「望気」 気を望み見る | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “京都から午後四時過ぎの汽車で天恩郷に帰るとき、園部の南陽寺の和尚と乗り合わせた。和尚は、「聖師は綾部からまだ帰られんのかね。いつ帰られます?」と聞くので、「さあ早ければ明日は帰られる予定です」と答えた。「そう、いつ汽車の窓からお城をながめても、その気配がないので。今度はエライ綾部に長く行かれておられたものだなと思っていた」「和尚さん、汽車の窓から見られて、聖師さまがおられる、おられないかが判りますか」「ハイ判りますじゃ。霊気(レイキ)が高う立っておりますでな」。この和尚、ほんとうに判るのかいなあと思って疑っていた。保津川を経て南桑平野に汽車がはいると、「おお、聖師は帰っておられる。それじゃあちょっと、あんたのお供してお城に寄って行こう」と言い出した。一体、どこを見れば、その霊気とやらが判るのか、たしか明日でないと聖師さまは帰られぬことになっているがと思ったが、和尚がそう言うので同道して天恩郷に帰ってみた。すると聖師さまは二時間前の上り汽車で帰って来られたという。

 その夜、聖師さまに、和尚のことを話し、どこに霊気があるのでしょうと尋ねた。「わしがおるときは、天恩郷に、時には二十丈くらいの明るい水気のような柱が立っているはずじゃ。和尚はそれを見るので、わしがおるか、おらぬか汽車の窓からながめて用件のあるときは途中下車して会いに来る。わしがおらぬときは、天恩郷全体がまだ、ただ僅かに明るい程度じゃ。これから神殿などができ、神霊が充実して来るにしたがって霊気は増すようになる。」と言われた。それはちょうど、人に霊衣があるように、その霊場には霊場としての霊衣があるものらしい。高級の神霊がいますときは、その霊場は輝きを増すものだということであった。各地の神社仏閣の所在地を歩いてみても、霊的な感覚を持たない者でも、高い霊気のあるところは、何か崇高な明るい雰囲気が感じられ、そうでない霊域は、寂しい、あるいは気分の悪くなる霊域の感じがする。それはやはり現幽一致の相応の理にもとづくものであると言われた。一家庭のうちでも、それと同様に、明るい家庭もあり、いやな気分の家庭もある。だから訪問したときなどは、まずそれを感得することが大切だ。本来ならばその家の前に行ったとき、霊気を見れば判るのだが、今の人にはそれはできないなあ、と嘆息された。

 神様を祭っている家と、祭っていない家とは格段の差があるし、常に霊界物語か神書の拝読、また祝詞の声のする家は、霊気が違っていると教えられた。

 

(「おほもと」昭和45年6月号 大国以都雄『天恩郷建設の神秘(7)』より)

 

・古代中国の望気術

 

 “望気—―これほど神秘的な兵法はない。それは個人や集団、物や場所から雲のごとく立ち昇る気(霊気)を望み見て状況を判断し、吉凶を占う術である。望気は広い意味で天文気象の観測も含むが、兵法においては実際の戦術の一環として大いに用いられた。

 兵を率いて行軍するとき、兵士の中の天文・律暦・気象・地形の観測を得意とする〈陰陽家〉を必ず連れていた。『六韜』龍韜篇に「天文に通ずるもの三人、地形に通ずるもの三人を軍中に置く」とあるのがそれだ。『漢書』芸文志兵家略の「陰陽」に属する『太壱兵法』『風后』『地典』などは、そうした兵学専門の〈陰陽家〉著作である。彼らとともに、あるいはまた別に、望気術を専門とする巫卜の類が、行軍には加わっていた。

 外的を迎える際の祭祀について述べる『墨子』の迎敵祠篇(墨家末流の作であろう)には、望気を行う巫(シャーマン)の姿が見える。

 望気において、気には大将の気、少将の気、往気、来気、敗気といったものがある。これらを見分ければ、物事の吉凶成敗がわかる。占卜に長じた巫を任用して霊薬を備え、家を与えて養う。‥‥望気を行う巫は、その結果を守将にだけ知らせるようにする。”

 

 “霊気を望むなどという神秘的なこの術をさらに詳しく記したのは、唐代の歴占書『開元占経』であろう。本書は古代の緯書の中から、天文の占い、自然現象の前兆を集め、唐の開元六(七一八)年に作られた九執暦や当時の暦を載せたもの。瞿曇悉曇達(ぐどんしった)らが著した。その巻九十四が「雲気雑占」に充てられている。内容を少しばかり紹介してみよう。

―― 帝王(天子)の気とはどのようなものか。内側が赤く、外側が黄色く、四方に拡がり、鬱々怱々(盛んに立ち昇っているさま)として発するもので、天子がある土地に遊行すると、数里を隔てた遠くから望むことができる(これ以外にも「霧中の高楼」のようなものだとか、古来諸説がある)。

―― 賢人の気は、大きく五色をそなえて四方に広がっている霊気で、その下には賢人が隠れている。

―― 将軍の気は、龍虎のごとく殺気に満ちている。城の上方に火煙が立ち昇るような、あるいは山林竹木が繁っているような、赤味を帯びた白色の気がたちこめていたりする。”

 

(丸山敏秋「気 論語からニューサイエンスまで」(東京美術)より)

 

*ある風水の本に、あれこれ方位や地形を見ることも大切ですが、日本人にとって一番重要なのは神棚と仏壇です、と書いてあったのを読んだことがあります。風水に凝る人というのは、しょっちゅうカーテンや絨毯を違う色のものに変えたり、あれこれとグッズを揃えたり、中には庭に木炭を埋めたりといったこともしているそうですが、神仏をお祀りし、先祖供養を怠らず、そして常に家の中を掃除してきれいにしておれば、私はそれで充分だと思います。そもそも本場中国で風水とは、先祖の墓の場所を決めるためのもので、先祖の供養こそが最も重要と考えられていました。時々、雑誌で風水の記事を目にするのですが、先祖供養の重要性について書いてあるものはあまりなく、単なる家相のことを風水と言っているものばかりです。また、たとえ良い気であっても停滞してしまってはかえって害になるので、窓を開けて風通しを良くすることも大切です。

 

 

 

*何か事情があって、部屋に神棚とかを置けない方は、聖人の写真や聖画などを飾るだけでも違います。それらの高次の存在を通じて、祖霊の救済、向上を祈ることも出来ます。

 

 

*今日は旧暦7月12日で、出口王仁三郎聖師の生誕日であり、新宿区上落合の道院・紅卍字会 日本総院では、 霊績真人兼中和成化普渡天尊誕日祭典が行われました(「霊績真人」とは、出口聖師のことです)。道院では求修して修方となったものは、死後は祀霊室に祀られることになっているのですが、出口聖師は別格に扱われています。

 

*出口王仁三郎聖師は、扶乩(フーチ)によって、この世で唯一人、最高神である至聖先天老祖(太乙老人)から直接に内流を受けている人物と告げられていましたので、このような特別の扱いがされています。出口聖師のような最高位の境地に達していると告げられた人物は、他には誰も、中国本土にもいません。かつて弘法大師空海が長安で恵果阿闍梨に会われるや、他の全ての中国人の弟子を差し置いて、空海一人に真言密教の全てが伝授されたことが思い出されます。

 

 

 


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