キリストの昇天 〔カタリーナ・エンメリック〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

*今日5月13日は、カトリックでは「ファティマの聖母の御出現記念日」ですが、同時にイースターから40日目となり、「主の昇天」の日でもあります(日本の教会では16日の日曜日が「主の昇天の祝日」)。キリスト教をよくご存じない方の中には、イエスは十字架につけられて処刑されて、それですべてが終わったかのように思っておられる方もいらっしゃるようですが、イエスは三日後に復活され、弟子たちの前に姿を現し、最後はオリーブ山から天に昇って行かれたことが、聖書には記されています。

 

・福者アンナ・カタリーナ・エンメリックの幻視

 

 “驚くべきご昇天の前夜、私はイエズスが聖母および使徒たちとともに、晩餐の家の奥の広間にいられるのを見た。弟子や婦人たちは側室で祈っていた。部屋の中央には灯の入ったランプの下に晩餐の卓が置いてあった。使徒たちは式服を着ていた。聖母はイエズスに向かいあっておられた。聖木曜日の時のように救主はパンとぶどう酒を変化された。次いで主が聖なる秘跡をお与えになった時、私はそれが輝けるもののごとく使徒の口に入って行くのを見た。ぶどう酒の変化の際には、主のみ言葉が赤い光線のようになって杯の中に注ぐのを見た。――

 この最後の日には、マグダレナ、マルタ、マリア・クレオファもまた聖体を拝領した。

 かれらが家を出る前に、主は聖母をかれら一同の母、仲介者、弁護者としてお示しになった。

 聖母はご自分の前に、うやうやしく身をかがめて立ったペトロおよび他のすべての者たちの上にそのおん手をひろげて祝福された。

 日が白み初めた頃イエズスは、使徒たちとともに晩餐の家を出られた。聖母はイエズスのすぐ後ろに歩まれ、弟子たちの群は少し離れて従った。

 一同はエルサレムの町を通ったが、あたりはすべてまだもの静かであった。

 主のお話やその行動はますます真面目に、いよいよ早くなって行った。昨夜の主は私には大変思い遣りのあるように思われた。私は一同が今歩いている道は枝の主日の道であることがわかった。そして私は主が彼らに教えと戒めとによって、すべてをもう一度本当に生々とさせるために、皆とともにご受難のあらゆる道を歩かれるのだと感じた。主のご苦難のある事件が起こった場所毎に、主はしばらくの間立ち止まり、かれらに教え、その場所の意味を説明された。

 カルワリオに通ずる門の前で、一同は道からそれて、木の下に腰を下ろした。イエズスはかれらに向かって坐られ、一同を慰め、また教えられた。そのうちに夜は明け始め、かれらの心は少し軽やかになった。主は多分自分たちの所に留まられるかもしれないと考えたからである。

 信者の新しい一群が来た。イエズスはその友らとともに再び道に出られたが、カルワリオまでは行かずに街を回って橄欖山の方に曲がって行かれた。そして主はまたその群衆とともに、美しい長い草の生えた、大変気持ちのよい場所でお止りになった。驚いたことにはこの草が少しも踏みにじられなかった。人々の群はここでは今や非常に多くなっていたので、私にはそれを数えることができなかった。

 イエズスはここで大変長い間お語りになった。人々は今や主が一切を終わり、別れのためにお立ちになったのを見た。一同はこのことを確かに認めてはいたが、そのお別れはそうすぐ来るとは考えていなかった。かれらはここにたっぷり一時間以上はいた。エルサレムではその間にすべてのものが活動を始めていた。人々は橄欖山上の大群衆に驚いた。街からも大群衆が押し寄せて来た。狭い道には人々がひしめいていた。ただイエズスとその友の周りに少しばかりの空間を残すだけであった。

 次いで主はゲッセマネの方にお歩きになった。そして橄欖の園の方から山に登って行かれた。主が捕らえられた道はお歩きにならなかった。人々の群は一大行列のようにあらゆる道から続いて行った。垣や柵をこわしてしまった人も何人かいた。イエズスはますます輝き、いよいよ早くなって行かれた。弟子たちは主の後を急いだが、主に歩調を合わせることはできなかった。主が山の頂上に到着されると、あたかも白日のようにお輝きになった。すると天から虹色に輝く明るい輪が主の方に降って来た。他の者たちは眩しそうに大きな輪をつくって主の周りに立っていた。イエズスご自身は主をとりまいていた光線よりもさらに明らかに輝いていた。

 主は左のおん手を胸におき、右のおん手を挙げつつ全世界を祝福された。群衆は身じろぎもせずに静かに立ち尽くしていた。すると天から下って来た光は主ご自身から発する光と合流した。それはあたかも一つの太陽が、他の太陽の中に沈み、またイエズスのおん姿がこの天来の光の中にとけこんでしまったかのようであった。私はそのおん頭が見分けられなくなっても、私は八方から無数の霊魂がこの天来の光の中に入って行き、主とともに天に昇ったのを見た。私は救主が次第に高く飛び去りつつ小さくなって行かれたということはできない。むしろ主は光雲の中に消え失せられたのである。この雲から光の露が一同の上に降りた。かれらはこの光に得堪えず、驚きと恐れにとらわれてしまった。イエズスのもっとも身近に立っていた使徒と弟子たちは目も眩み、地面を見、多くの者は地上に打ち伏した。聖母はかれらのすぐ後ろに立たれ、静かに前を見つめていられた。

