に至り伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになったんです。(伏見城 Wikipediaより)
ここから公園を抜け、その桃山地区を散策してみます。
この辺りは高台なので、歩きながら桃山町を望みます。
こんな所に陶芸のお店が。うつわの店「紅雪窯」
伏見のぶーにゃんさんのこちらのブログで店内がご紹介されていました。素敵なお店ですね。
ここから「桃山南口駅」方面に歩いていきますよ!
さらに伏見城の外堀を皆様にご紹介します。お次は「【散歩】たみ散歩「京都・近鉄丹波橋」Vol.39 歴史的な建造物が多く見られる伏見を散策!⑦」をお届けしますのでお楽しみに!
written by たみと@いつでもどこでも働ける、リモートワーカーという生き方