占いの神(スサノオは共時性の元型的イメージ) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “本章では、共時性の元型的な基盤について検討したい。元型的な基盤とは、神話上のモデルのことである。神話は人間の生に方向づけを与える。自我は、遠い昔はもちろんのこと、今現在に至っても、元型から生み出された何らかの神話に同一化して生きている。たとえ、そうと気づいていなくても、事実はそうである。

 同一化できる神話がないと、自我は脆弱で不安定である。しかし、活性化された元型の動き、つまり神話に乗っかれば、かなりの程度やっていけるのだ。たとえば、思春期には「永遠の少年(プエル・エテルヌス)」という元型が活性化される。蠟でくっつけた翼で太陽へと飛翔し墜落するイカロスの物語などを典型的活動パターンとする元型である。思春期の子どもは、この元型の神話に同一化することで、おとなになる直前の不安定な時期を乗りきることができる。

 私たちは、共時性に関して、そのようなモデルを知っておきたい。神話がこの古来変わることのない原理をいかに説明し、生にいかなる方向づけを与えてきたのか。そこが明確にならないと、どうにも心もとない。共時性にまつわる神を見出し、その神の物語が共時性とどう結びついているかを探ってみよう。

 前章では、共時性と「今ここ」の深い結びつきを論じた。そして、「今ここ」の生の代表として発達系をあげたのだが、発達系について論じるとき私はいつもある神のことを取り上げてきた。スサノヲである。それを参考にできないだろうか。スサノヲは「今ここ」を生きるあり方を非常に鮮やかに開示してくれる。まさにイントラ・フェストゥムである。しかも、じつは、この神には共時性とのつながりを示す神話が伴っている。

 その神話とは、スサノヲとアマテラスとの間でなされた「誓約(うけい)生み」にまつわるくだりである。「誓約(うけい)」は、「誓約(せいやく)」とは異なり、古代に盛んにおこなわれていた占いの方式を指す。ちなみに、占(うら)は「裏」に由来し、隠されている神意を現われた象によって明らかにする行為をいう。民俗学者、折口信夫は「誓約(うけい)」について以下のように説明している。

 

 或願ひの筋が叶ふか叶はぬか、若し、叶ふならば、願ひが叶ふと言ふ證(しるし)に、何某の物が、其の状態になるに違ひない、と信じてゐたのが、古代の人である。その信ずるに足る證據(しょうこ)を見ようとして、其の物を誓ひに立てるのがうけひである。(折口、1903)。

 

 なお、古代のわが国では象を「ほ」と呼んでいた。字をあてるのであれば象や秀となる。同じく折口によれば、神は言葉を発する前には「しじま」を守っており、あるとき「ほ」で神意を示す(折口、未発表)。それゆえ、何か注意を引くような事象が起きた場合、それを神の「ほ」と見なして、その意味するところを知ろうとした。つまり、そこに「裏」があり、隠された神意があるのである。

 「誓約」は日本書紀における表記であり、古事記では「宇氣比」となっている。そして、ここでは「誓約生み」と呼ばれる方法がとられたわけだが、他にもたとえば、神意が夢で伝えられることを請うて眠り、見た夢の内容からことを決定する「誓約寝」、やはり神意を確かめるために狩りをする「誓約狩り」などがある。スサノヲが提案した「誓約生み」では、現われた象によってスサノヲの心の正邪を判定することになっている。この場合の象は、スサノヲとアマテラスがそれぞれに生む子どもの性質である。

 一般に、誓約の手続きにおいては、神意がこう現われてほしいと強く望むとともに期待もしている。そして象によってあとの成り行きが大きく左右される。このことを考えると、誓約には占いの意義があるのにくわえて、一種の賭け事としての性格も備わっているように感じられる。運命を間に置いた神との遊びへの熱狂、つまりギャンブルが発達系と無縁でないことは前章でふれたとおりである。

 また、占いが共時性の原理と不即不離の関係にあることは第三章で詳しく述べておいた。そもそもユングがパウリとの共著(Junng,Pauli,1952)において共時性の概念を世に問うたとき、その論証のために、自身の執筆した全四章のうちの一章をまるごと割いて取り上げたトピックが占星術にまつわる調査だった。共時性を検討していくうえで、ユングがまっさきに話題にしたほど、占いは重要な位置を占めている。スサノヲという共時性の元型的イメージを考えていくにあたっては、占いの本質に注意を払う必要があろう。

 次節以下では、荒ぶる神、スサノヲにまつわる神話を、その足跡に沿ってたどっていく。しかし、神話というものは魔術的因果論でいっぱいである。そこからほんとうの意味で共時性にまつわる部分を抽出することは困難を極めるが、スサノヲが発達系の「今ここ」を象徴する神格であることを丁寧に確かめながら、私たちにいかなる元型的基盤を提供してくれるのかを検討してみたい。”

 

 (老松克博「共時性の深層 ユング心理学が開く霊性への扉」コスモス・ライブラリーより)

 

*この本では、他にもユングの共同研究者だったヴォルフガング・パウリの生涯とスサノオ神話との関連性など、様々な興味深い話が紹介されています。

 

*老松克博氏には、他にも「スサノオ神話でよむ日本人」(講談社)などの著書があり、その中の一部をリブログ先の「祟り神としてのスサノオ」で紹介させていただいたことがあります。ご自分でも合気道を練習しておられるらしく、霊的な体験をも色々となさっているようで、杖道のM先生を主人公とした「武術家、身、心、霊を行ず」などかなりスピリチュアルな内容の著作もあります。

 

*第二次大本事件以前の皇道大本では、毎年正月元旦に、言霊閣において、出口聖師によって神占のための神器「天津金木」と「天津菅曽」を運用する儀式が行われていました。この「天津金木」と「天津菅曽」は、古代に稗田阿礼が作成し、稗田野神社に伝えられ、それが皇道大本に献納されたのですが(聖師は自分は稗田阿礼の生まれ変わりだと言っておられます)、大本事件で警察に没収され、そのまま行方不明となってしまいました。