体育について 〔野口晴哉〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “健康維持の方法というと、栄養物を多く食べるとか、新鮮な空気を吸うとか、寒暑風湿を避けるとか、環境のことや、食物や、衣服のことを考える人が多くおりますが、人間は動物でありますから、その体の運動によって健康を保つことを考えねばなりません。

 体の運動というと、体をいろいろ動かす体操を考えますが、動物が体を動かすのは、体の裡の要求を満たす為で、要求を持たないで、又は要求以外の方向に運動をすると疲れてしまうものです。寒い朝、凧をあげて遊んでいる子供にお使いを言いつけると、急に寒さを感じるのはその為です。他人のスキーを荷うと重いが、自分のは気にならないのもその為です。

 それ故、運動には要求の指導ということがなければ、運動によって丈夫な体をつくるということはできません。体操によって丈夫になる人の少ないのは、裡の要求を指導することを忘れて、形式や方法だけを強制しているからであります。体育として体操を指導する場合に一番大切なことは、個別指導法で、これが行われなければ体操は体育としては役立つことが少ない筈です。

 心を理解することのできる体育指導者の現われることがもっとも望ましいと言えましょう。

晴哉”

 

(「月刊全生」平成19年2月号 野口晴哉『体力づくりの諸問題』)

 

*明日は『スポーツの日』ですが、学校体育の現場では、体育が精神的なストレスとなっていたり、過度の練習で体を壊してしまう子供もおり、体育・スポーツとは本来どうあるべきものなのか、もっと本質的なところに目が向けられる必要があるように思います。野口晴哉(はるちか)先生は、強制することなく体の裡の要求を個別に誘導する「潜在意識教育の重要性」について繰り返し強調され、さらに体育は男女別にすべきことなども語られました。また、「病気になったら体育の授業を休むというのは本当の体育ではない、病気を治すためにやるというのがほんとうの体育だ」とも言われています。野口整体・操法だけでなく、他にも真向法や自彊術、肥田式強健術など、日本にはいくつものすばらしい「体育」があるのですが、どこの教室に行ってもほとんど老人ばかりで若い人がいないのが残念です。

 

*野口晴哉先生は稽古事の上達方法について、

「よくできたと思ったらすぐやめて間をおき、潜在意識に覚えさせること」

と言われています(ある指導員の方は、『寝ることで潜在意識にインプットされるのだ』と言われました)。ほとんどの人は「ヨシ、もう一回」とさらに稽古を続けて今度は失敗し、せっかくの成果を台無しにしてしまいます。また、これは野口祐介先生の言葉ですが、

 「稽古のケイという字は、考えるという意味である。古はいにしえ。従って古を稽えるということを稽古という。日本文化は型の文化である。型は形式のことではなく、創始者の思想が秘められているものとする。型の稽古は思想の探究である」

 繰り返し反復すれば身につくというのは嘘である。未熟を感じた時、考え方、とらえ方、自分の整体観の全てを変える好機とすべきである」

というのがあります(「月刊全生」令和2年2月号)。古来からの型稽古がいかに重要なものであるかがわかります。

 

 “……自叙伝を持ってきて、次にHさんがやって来た時に、父(野口晴哉)はこう言いました。「あなたが書いたこの自叙伝は世の中を悪くするからすぐ絶版にしなさい」と。すぐ絶版にしろと言われてムッとしたのでしょうけれども、「どうしてですか?」と訊いてこられた。まあ、自叙伝というのはたいてい苦労話が多いものですね。自分はこれだけ苦学して、苦労に苦労を重ねて来た、その辛い思いを耐え忍んでやってきた。そして、こうして成功したというような感じで書く。父はそれがよくないと言うのです。「あなたはこれだけ苦労苦学して、辛かったけれども成功して偉くなったと書いておられる。確かに人が見たら辛く苦しい生き方だったかもしれないけれども、あなた自身は楽しくて面白くてやってきたのではないですか」と。

 「辛くて嫌で苦しいことを我慢してやっていたのでは成功するわけがない。人が見たら大変辛いようでも、あなた自身はどこかでそれが面白く楽しくできたから成功したのでしょう。それを、苦しくて辛くてそれを乗り越えるから偉くなるのだと言うと、人に辛いことや苦しいことを平気で強いるようになる。そのことが世の中を悪くするのだ」

と答えました。”

 

(「月刊全生」平成26年1月号 野口祐介『体育のあり方 2』より)

 

*この晴哉先生の、「苦しくて辛くてそれを乗り越えるから偉くなるのだと言うと、人に辛いことや苦しいことを平気で強いるようになる。そのことが世の中を悪くするのだ」という指摘について、おそらく多くの方々が同じように考えておられるのではないかと思いますが、結局これが体罰やパワハラ、イジメなどに繋がっていくのかもしれません。

 

