宗教教育について 〔ルドルフ・シュタイナー〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “一九一九年、シュタイナーはシュトゥットガルトに最初の自由ヴァルドルフ学校(シュタイナー学校)を創設した。自由ヴァルドルフ学校では、宗教の授業が選択科目としてある。カトリックの宗教家、プロテスタントの宗教家が授業を担当した。しかし、それらの授業を選択しない両親が予想外に多かった。そこで、自由ヴァルドルフ学校独自の、自由宗教の時間を設けることになった。

 自由宗教の授業では、まず小学一年生から四年まで、自然のいとなみのなかに生きる神的なものへの畏敬の感情を育成することに重点が置かれる。人間の心魂が、地上に生まれるまえには神々の世界に滞在しており、死後も身体から離れて生きるということが、童話的なかたちで教えられる。五年生から中学二年にかけては、輪廻とカルマについて教えられる。シュタイナーは、輪廻とカルマの教えを理解することが、現代文化を崩壊から救う鍵であると考えていた。小学生にも分かるようなかたちで、輪廻とカルマの認識が広まることが必要だ、と思っていた。この時期には、神々の位階についても教えられる。そして、中学三年生から高校三年生まで、宗教史が教えられる(カール・シュトックマイヤー『ヴァルドルフ学校の授業のためのルドルフ・シュタイナーの指示』参照)。

 日曜には学校で、宗教の時間の担当教諭が礼拝式を行う(『自由キリスト教的な宗教の授業の祝祭のための儀式テキスト』(シュタイナー全集二六九参照)。”(P14、15)

 

 “シュタイナー学校の自由宗教の日曜日の儀式は、小学生のときには、自然のなかに活動する神霊へと思考・感受を高めるもので、「君が探せば、神の霊は君とともにいるだろう」と教えられる。堅信礼のときには、人生の導師であり「心魂に光、存在の喜びを贈る者、存在の苦しみを慰める者」としてのキリストに注意が向けられる。それ以降、ゴルゴタにおけるキリストの供犠に思いを向け、「宇宙の根底で活動する」父なる神、「永遠の言葉として統治する」子なる神、「私たちの決意を照らす」霊なる神に祈り、内なるキリストを体験させようとする(シュタイナーは、「宗教の授業なしに儀式を行うよりも、儀式なしに宗教の授業を行うほうが正しい」と述べている)。

 シュタイナーは、〈 神 〉が世界を貫いていることは、身体の健全な感情によって分かる、と言う。だから、これを否定する者は、身体的に病気なのだという。また、自分の内部に〈 霊 〉を見出せない者は愚鈍だという。それに対して、キリストを受け入れるか拒むかは、その人の運命の問題であり、キリストを拒む人は不運なのだという(一九一八年一〇月十六日の講演)。〈 父 〉は宇宙の根源、天地の根拠であり、〈 子 〉は父の行為を成就する者だ、とシュタイナーは考えている、”(P28、29)

 

      (西川隆範「ゴルゴタの秘儀 シュタイナーのキリスト論」アルテより)

 

*エドガー・ケイシーも、子どもたちに「神」について教えるにはどうすればよいか、という問いに対して、自然の中で、自然を通じて教えるように、と答えています。

 

*ルドルフ・シュタイナーによれば、「〈 神 〉が世界を貫いていることは、身体の健全な感情によって分かる、これを否定する者は、身体的に病気なのだ」、「自分の内部に〈 霊 〉を見出せない者は愚鈍だ」そして「キリストを受け入れるか拒むかは、その人の運命の問題であり、キリストを拒む人は不運」なのだそうです。そして、出口聖師は、「神の分からぬ者には一本の花を見せてやれ」と言われ、また「『神さまを信じてやるから見せてくれよ』などと言う分からず屋は相手にするな」とも言われています。実際にそのようなことを言ってきた人があったようですが、結局、神を信じるか否かはその人の運命であり、信仰に強制などあってはなりませんし、他人がどうこうできる問題でもありません。やはり、信じれない人は不運なのだと思います。ただし、神を信じてはいるが、特定の宗教団体には入りたくない、という方もかなりの人数がいらっしゃるはずであり、出口聖師が言われた、「みろくの世になれば宗教はなくなる」という言葉の意味をよく考えてみたいと思います。