野球と世界平和 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “他の動物が自然環境に順応しながら集団生活を営んだのに対し、ヒトは自然を利用して、意識的に集団を作ったにとどまらず、意欲的にかつ計画的に集合・会合の機会を歴史的に作ってきたわけだ。と同時に、歴史のかなで集団効果の確認や認識、機会が、人びとの無意図的な教育の役割を演じてきた。くわえて、集団の力を誇示したり、賛美したりするために、その場所をも創ってきたのである。

 集るという行為が、そのまま集団には直接結びつくとはかぎらないにつけても、集団は集るという行為の前提が必要となろう。集ることは出会いを作ることであり、物々交換の場、展示、意見の交流にもなり、婚姻の機会にもなろう。他人にあうことによって自分自身を認識し、意識の攪拌にも役立った。

 わけても人の結婚は、他人との交流から生まれなければならぬという宿命論に支配されているゆえ、人は本能的にも集らなければならない動物であったといえる。で、はじめは叫び声や身振りによる連絡が言語の発達によって、より集団の大きな絆になったであろう。そしてそのなかから生まれた集団は相互の働きかけにより、共通理解、連帯感、意志の疎通がなされ、そして組織が生まれたのではあるまいか。

 だからこそ、集団力を誇示する意味からも、こんにち的なデモンストレーションが行なわれたにちがいなく、各種スポーツ大会の入場行進にみられるようなパレードもあったのではなかろうか。ということは、集まる行為の大部分、その象徴は、とりも直さず「身体活動」であったといえる。「祭」だけにとどまらず、集団の進展がいかに文化的で高度化されようとも、その中心的役割を演じたのは「身体活動」であった。”

 

 “スポーツ活動は、本質的には狩猟行為の形態を変化させたものである。

 生物学的にみれば、現代のサッカー選手は、姿を変えた狩猟者の群れとみなすことができよう。殺傷力のある武器は無害なボールとなり、獲物はゴールに転じた。そして狙いが正確で、得点できたときには、獲物を殺した狩猟者が味わう勝利の喜びを得るのである(ディスモンド・モリス)。

 モリスによると、一連の狩猟行動のパターンはすべてのスポーツのなかに変形されてあるという。そして行動はなにかの対象を狙うという衝動によって支配されている。狙った獲物の屠殺は『競技に勝利する』ことに置きかえられる。その例にもれるのは、屠殺が象徴化されないスペインの闘牛にとどまる。

 追跡のスリルはトラック競技、水泳競技、自転車競技、自動車レースに、物を投げたりジャンプしたりするのは陸上競技のフィールド種目や、バレーボール、バスケットボールなどのボールゲームにみられる。獲物たる動物を実際に殺す必要はなく、象徴化された屠殺だけで十分なのである。”

 

 “それでは、狩猟生活に不可欠だった『神』の存在はどこへ消えて行ってしまったのであろうか。『神』は象徴化されずに無視される結果になったのであろうか。

 狩猟がスポーツのなかに変形したと同時に、『ルール』が誕生せねばならなかったことに気づく必要があろう。わたしは、「宗教」が『ルール』として明確にされたものであると思考するにとどまらず、『神』は、その競技を司る『レフェリー』に転じたと考える。ルールおよび競技選手を管理し、なにびとにも干渉されずに、ひたすら中立の立場から競技運営を司る象徴化された『神』、それが『レフェリー』ではなかろうか。

 そのように決めつけないことには、モリス自身の見解に破綻が生じるのである。なぜなら近代スポーツのある種目においては、狩猟行動のパターンをスポーツに変形させながらも、それを源流にもちつつも、異質な発想と他の付加価値をもって生まれ得たものもあるからである。先述した表現力的な技量を競うスポーツも一例であろうが、こんにちのわが国にあって、もっともメジャースポーツと語られる「野球」もそのひとつであると思われる。

 しかし、ながい狩猟生活の歴史から、われわれの祖先が学びとった教訓は、すべからくすべての近代スポーツのなかに生きていて、皮肉なことに「野球」がいちばん顕著であるのがおもしろい。

 たとえば、適材・適所を謳う狩猟のための手順、協力、任務分担。ついでチーム間の意志の疎通、協力、犠牲的精神、抜けがけの功名的な行為の禁止やタブー(呪術的なものが多い)。そして事前の打ち合わせや練習、作戦、狩猟器具・器材の手入れ、準備や反省。さいごに獲得した技術の継承および伝達。

 以上のことがらは「野球」のみならず、われわれの生活に密着し、狩猟者自身の生命に関することがらだっただけに真剣に行なわれてきたものであろう。これらのことは、形を変化させて近代スポーツのなかに深く息づいているのは他言をまたない。”

 

 “ところで、狩猟時代には絶対に必要であった動物への闘争心、追跡、逃避、屠殺などの欲求は、これら近代スポーツという代理活動によってそのまま継承されるのであろうか。それとも退化するのであろうか。

