念仏によるエゴの解体 (仏教と森田療法) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・心の病の治療  精神科医 宇佐晋一(三聖病院院長)

 

 “晋一先生は明快にこう語られる。

 「本来祈りというものは他人のためにすべきなのです」

 晋一先生に提出する日記によく「一日も早く良くなるように祈っています」と自分のための祈りごとを書く人が多い。これでは治りっこないというのが、晋一先生の強調される点だ。世間的な人情としては全治することを祈願することはごく当たり前のように思えるが、こと心に関してはこれが逆効果になるというわけだ。浄土真宗では〈南無阿弥陀仏〉というが、これは阿弥陀仏になんの現世利益の交換条件も出さずに、すべてを阿弥陀仏に任しきることである。ここでいう現世利益とは、全治を意味するといってよかろう。親鸞が語る「念仏は無義をもって義とす」とは、このことだろう。分かりやすくいえば、念仏は無目的なところに意味がある、ということだ。ある年の正月、修養生が打ち揃って近くの伏見稲荷大社に全治の祈願に詣でて、後で晋一先生にたしなめられたという。心が沈もうが、雑念が湧こうがどうなろうが、それに手出しをせずに阿弥陀仏に任しきることである。

 六十年の十一月下旬、東本願寺で行われている親鸞聖人の御遠講に顔を出した。廊下に張り出してある数点の標語の中に次のような金子大栄の言葉を見て思わず「はっ」とした。

 「念仏は自我崩壊の音である」

 実に浄土真宗の真髄を端的に表した言葉ではないか。感銘を受けてその前に立ち止まりノートを取り出してメモをとった。晋一先生は語る。

 「私がとか、此の自分にとってはとか、言葉(分別)を使って自身の心を安定させようとすればするほど〈自我が肥大化〉します。

 自分の今持っている心のすべてを阿弥陀仏に帰命させれば、金子のいうように自我という名の我執は、念仏とともに消えていくのである。”

 

(宇佐晋一・木下勇作「あるがままの世界 仏教と森田療法」(東方出版)より)

*ここで紹介させていただいた文章では、念仏について、森田療法という精神療法と絡めてその意義が語られています。出口王仁三郎聖師の宗教で称えられる「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」も、その大意は「神様にすべておまかせします」ということであり、同じことと考えて良いと思います。エドガー・ケイシーも「神の中に自分を見失え」と説いていますが、「生きているのはもはや私ではなく、神様が私の中で生きている」というのが、目指すべき境地のようです(単に自我が崩壊するのでは廃人でしかなく、内なる神性が現れて来なければなりません)。

 

*この本「あるがままの世界 仏教と森田療法」では、まず第一章で、宇佐晋一先生の経歴や森田療法、三聖病院での治療内容について詳しく書いてあるのですが、これを読むだけでも非常に興味深く、勉強になります。宇佐先生は精神科の医師であるだけでなく、仏道修行にも励まれ『見性』の体験がおありだそうです。病院では、治療の一環として「古事記」(あるいは経典)を起床時と就寝前に、内容がわかろうとわかるまいと、声に出して『ただ読む』ということも行われているということです。

 

・妙好人、三河のおその

 

 “このおそのが、あるとき田舎道をいつもの通り「南無阿弥陀仏」、南無阿弥陀仏」と言って歩いておった。すると一人の若い女が行き過ぎて、おそののその姿を見て大いに軽蔑して、「ああ、またおそのさんの空(から)念仏か」と申しました。するとおそのはそれを聞いてその女の方へ駈け出していきました。若い女は、空念仏かと悪口を言ったのですから、定めし怒って来たのだろうと思って、「そんなに怒らんでもいいが」というと、おそのは、「いやいや怒るのではない、実はあなたにお礼が言いたくてあとを追ったのだ。それはもしも私の言う念仏が充実した念仏であって、それが手柄となって救われるというのならば、私のような愚かなものは、何としても救われる値打はない。しかしあなたは空念仏ということをおっしゃった。自分の念仏ではなくて空念仏となってこそ、初めて救われるのだということをあなたが教えて下さったので、こんなありがたいことはない」。こう言って非常に厚く礼を述べたということです。これはやはり念仏の真意を、非常によくとらえた言葉だと思うのです。私が念仏するというのならば、もはや自力的な念仏なのでありまして、私がからっぽになっている念仏だと言えると思うのです。

