生まれ変わりの錯覚 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・ルドルフ・シュタイナー

 

 “いずれかの段階で、わたしたちはこれまでの経験からは知りもしなかったヴィジョンを得たり、幻覚を見たりする可能性があります。ですが、そのようなものが高次の世界の一部なのだと信じることは大変な誤りです。このようなものは、わたしたちの内的生活での事柄が通常の意識に現われるのと同じやり方ではけっして現れません。頭痛がするとしたら、それは通常の意識の事象です。痛みは頭のなかにあるということをわたしたちは知っています。胃が痛めば、それを自分の内部に感じます。たとえ魂の隠れている深みに降りていこうとも、わたしたちはあくまでも自分自身の内にとどまります。にもかかわらず、わたしたちがそこで出会うものはあたかも外部のものであるように立ち現れるのです。

 驚くような例を一つ考えてみましょう。誰かがマグダラのマリアの生まれ変わりでありたがっているとします。すでにお話ししましたが、わたしが今迄に出会った自称マグダラのマリアは二十四人におよびます!さらに、その人物がこの願望をまだ自分自身で認めていない、と想定しましょう。つまるところ、わたしたちは自分の願望を意識で認める必要はないのです。それは不必要です。そこで、誰かが聖書でマグダラのマリアの物語を読んで、とても気に入ったとします。マグダラのマリアでありたいという欲望が無意識の心にただちに生じえます。通常の表面意識ではただこの人物が気に入ったというだけのことなのですが、当人には気づかれずに、マグダラのマリアでありたいというつのる欲望が無意識の内部に生きつづけます。この人はふつうに生活をつづけ、何の邪魔も入らないかぎり通常の意識ではマグダラのマリアが好きだと思っています。ということは、この人物が知っているかぎりではたんにマグダラのマリアが好きなだけなのです。マグダラのマリアでありたいという切なる願いは無意識裡に生きつづけますが、当人はそんなことはつゆ知らず、それゆえそれに煩わされもしません。その人の生活は通常意識の内容によって導かれ、このはげしい欲望は意識に全然のぼってこないかもしれません。

 ところが、何らかのオカルト的な実技を応用した結果、この人が無意識に触れ、その内部に入るようになったとします。マグダラのマリアでありたいという欲望は、頭痛を意識するような方法では意識されないかもしれません。実際、このようにして意識されるなら、この人物は分別を働かせて、頭痛に対処するのと同じように、つまりそれを取り除く努力をもってこの欲望に対処するでしょう。ですが、この人物のまっとうでない無意識への潜入のせいで、そのようなことは起こらないのです。その代わりに、この欲望それ自体がその人の外部の事実として出現し、ヴィジョンとして現われます。自分がマグダラのマリアその人だというヴィジョンです!この人の眼前に、この事実が投射されるのです。しかも進化の現段階では、人間はみずからの自我をもってしてはその事実をコントロールできません。良質で、正確で、注意深い修行をしていれば、こんなことは起こりえません。その場合は自我は失われることもなく、どんな領域にも入っていくからです。ところが自我をともなわないままに何かが起きたりするとたちまち、そうしたヴィジョンが客観的事象として現われます。当の本人はそれを見て、自分がマグダラのマリアをめぐる出来事を回想しているのだと思い、本物だと信じてしまいます。そういうことは本当に起こりうるのです。

 神秘学に取り組むに際しては、ひとえに注意深い修行のみがわたしたちを錯誤に陥ることから護ってくれる、ということを知っていただくために、この危険の可能性を今日ここで強調しておきます。まず眼の前の世界全体を見て周囲のものや出来事を認識すべきであること、しかし自分自身に関係しているものやわたしたちの内部にあるものはたとえ世界像として現われてもそうと認めないこと、を忘れてはなりません。

