アホになりたい | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “阿房(あほう)と謂えば、世人一般に、愚鈍とか、馬鹿とか、低能とか、痴呆とか、無智とか、凡て一人前の力量の足らぬ、人物の代名詞と決めて居る如(よ)うである。然るに、言霊の助け幸(さちはい)天照り生くる、日本國の有機的言霊は、現代人の想像し得ざる意義が、包含されてあるのである。

 アの言霊は、世界の中心にして、大物主であり、地球であり、大海洋であり、天之御中主であり、遠く達するの意あり、大本初頭にして、晝(ひる)なり、顕(あらはれ)出(いず)る言霊であり、全体成就。現在の活用である。

 ホの言霊は、上に顕はれ秀づるなり、日出るなり、太陽の光也、天心なり、照込なり、神の働き也、世の父也、穂なり、帆也、顔也、燈火也の活用である。

 次にアホの霊返(たまかへ)しはとなる。の言霊は、大氣也、大成也、親の位(くらひ)也、出入自在也、起り立登る也、父母の氣也、大地球を包裏する也、大空なり、廣くして尊貴也の活用となる。

 要するに、上帝と一致したる大精神にして、山野河野森羅萬象を心に治め、深遠玄妙の真理に到達し、一切の大本となり、初発(はじめ)となり頭目(かしら)となり、晝の如くに清明光輝して終に天下に顕はれ、為す事考ふる事、一として成就せずと云ふ事なく、一切に秀でて太陽の如く、光華明彩六合、照徹し神心にして、世界の父となり母となり、暗夜の燈火となり、船の帆となり、稲の穂となりて、天下を利生し、救助し教導し、普く世に盛名を輝かす大活動ある真人の徳を稱して、一言にアホと云ふのである。更に霊返しの活用に依れば、萬物を愛養し生活せしむる大氣と為り、親の位を保ちて、一切を大成し、大空となりて、出入自在の息⦅呼吸⦆を為し、神徳神慮廣大無邊にして、天津日の神の如く、至尊至貴の真人の活動と本能の発揮されたるを稱して、アホと謂ふのであります。

 教祖の神諭にも『大本は世界に無いアホの修行いたす結構な地の高天原(たかあまはら)であるから、アホに成らぬと三千世界の立替立直しの御用は、今の智慧や學では到底出来は致さぬぞよ。』と誌されて在るのも、前述の言霊解の意義を、体得せよとの事であります。世界の濁流に漂い来たった我々人間は、堂やらすると、小智淺才が腹の底から頭の中から胸の邊りから、ムクムクと頭を上げて来て、常に神業奉仕の妨害となるのは、実に遺憾の至りであります。

 世の諺にも、阿房くらい恐ろしいものの、強いものは無いと云ふことがある。天下國家の為に、不借身命の大活動を為さむと思へば、力一杯アホの修行を励まねば成らぬのでありますが、今日の世の中は、賢い人士斗りで、方外れの大阿房が現はれませぬ。併し乍ら、大正の御代は、天運循環の神律に依りて、何處かの山奥には、一人位ゐ隠れて居るかも知れませぬ。大本信者は、一日の速く霊魂(みたま)を研ひて、此の阿房の所在を探り、且つ其の阿房に習って、現今の不安混乱無動無明の天下を修理固成する事に勤めなければ、神國神民たるの天職を盡す事が出来ないのであります。”

 

        (「神霊界」大正9年11月号 出口王仁『アホになりたい』より)

 

 

・ウンベルト・エーコ 「薔薇の名前」より

 

 「人びとを愛する者の務めは、真理を笑わせ、真理が笑うよう仕向けることにある。なぜなら唯一の真理とは、わたしたちみずからが真理に対する不健全な情熱から解放される術を学ぶことであるからだ」

 

*江戸時代の備前岡山の神人、黒住教の黒住宗忠開祖も、ある観相家から「貴殿の相は、アホウの相でございます」と言われ、怒るどころかすこぶる喜びの色を浮かべ、「さては、多年阿呆となる修行をしておったが、願いかなっていよいよアホウとなることができたか。いや有難いことでござる」と、その喜び方は大変なものであった、という話があります(山田雅晴「太陽の神人 黒住宗忠」たま出版)。

 

*なお、出口聖師は、「アホとバカとは違うぞな」とも言っておられます。アホになってもバカになってはいけませぬ。