 スタンリイ・ホールやL・H・ガリックといった学者たちは、「子供の遊戯は系統発生にともなって個体発生し、それらの反復で先史時代の生活・生態を遊戯のなかで反復する。これによって人類に不用になった本能を調和的に発動させ、それによってその本能を弱める働きをする」という本能退減説を述べているのである。近代スポーツといえども、それは遊戯が組織化されたものであり、遊戯の延長上にそのスポーツを位置づけることができる。遊戯に厳粛性がくわわればスポーツになるとすれば、狩猟時代に必要であった様ざまな欲求は、近代スポーツのなかではどのように変遷し処理されているのだろうか。

 「ルール」や「レフェリー」の存在、変遷については先述したが、遊戯にくわえられた厳粛性とはなんであるのだろうか。やはりそれは「ルール」とレフェリー」の存在であり、それにともなって生じる『フェアプレイの精神』つまり『スポーツマン・シップ』ではなかろうか。遊戯が儀式化したことによって変貌したもの自体が近代スポーツとみなすことができるのであり、換言すれば、乱暴ないい方をすれば、「近代スポーツ」そのものが「宗教」といえないこともないのである。

 A・ガットマンは、それらの考えに対して、『儀式から記録まで――近代スポーツの性格』のなかで、「近代以前のスポーツは、身体的な非実用的コンテストとしてのスポーツの概念からおよそ遠くかけ離れたものであって、宗教的儀式、神聖な祭事の一環として、スポーツそれ自体以外の目的のために行なわれた」と記述している。しかし、『近代スポーツの一部は、それら自体の目的を求め、一部は同様に世俗的である他の目的を求める運動である』という。

 世俗主義は、世俗的人間の社会生活が「神」や「宗教」の支配から脱し得るかどうかということであろうから、近代スポーツの一部は神聖さに欠けるということになろう。このガットマンの思考の背景には、乱れたアマチュアリズムとプロスポーツの批判があって、知的アメリカ人独特の意見を感じることができる。”

 

 “スポーツを神聖な「宗教」と理解せず、ひたすら勝利することだけを考えたスポーツマンたちが、その犠牲者となってゆき、人びとは記録だけに眼を配るようになった。スポーツをプレイする過程を忘却し、結果だけの追求によって己の心もからだもボロボロにしたあげく、「神」の考えとは裏腹に、そのスポーツに埋没してしまうようになったわけである。”

 

  (松浪健四郎「古代宗教とスポーツ文化」(ベースボールマガジン社)より)

 

*サッカーやバレーボールなどでもチームプレーが重視されていますが、野球には投石や棍棒の使用、獲物を追いかけて捕まえるなどの狩猟時代の本能を満足させてくれるより多くの動作があり、さらに送りバントや犠牲フライなどの自己犠牲の行為や、ベース上のランナーなど、たとえ敵側であってもある条件下では保護され安全が約束されていることなど、他のスポーツにはみられない数々の特色があります。野球は、人間の原始的な本能を満足させるだけでなく、社会の一員として正しく生きることをも教えてくれる、まさに理想的なスポーツと言えるかもしれません。

 

*私も、昨日のWBC決勝戦での日本の勝利に感動しましたが、対戦国であったアメリカやメキシコ、チェコなどでの報道が日本を讃えるものであったことも素晴らしいと思いました。やはり国と国との友好関係というものは互いに敬意を払い合う、「フェアプレイの精神」を重んずる国々としか築くことはできません。残念ながらそれが理解できない、一般的な常識が通じない国、民度の低い国というのも実際に存在しますが、たとえそのような国であっても、人間の本能に由来する野球のようなスポーツを通じて国民の意識を改善し、民度を高めることはできるかもしれません。しかし、もし国を代表する野球選手であるにもかかわらず、試合中に相手チームへの敬意を欠いた行為を組織的に行なうとしたら、その国の教育システム、あるいは伝統的な価値観そのものに根本的に欠陥があると考えざるをえません。エドガー・ケイシーによれば、これから世界は二極化して、立て分けられることになるそうですので、今後の我が国の進路を判断する上でスポーツ界の動向に注意すること、つまりどこがフェアプレイの精神のある国か、どこが不正をはたらく国か、を見極めることも大切だと思います。

 

 

・戦前の大本教団でのお話

 

 “こうした奉仕生活の中でも、若いときの楽しい思い出の一時があった。教団の印刷所・天声社に奉仕に来ていた少年達を集めて、野球チームが結成され、私は経験を買われてコーチになった。

 古い役員の中には、野球を「タマ(霊)をもてあそぶ」ものとして嫌う人もいた。私も「中央公論」に「フリー・メーソンの『三S(スポーツ、セックス、スクリーン)政策』が日本を占領しようとしている」という記事が載ったこともあり、「野球などしてよいものだろうか」と考えた。しかし、聖師は、その様なことは迷信だといって問題にされなかった。それどころか、「天声社野球団へ」と題する応援歌までつくって下さった。”

 

     (徳重高嶺先生九十七歳記念出版「松のよはひ」大本信徒連合会)

 

 

 

 

 

 

 


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