 はじめのうちに見えるものをたんに自分自身の内的生活の投影とみなすことでうまくいく、ということを知っておかなければなりません。そうすればこの道を進む際に錯誤からうまく護られるのです。概してすべてのものを自分自身から発している現象とみなしてください。これが最良のことです。その現象の大半がわたしたちの願望、虚栄心、野心から、つまるところわたしたちのエゴイズムと結びついた特性から立ち現れるのです。”(P94~P97)

 

 “魂の隠れた深みへの没入は幻視者ならだれでも経験しなければならないのですが、そのときはまず基本的に自分自身に分け入るのです。そして、自分自身を知るには、つぎのような移行を実際にしなければなりません。それは、ルシファーとアーリマンがつねにわたしたちに与えてくれると約束している王国のある世界を眺めることからはじまります。これはわたしたち自身の内面が眼の前に置かれ、悪霊がこれこそが客観的世界だという、ということです。それはキリストでさえも避けえなかった誘惑です。キリスト自身の内面の幻影が呈示されたわけですが、キリストは自身に内在する力によってはじめから、これは実在の世界ではなく内なる世界だ、と認識したのです。”(P104~P105)

 

(ルドルフ・シュタイナー「魂の隠れた深み」(河出書房新社)より)

 

*私は過去に、自分は前世で、ムーやレムリア、あるいは古代エジプトに住んでいた、そこで巫女をしていたとなどと主張する人に何人か会ったことがあります。事実かどうか確認のしようがなく、肯定も否定もしませんでしたが、自分たちの信じる「前世」に、現在のその人が振りまわされているようであったのは共通していました。以前、「〇〇の不思議クリニック」とかいう前世療法を扱った漫画を読みましたが、第一話は、相談者の前世が、確か11世紀の北アメリカでティピー(バッファローの皮で作った円錐形のテント)に暮らすネイティブアメリカンのホピ族の酋長の男で、北方から馬に乗ってやってきた他の部族の男たちに脅迫され、自分たちの命を助けてもらう代わりに妻を差し出し、そのまま連れ去られてしまい、以後の人生が最愛の妻を失って寂しく悲しみに満ちたものだったため、それが今世に影響している、という内容でした。キャンプファイヤーのように火を中心に円陣となって行われる儀式の描写もありました。しかし、コロンブス以前にアメリカ大陸に馬はおらず、ホピ族は農耕を行い木と土で作った家に住む定住インディアンであり(ティピーに住むのはスー族のようにバッファローを追って移動生活をする部族だけです)、また彼らの宗教的な儀式は通常はキバと呼ばれる地下室で行われるはずなのにその描写はなく、ホピの信仰対象であるカチーナ(精霊)にすらまったく触れられていませんでした。そして、これが一番重要なのですが、白人との接触以前のネイティブアメリカンは母系制社会で、徐々に父系制に移行していったのであり、そしてホピ族は現在もなお母系制社会が続いている部族であって、よって、そのような事件が実際にあったとすれば、新しくやって来た男が妻と共に暮らし(無理やりというのはあり得ません)、相談者の前世であったという元の夫がその部族から追放される、という話になったはずなのです。どう考えても、それはネイティブアメリカンやホピ族について何も知らない人が、例えば「ダンス・ウィズ・ウルブズ」なんかの映画を見て、乏しい知識で適当につくり上げただけの話でしかありませんでした。

 

*私は前世療法とかヒプノセラピーとかに自分から関わる気はありませんが、しかしヒプノを受けて悩みから救われたという方にお会いしたことがあり、よってそれらを否定する気はありません。しかし、あるヒプノセラピーの本で、「見えたヴィジョンが事実であるかということではなく、なぜそのようなヴィジョンが見えたのかが重要なのです」と書いてあるのを目にしましたが、まさにその通りであり、この点がもっと強調されるべきだと思います。

 

・エドガー・ケイシー

 

 “初期の教会が輪廻転生の思想を危険なものあるいは実際的価値のないものとして故意に削除したということが本当だとしたら、それは賢明な処置であったということをエドガーはますます強く感じるようになっていた。ほとんどの人はライフリーディングに対して例外なく誤った考えを持つのであった。