*体罰については、野口晴哉先生は、

「体罰とは他に指導方法を持たない無能な人間のすることだ」

と言われました。ルドルフ・シュタイナーのシュタイナー教育でも、またエドガー・ケイシーの教育に関するリーディングにおいても、体罰は有害無益なものとしてはっきりと否定されています。

 

・エドガー・ケイシーの霊的教育論 
 

 “ところで教育に関するリーディングはあまり多くはない。ここでは色々なリーディングを集めてみた。はじめにふれた徳育的な内容になっている。徳育といっても決していわゆる修身的なものではない。


 「彼らの目的を、分析しなさい。『してはならない』というのではなく、『しなさい』と言いなさい。」 

 「子供の話を常に聞き、彼女にやめて黙るように言わずに最後まで聞きなさい。」 

 「知られるように体罰は悪い結果に終わることが多い。有害無益なことが多い。」 
 

 「力ずくでもなく、支配でもなく、愛によって。甘えによってではなく、霊的な理解のもとにつちかった強さによって。憎悪や恐れを生む叱責によるよりも、一見で導くほうがより優れている。愛の感化力を持ちなさい。」 
 

以上は、教育にさいして、強制することを禁じている。

 

 「それに生きよ。それを語れ。それになれ。これらが、かような信条・真理が他の人々の意識の中に育つ方法である」


 「あなた自身がしないことを子供にするように言ってはならない。あなた自身がすることのないミサや教会に子供が行くように言ってはならない。あなたが他の方法でやるようなことについて、子供にこれをせよあれをせよと言ってはならない。」 
 

 「あなたは自分自身で行っていないことを教えてはならない。」

 

口で言うより身で表現せよ。自分のしないことをやれと言うなということ。

 

 「教えよ――教示によって。然り。けれどもそれらのほとんどは例示によってなされる。」

 

 「教示と例示によって教えよ。さらに多くの啓発のための準備があるだろう。今のところすでに言ったように若い人々の心は霊的な人々よりも物質的な人々になるように教えられている。けれどもあなた自身の場合、一つのことを言って、今度はそれとは別の生き方をしないようにしなさい。」

 

 ケイシーは、人が霊的であるために随分沢山のリーディングを出している。しかし繰り返して出てくるのは、「親切、公正、忍耐、寛大……」などの徳育の実践で、これらを基礎としてのち、瞑想、祈り、夢の研究解釈、自己分析、場合によっては占星学などを併用して意識の拡大をするようにすすめている。それらには多くのリーディングがあるが、ここではそれらにふれず、別にとても具体的な方法が示されているリーディングを読んで見たい。

 睡眠学習ということがいわれるが、これは古代エジプトにすでにあったということだ。「ソ連圏の四次元科学」(たま出版)にも似たような方法が外国語学習に使用されている例が出ている。これらは意識から意識へとふつうの形ではなく、意識から無意識へという形をとっていることが特長だ。

 以下のリーディングは十三歳の男の子にとられたものだ。

 

 「そこで、この身体が眠りゆくとき、両親共に一人一人でなく …暗示をこの身体に与える。その暗示は潜在意識を統制するため、祈りと瞑想中に感覚組織の諸器官に対する暗示からおこる動きを統制するための心と心の統一された働きのためである。これはまたその両親が祈りに生き、暗示が一致してなされることを必要とする。これら(祈りの)言葉は変えられてもよいが、以下の思想は含まれているべきである。

 

 『父なる神よ!あなたの慈悲、あなたの愛において、今私共とともにいて下さい。私共は、このあなたの子供の心と身体がこの時あなたによってよりよき事件の経路となるよう導こうとしているのですから。』

 そして子供に対する暗示。(彼の名を呼んで)

 『あなたの内なる自己、あなたの潜在意識、あなたの超意識は父なる神の意識に反応するだろう。そしてあなたは地上における主の奉仕のためのよりよき経路となることができよう。』

 

 これらの暗示はもちろん時々変更しても良いが続けて毎日与えられるべきである。この奉仕のために毎晩少なくとも一時間さきなさい。このことは両親とこの実態が身体的、精神的、霊的な愛の発露となるためのいろいろな働きを招来するだろう。」

 

 『転生の秘密』にはこれを応用して長年のカルマからきている夜尿症が治った話が出ている。尚ここで出てくる超意識とはリーディングによれば「魂の心」に相当するもので、我々が無意識と呼ぶ領域が完全に意識化されたときそれは目ざめるといわれる。”

 

 (「たま 復刊第一号」 宮崎龍美『ケイシーリーディングによる霊的教育論』より)

 

*「我々が無意識と呼ぶ領域が完全に意識化されたときに『超意識』が目覚める」のであれば、野口整体の「活元運動」はまさに無意識が動作に現われたものです。そして「霊界物語」もまた、集合的無意識から汲み上げられたものが数多く材料となっていますし、さらに「笑い」と「救い」が込められています。拝読することで無意識の領域に存在するものを意識化し、浄化・解放することができるはずです。

