転がり落ちる岩石  | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “事をなすのに力こぶの入れどころによって、その効果に大変な相違が出来てくるものである。又、力こぶの入れどころを誤ってくると、全く骨折り損のくたびれもうけといふやうな結果にさへなるものだ。

 

 これに就いて何時も私が思ひ出すのは出口聖師がかつて現代の世相に対して語られた次の言葉である。

 

 『山より落つる岩石は下るにしたがって速度を加へ重量を増すものである。仮にこれを中途に止めんとする時は却て怪我過ちがあり、落下し終わるまではじつとして見て居るより仕方がない。其の間に吾人等はよろしくケーブルカーでも用意して落下し終わったらそれから山上へ容易に運び上げねばならぬ。併し神も人間が働かねば仕事は出来ぬ。種々用意は出来上がっても人材のないのが一番困る事である。人は不断に魂を磨いてやがて来るべき時期に備ふべきである』

 

 世界は誰が何といっても、行くところまでは行き、乱れるところまでは、一旦乱れるのであろう。事実今日の情勢はどうすることも出来ない。じつとして見てゐるより外に仕方がないのである。

 然るに、世間には岩石の落下を中途に止めようと努力してゐる人々があるが、恐らく労して大した効果はあるまい。大旱の時、ジョロで水を播く程の効果も無いやうだ。つまり力こぶの入れどころが違ってゐるのである。

 

 大本運動は岩石を中途に止めようとするのではない。岩石の落下することは、明治二十五年から警告してゐるのである。それで岩石の落下した時の用意をしてゐるので、落下したならば直ちにこれを山上へ運び上げようといふのである。

 大本運動は破壊よりは建設に力こぶを入れてゐるのである。(靖峯)”

 

(「神の國」昭和10年10月号 『天・地・人』より)

 

*転がり落ちる岩石を目の前にして為すべきことは、すぐに引き上げることができるよう、落下し終わる前に重機などを用意しておくこと、つまり、「やがて来るべき大患難の時代」にあらかじめ備えておくこと、となります。物理的に備えることも必要だとは思いますが、ファティマやガラバンダル、メジュゴリエなどでのカトリック圏における聖母マリアの御出現では、「ロザリオの祈り」の重要性が繰り返し強調され、道院・紅卍字会では扶乩(フーチ)により誦経や先天の坐をするようにとの指示が出ています。おそらく「立て直し」のための様々な準備、信心業の実践などが神界から求められているのだと思いますが、出口聖師は、「霊界物語」を拝読した者たちが御神業に奉仕する、「霊界物語」を読んでおれば、その者たちを神様がお使いになる、と言われました。どうか一人でも多くの方に霊界物語を読んで頂きたいと思います。

 

 

・神通力を授かる

 

 “子供でもケンカの時、軽蔑した声で「イー」とやる。わしは、言霊の活用ではないかと思っておった。そしたら聖師様は、「子供ちゅうものは、純真なもので、神さまは、よう出来ておるなあ、イーちゅうのはどういうことか知っとるか、大国」

 「知りまへん」

 「あのなあ、この指を〇〇〇〇にしてイの言霊で切ってみい、ほんとに斬れるぞ。まあ、めったに使っちゃいかんが、どうにもならない時に、一ぺん体験のために切ってみい」

 

 当時月宮殿の工事のとき、月宮殿をつぶすべく、霊があばれ、神がかりが多かった。夜は何組も組をつくって、警戒さしたんです。

 ところが、なんぼやっても、むこうの逃げるのが早いんです。シマッタと思って、イェーッとやったところ、パタッと倒れた。「ああ、おれも出来るわい」

 そうしたところが、死んじゃあいまいかと今度は心配になった。(笑)ただその後、その人の背中に数日間赤い印がスーと肩から腰についていましたね。聖師さまに言ったら、

 

 「もうやるなよ。しかし、霊界物語に書いてあることはお前、出来んように思っているけれど、みな出来るんじゃで。物語を充分読んでおったら、イザというときの力がそなわるのじゃ

 神様は、力をやろう、やろうとしておられるのに我々はそれを拒否しとる。うんと拝読せなならんなあと思いましたね。

 

 「それだけの力を霊界物語を読んでおる人には与えられる。読んでない人がなんぼいうても威力はでんぞ」と言われた。”    

   
      (「愛善苑」昭和四十六年八月号 大国以都雄『聖師の血と肉、霊界物語』)

 

 

・霊界物語を拝読した者には霊的な「しるし」が現われる

 

 “霊界物語は単なる人為の書物ではなく、真の神が出口聖師に聖霊をみたして述べられた、神伝直受の教典であります。

 霊界物語の神秘について先輩の故成瀬言彦先生から昭和四十五年頃に、次のように伺いました。

 先生が四国へ派遣されていた昭和初期の頃、大本の徳島分所で、五、六十人の信徒に、霊界物語拝読のすすめを内容とした講演をされた時に、話終わって壇を降りると、分所長が礼を述べに来て「徳島の信徒は、皆、熱心な方ばかりで、物語拝読も皆さんがなさっていると確信いたしております」と付け加えられました。

 先生は、そうですかと言って再び昇壇して、皆に、

 「今、分所長から、お聞きの通りのお言葉がありました。しかし、私の見るところ、皆さまの中で拝読なさっている方は三人しかいない。今から私がその三人を当てます」と言って指し示したそうです。

 そのあと言をついで「今示した三人以外に読んだことのある人は、遠慮なく手を挙げてください」というと、皆下を向いて、答える人はなかったそうです。

 先生はさらに、その三人が、それぞれ何巻まで読んだかを言い当て、皆を驚かせたそうです。

 「真の神に祈り、心を込めて物語を拝読すれば、一巻を読み終えると額から蛍火のような霊光が、十五、六巻では懐中電灯のように、月の光を強くしたような霊光が出ている。さらに三十五巻以上ともなれば、さながらヘッドライトの如く強烈な霊光が発しているもので、自分はその顔を見ただけで、何巻の拝読をしているかがわかる」と話しておられました。”

 

        (「人類愛善新聞」昭和63年1月号 松平隆基『万民救済の神書』)