 しばらくたって光が少しうすれると、全群衆は大いなる静けさと深い感動の裡に見上げたが、そこにはなお光の残映があった。私はこの光の裡に始めは小さい二つの姿がだんだんと降りて来たのを見た。ついにそれは大きな姿となり、長い衣を着て杖を手に持って立った。それは預言者のように見えた。かれらが群衆に語るやその声はラッパのように高らかに響いた。私にはそれはエルサレムでも聞こえるだろうと思えた。かれらは極めて静かに立って言った。

 「ガリレアの人々よ、なぜここに立って天を見つめているのですか。あなたがたの中から天に召されたこのイエズスは、あなたがたがかれの天に昇ったのを見たように、再び来られるでしょう。」

 この言葉の後にその姿は消えた。輝きはなおしばらくの間つづき、ついに消え去った。

 弟子たちは呆然としていた。かれらは何が起こったかを知った。主はかれらから天のおん父の許にお帰りになったのである。多くの者たちは心痛と悲嘆から、失心したように地上に倒れてしまった。最後にかれらが気を取り戻すと、他の者がその周りにひしひしと集って来た。そして自然に幾つかの群になった。聖婦人たちもまた歩み寄って来た。こうしてなおかれらは長い間止まり、考え込み、語り合い、上を見上げていた。ついに弟子たちは晩餐の家に赴き、聖婦人たちも後に従った。ニ、三の者はなだめることのできぬ子供のように泣き、他の者は深い反省に沈んでいた。聖母とペトロおよびヨハネは極めて落ちつき、慰めに充たされていた。しかし私はニ、三の者がなお感動もせず、疑いを持ち、信ぜずにいるのを見た。―― 群衆がすっかり立ち去った頃はすでに昼をすぎていた。

 使徒と弟子たちは今や孤独となったことを知るや、初めは不安となり見捨てられてしまったように感じた。しかしイエズスのおん母の静かな存在は、かれらを慰めをもって充たし、また聖母がかれらの母であり代願者であるとの主のみ言葉はかれらに平和を与えた。

 エルサレムではユデア人の間に明らかな恐怖が支配していた。私は多くの者が家の中に集まり、門や閂(かんぬき)をしめているのを見た。かれらはすでに数日来特別な不安に襲われていたが、今はまったくそれにとらわれてしまったのである。

 その翌日からは、私は使徒たちがいつも一緒にいるのを見た。聖母はかれらとともに晩餐の家にいられた。イエズスの最後のお食事以来、私は祈りとパンを割く時には、主が占めていられたペトロの席の前に、マリアがいつもいられるのを見た。私は今やマリアは使徒の間に大いなる意味を持つに至ったという印象を受けた。”

 

(アンナ・カタリナ・エンメリック「キリストのご受難を幻に見て」(光明社)より)

 

*聖痕を受けたドイツの修道女アンナ・カタリーナ・エンメリック(18~19世紀)のことは、既に何度か書かせて頂いておりますが、ここで紹介させていただいた彼女の幻視では、イエスがマリアを「弁護者」とお示しになった、とあります。しかし、「弁護者(パラクレートス)」とはキリスト教では「聖霊」を意味する言葉で、三位一体のペルソナの一つであり、この箇所は、神学的に問題になっているのではないかと思います。

 

*キリストの昇天の後で、天から降って来たみ使いが、「ガリレアの人々よ、なぜここに立って天を見つめているのですか。あなたがたの中から天に召されたこのイエズスは、あなたがたがかれの天に昇ったのを見たように、再び来られるでしょう。」と言われたように、将来のキリストの再臨は、み使いを通じて神が約束されたことであって、いつの日か必ず実現すると信じられています。

(オリーブ山上の「昇天教会」(内部の岩に、キリストの足跡が残されています))

 

・キリストの再臨について (エドガー・ケイシー・リーディング)

 

“前にもふれたが、ケイシーのリーディングはイエス・キリストの再臨を率直に肯定している。「‥‥‥天使はどのように告げたか?『主が天に昇られるのを見たように、またいつか主が降りて来られるのを見るであろう』と告げたのではなかったか。これは単なる言葉なのであろうか?否!」(一一五八-九。参照使徒行伝1章10~11節)。そうすると、キリストは文字通り、天に昇られたように地に降りて来られることになる。しかし別のリーディングには「再臨は、主を探し、主を待ち望む者にのみ起こる」(三六一五-一。参照第一テサロニケ4章16~17節)という叙述もある。この言葉から判断すると、再臨は必ずしも大衆に知覚されるものではないようだ。しかし、だからといって、再臨の影響が漠然としたものになると考えるべきではない。   

 「‥‥‥主は天に昇られた時のように、ガリラヤにおいて主が占有していた肉体を伴って、地上に戻って来られる。さよう主が形造られた肉体、十字架にかけられし肉体、墓から蘇った肉体、海辺を歩かれ、シモンに現われ、ピリポに現われた肉体、そしてこの私ヨハネにすら現われた肉体。その肉体を伴って再臨されるのだ」(五七四九-四。参照コリント第一15章3~8節)。”

 

(リチャード・ヘンリー・ドラモント「エドガー・ケイシーのキリストの秘密」たま出版より)

*この最後のリーディングは通常のものとは異なり、ケイシー自身が超意識の状態で語ったのではなく、キリストの十二使徒の一人であった聖ヨハネが、ケイシーを通じて伝えて来たものとされています。

 

*キリスト再臨の信仰は、これまで数多くの狂信をも生み出してしまいましたが、ケイシー-のリーディングから考えると、あくまでも個人レベルでの体験となるようです。