 法然上人に、沢山の人々が念仏とは何だということを繰り返し聞いたという話ですが、いつも法然上人は簡単に「ただ申すばかり」と言われたと申します。ただ南無阿弥陀仏と言えばいいのだ、こう教えられているのであります。この「ただ」ということに千鈞の重みがあるわけでして、何か意味あって言う念仏であるならば、それは本当の念仏ではないのであります。”

 

             (「柳宗悦 妙好人論集」岩波書店より)

 

 

・真の一神教とは 〔スーフィーズム(イスラム神秘主義)〕

 

 “アブー・サイード(注:11世紀イランのスーフィー)は、悪とは何か、そして最大の悪とは何かと質問されたときに、次のように答えたと伝えられております。「悪とは汝が汝であることだ。そして最大の悪とは、汝が汝であることが悪であるのに、それを汝が知らないでいる状態のことだ」と。そしてまた、「汝が汝であることよりも大きな災いはこの世にはありえない」とも。汝が汝であること、これをペルシャ語(イラン語)で「トゥウィー・エ・トゥ」と申します。有名な表現です。「トゥウィー・エ・トゥ」、そのまま訳しますと、原文の語順を逆にして、トゥ=「汝」、エ=「の」、トゥウィー=「汝性」、「汝の汝性」ということ。つまり人間の我、自我の意識ということです。
 では、なぜ「汝の汝性(トゥウィー・エ・トゥ)」が悪であり、災いであり、罪ですらあるのか。この問いは、ご承知のように、仏教などでも非常に大きな働きをする意義重大な問いですが、それに対する答えは、仏教とイスラームではだいぶ違ってきます。元来イスラームは人格的一神教でありまして、スーフィーズムもイスラーム神秘主義である限りは、やはり人格的一神教ということをそのイスラーム性の最後の一線としてあくまで守りぬこうとするからであります。
 人格的一神教の神秘主義、スーフィーズムの、この問いに対する答えは、おおよそ次の通りです。私が我の意識をもつ限り、我と神が対立する、それが悪なのだ。私が神に第二人称で汝と呼びかけるにせよ、あるいは神を第三人称で彼と呼ぶにせよ、ともかく存在は二つの極に分裂し、意識もまた二つに割れてしまうからだ、と。実を申しますと、我と神との分裂、対立こそ共同体的宗教としてのイスラームはもとより、ふつう一般に宗教と呼ばれるものにおけるいちばんノーマルな状態でありまして、信者が神をはるか向こうに望み見ながらこれに祈りかけ、これを拝む、それが宗教なのですけれど、スーフィーズムに言わせれば、これでは神と信者が対立してしまう。つまり神のほかに、それに対立して何か別のものがあるということになってしまう。これでは二元論です。”

 “……人間に我の意識がある限り、人は我として、神に汝、と呼びかけなければならない。あるいは、神を彼と見なければならない。どこまでも人間的我と神的汝、または人間的我と神的彼の関係であって、神だけではない。神だけでなければ二元論です。一神教ではありません。真に実在するものは、ただ神だけ、全存在界ただ神一色でなければならない。それでこそ純粋な一元論であり、本当の一神教だというのです。
 この点について、アブー・サイードがこういいます。「もし汝が存在し、彼が存在するならば(つまり人間が存在し神が存在するならば)、二人が存在する、これでは二元論だ。だから何が何でも汝の汝性を払拭し去らなければならないのだ」と。こういう意味で、スーフィーはその修行道において、まず何をおいても自己否定、つまり自我意識の払拭に全力を尽くすのであります。”

 “……十五世紀イランのスーフィー詩人・哲学者、ジャーミーは散文で、「人間的自我の消滅とは、神の実在性の顕現が、人間の内部空間を占拠し尽くして、その人の内にもはや神以外の何ものの意識もまったく残さないことだ」といっております。これらの言葉によってわかりますように、スーフィーの体験的事実としての自我消滅、つまり無我の境地とは、意識が空虚になり‘うつろ’になってしまうことではなくて、むしろ逆に、神的実在から発してくる強烈な光で、意識全体がそっくり光と化し、光以外の何ものもなくなってしまうということなのであります。”

             (井筒俊彦「イスラーム文化」岩波書店より)