 たとえば過去世において金持ちで権力のある人物でした、と言われると、男性は自分の現在の凡庸さに満足し、そして自分のそういった過去を今回も受け継いでいるんだと考えてしまうのであった。一方、かつてグラマーで非常に魅力的でした、と言われると、女性は独りよがりの安堵をし、そして現在の太った体と魅力の無さをないがしろにする傾向があった。

 そのような記録は魂が退化している証拠であるのに、エドガーはそのことを人々に納得させるのははなはだ難しいことがわかった。ライフリーディングはバランスシートのようなものなのだ。かつて獲得した資産が失われるとしたら、それは何か警告すべき事態なのである。ほとんどの魂はどういう形にしろ過去生において、現在よりもより大きな徳を所有しているのであるが、この徳は意識的に良いことをしようとしたためではなく、無邪気であったために、悪くなる術(すべ)を知らなかっただけなのである。そして魂は自由意志を用いて成長しようとしない限り、退行していくことになるのである。だからこそ、一万年前とか一万五千年前の素晴らしい人生、知的な人生を威張ってみても仕方がないのである。そのような素晴らしい人生、知性が、今回の人生で自由意志により再び獲得されたときにのみ満足してよいのである。

 また人格を魂と一緒に永遠に続くものだと考える傾向もあった。「私はかつてこれこれの人物で、直前の人生では、イギリスにいました」という風にである。エドガーが「魂の一つ一つの人格は別個の経験であり、なるほど大きな視野に立って魂の計画として見た場合には共通のものも含まれてはいますが、それ以外のいかなる仕方においても、人格は魂の他の経験における人格とは関係がないのです」という意味のことを言って、人々の誤った考えを打破しようとしても思うようにできず、特に女性について難しいということが分かった。”

 

 “エドガーは自分の活動に魅せられ始めた人々の間に、ある危険な傾向のあることに気づいた。彼らは十人から二十人くらいのグループで来たが、その多くは、それがどれほどくだらない代物であっても、自分の感情のままに新しい心霊現象に飛びつくタイプの人間であるか、あるいは自分の見た夢や、虫の知らせ、直感的なひらめきといったものを何とか劇的に見せようと、そのチャンスを求めているような人間であった。彼らは機会があればそういう心霊現象に類するものを崇拝の対象とし、さもなくば物笑いの対象にしてしまう輩であった。”

 

(トマス・サグルー「川がある エドガー・ケイシー物語」(たま出版)より)

 

*エドガー・ケイシーは、「輪廻転生は事実であるが、万人に必要な知識ではない」と言っており、スウェーデンボルグは、「他の宗教の教義を学ぶのはよいが、それを自分の信じる宗教・信条に持ち込んではならない」と書き記しています。宗教にとって重要なのは魂の救済であって、霊的な事実、法則を伝えることは二義的なことにすぎません。初期キリスト教会の高位聖職者たちが輪廻転生の教義を削除したのは十分理解できることであり、彼らのしたことは事実を覆い隠す事だったかもしれませんが、それでもなお適切な行いであったと思います。日本人であれば前世を信じている人は多いと思いますが、転生の教義が霊的な成長にとってマイナスとなっているケースも多いようにも思われます。ですので、私は自分では輪廻転生を信じていますが、世界中の全ての人が信じるべきだとは思いませんし、カトリックやオーソドックスなどのキリスト教会がその教義を公式に認めるべきだとも思いません。ただ、ルドルフ・シュタイナーが創立に関わったキリスト者共同体では輪廻転生を認めており、また彼は、将来はキリスト教に輪廻とカルマの教義が浸透するようになり、かつてアジアに存在したマニ教が未来的なキリスト教であるとしてその復活を予言しています。

 

*なお、エドガー・ケイシーは、人間は種としてその段階にあるのであり、人間以下の動物に生まれ変わることはない、と言明しています。ただし、受肉することはありませんが、霊魂が動物の身体に入り込むことはあるそうです。