 

・社会主義的な教育の害毒  〔ルドルフ・シュタイナー〕

 

 “いやしくも教育者ないしは授業者たるものは、授業を普通一般の人間関係に合わせて作っていくだけでは十分ではないということを、認識することが肝要なのであります。教師はこの内部に住む人間を把握することから出発して、そこから授業を形成しなければならないのです。

 授業を普通一般の人間関係に合わせるというこの誤謬を犯しかねないのが、まさに世に広まっている社会主義なのであります。もし普通一般のマルクス主義的社会主義者達の理想に従って未来の学校が組織されるとどうなるものかを、考えてみて下さい。ロシヤにおきましては、すでにそうなっております。ですから、その地におけるルナチャルスキーの学校改革は恐るべきものであります。

これはあらゆる文化の死であります!

 そして、ボルシェヴィズムからは他にもすでに多くの恐ろしいことが生じてきているにしましても、

その最も恐るべきものとなるのは、ボルシェヴィズム的教育方法でありましょう。なぜかと申しますと、それは古い時代から伝えられて来た文化的なものの一切を根絶してしまうであろうからです。

最初の世代のうちに直ちにそうなるということはありますまいが、しかし幾世代かのうちには、それだけ一そう確実にこれを成し遂げることができるでしょう。そしてそのために間もなく、あらゆる文化は地球上から消滅してしまうでしょう。これを見通すことのできる人が今いなければならないのです。この部屋におられる皆さんもきっと聴いたことがおありでしょう。ボルシェヴィズムへの讃歌を歌い上げ、しかもそれによって悪魔的なものが社会主義の中へ呼び込まれるのだということには全く気づいていない人達のする話を・・・。

 このことは特に注意しなければならないのです。「社会的な方向に向かっての進歩をするには、それだけ一そう深い教育の側からの人間把握が必要である」ということを知っている人間が、どうしてもいなければならないのです。ですから人々は次のことを知らねばならないのです。「まさに未来の教育者ないしは授業者こそが、人間本性の最も奥深くにあるものを捉えていなければならない。そして、この人間本性の最も奥深くにあるものと共に生きなければならない。大人同志の間になり立っているような普通一般の人間関係を、決して授業の中に適用してはならない」ということを。マルキシスト達は何を望んでいるのでしょうか?彼等は学校を社会主義的に組織しようとしています。校長職を廃止し、それに代わるものは何も置こうとしません。そして、できるだけ子供達を子供達自身の自己教育にゆだねようとしております。そこからは恐ろしいことが生じて来るに違いありません!

 私達はある時、某田園学舎を訪問し、そこで行われている授業の中で最も品位の高い、すなわち宗教の授業を見学しようと思いました。私達は教室の中へ入りました。そこには窓べりに一人の腕白坊主が横になっていて、両脚を窓から外へぶらりと垂らしておりました。もう一人は、どこかその辺に腹ばいになって、首をもたげておりました。どの子供もこれと同じような格好をして、部屋の中のあちこちに散らばっていたのです。そこへ宗教の教師と称する者が入って来て、特別に何の導入も与えることなく、いきなりゴッドフリート・ケラーの短編小説を読み出しました。そうすると生徒達は、教師の朗読にありとあらゆる野卑なことをして伴奏をつけるのです。そして教師が朗読してしまうと、宗教の時間は終わりになって、皆は野外へ出て行ってしまいました。以上のことを見学致しました時、私にはこの田園学舎の隣に大きな牛舎が立っている姿が思い浮かびました――そこから何歩もへだたっていないところで、この学校の生徒達は生活しているわけであります。――もちろんこういったことも、ひどく悪く言うべきではありません。沢山の善意がその根底にあるのです。しかしこれらは、「未来の文化のために何がなされねばならないか」についての完全な誤認なのであります。

 いわゆる社会主義的プログラムによって、一体今日何を彼等はしようとしているのでしょうか?彼等は子供達を、ちょうど大人同志がするように交際させようとしているのです。これは教育の場において行い得る最も誤った行為であります。私達は子供の心や肉体の力を発達させるにあたって、彼等は大人が他人と交わることを通して自分の力を磨いて行かねばならないのとは全く違う状態にあり、全く違う課題を持っているのだということを認識していなければなりません。すなわち意識下深くにあり心性の中に住んでいるものに向かって、教育と授業は入り込んで行くことが出来なければならないのです。これができなければ先へは進めないのです。それゆえに次のような問いが出されねばならないでしょう。「授業や教育の何が一体、人間の意志本性に働きかけるのだろうか?」と。この問題は一度真剣にとり組んでみる必要があるものです。”

 

      (R・シュタイナー「教育の基礎としての一般人間学」人智学出版社より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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