「時間」のコントロール 〔カタカムナ〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・「時間」のコントロール  〔楢崎皐月(カタカムナ)〕

 

 “〔トキ還元力〕 〈トキ〉〈時〉とは、我々後代人には、何としても、過去の方から未来の方へ、一直線に流れ去って行く「時計時間」の観念しか思い浮かばない。いろいろ言われているが、皆、理論としてであって、トキとは「どんどん過去へ遠ざかってゆくモノ」という事だけは、万人が、間違いなく持つ実感である。という事は、どういうことを意味しているのか?を考えてみると、「すべての物が、トキと共に消滅して、現象界からの反の方向(潜象界)へ還元してゆくことだ」と言えるだろう。

 カタカムナの直観物理(サトリ)では、トキとは、「アマ始原量から発生し統合された物質(トコロ)が、分解還元される」という思念を示す言葉である。(因みに、上古代語の〈トコロ〉とは、潜象界から現象界へ、微分の形で粒子化され、空間に所を占める、という思念を示す言葉であり、「トコロ」には「トキ」のように「どんどん過去に流れ去る」という感じは無い。)要するに、

 〈アマウツシ〉という事は、潜象界からアマ始原量が、電気・磁気・力等の微分素量となって現象界に移されてくることであり、それに対し、現象界に発現したあらゆる物質生命質が、やがて、「トキ」によってもとの潜象界に還元することを〈アマカエシ〉というのである。

 アマウツシとアマカエシとの大きな循環によって、万物流転、生者必滅、諸行無常の現象が展開されるという物理を、カタカムナの上古代人は、カタカムナのウタヒと、表象物(ヤタノカガミ、フトマニノツルギ、マカタマ)によって明示していたのである。

 したがって、物を生産してゆく建設方向(合成、発生、元素転換)の為には、アマカエシの技術(ミトロカエシ)が有効であり、それに対し破壊方向(分解、還元)のものには、アマカエシの技術(トキ還元エネルギー)が有効である。

 ところで、トキ還元エネルギーは何から得られるか?即ち、何が最も「トキ」に変わり易いか?と言えば、微分され易いもの、トキ(還元エネルギー)を沢山もっていて、トキをどんどん放出するもの……、そしてそれは極微の形式でなければならぬのだから、やはり、電気・磁気・力の素量が全部アマ始元量に還元するというカタカムナの直観物理から考えて、結局、トキを加速するエネルギーは、電子・正孔(サヌキ・アワ)の電気力の結合に求められよう。

 しかし現在、科学の扱えるのは「電子」のみで、まだ「正孔」を測定したり、造り出したりすることは出来ない。しかし、正孔(アワ)をもつ物として陽子があり、プロトンは生産できる。そして、陽子に対し電子を打ち込めば、電子のもつ素量が、トキの方向に行き、電子も正孔も、物質としては解消し「トキ」という還元エネルギーが出る。”

 

 “……要するに、陽子と電子が結合して解消する際に出るエネルギー(トキ)は、直ちに(アマ)に還元するが、その時、その環境にあるものをさらってゆくのである。

 もともと酸(プロトン)だけでも犯す力をもって居り、「酸が物を溶かす」という誰でも見ている化学反応にも、実はプロトンのもつトキ(還元力)が強力だから、という事である。しかし酸の反応は危険であるが、「アマカエシ」では、プロトン自身が消失するので、ガスも出ず熱も伴わず、しかもその還元力は著しく加速され、環境にあるものを、強力にさらってゆくのである。

 この大きなエネルギーは、発生方向(ミトロカエシ)にもってゆけば物質が生産され、還元方向へもってゆけば、物質を、元素に還元することのできる力となるものである。即ち、

 アマウツシによって大量発電が可能であり、

 アマカエシによって大量時間(トキ)が得られる。……“

 

 “楢崎皐月の思想に於いては、アマ始原量の存在は、かれ自身の体覚的に感受できるものであるのみならず、科学者として、技術の裏付けをもつ幾多の実験を通し、もはや、それを認めるとか、認めないと論ずる段階ではない、確かな「物理」として、その「物性」を示し得るまでに至っていたのである。

 

 『文明国の政府なら、先づ、ゴミの処理の為に、可能性のある研究に、思い切った金をかけるべきである。しかし、確かな期待のもてぬ技術に投入する「発明狂」との区別のつかぬ人々に、私のトキ還元エネルギー利用の「夢」は通じる筈は無いから、今、私はこれをやる気はない。専門家に糺しても答えられる人は無いであろう。なぜなら、誰もトキが凝縮したり、加速したりできるモノであるとは考えない。要するに、「物質がトキトコロで成り立つ」とか、「めいめいは自分のトキトコロを持つ」というカタカムナのサトリを失ったからである。「時がすべてを解決する」という実感はもっていても、「そのトキの濃度を増して、トキのエネルギーを多くすれば、物質の分解を早め、還元を加速する」とは考えられないのである。しかし、これは、間違いの無い天然理に基づく、確かに可能性のある技術である。』

 

 彼はこのように語っていた。彼が、技術としてはプロトンはや電子を操作していながら、「原子力」や「電子力」というような名称を避け、「アマ」や「トキ」という、一般になじまぬ名を用いていたのは、彼にはつねに、原子や電子の作用は、原子や電子そのものの固有の力ではなく、その始元にアマ(潜象)の存在を洞察していたからである。”

 

           (宇野多美恵編「相似象 第八号」相似象学会より)

 

 

・「時間の流れ」が異なる世界  (「奇跡のリンゴ」木村秋則氏の体験)

 

 “高校2年生の7月に、生まれて初めて不思議な体験をしました。

 田植えが終わって、夏休みまでもう少しという時期でした。

 授業を終えて自転車に乗り、いつもの帰り道をふらふらとこいでいました。早く帰ると畑の手伝いをさせられるので、なるべくのんびり走って時間を稼ぎたいのです。

 通学路は大型トラックがすれ違える幅員6メートルの道です。わたしは左側を進んでいて、右側の前方には同じ方向に歩いているオヤジさんが見えました。

 オヤジさんはつなぎを着て、タオルをはちまきのようにして頭に締めていました。すぐ近くには田んぼとパルスモーターという超精密なモーターを作っている工場がありましたから、どちらかで働いている人なのだろうと思いました。ともかく、そんな風体のオヤジさんが前方を歩いていたのです。

 ゆっくりこいでも自転車ですから、あっという間に前方のオヤジさんに追いつきました。

 左横には、すぐ先の十字路の交差点まで続く、垣根のような暴風林がありました。その内側には、湧き水が出る水飲み場があり、学校の帰りにときどき寄り道をしては、水を飲んで帰っていました。

 のろのろと自転車で走りながら、「あ~、早く帰るのも嫌だし、どこかに寄って行こうかなぁ~……」などと考えていたその時、道路の反対側をてくてくと歩いていたオヤジさんの動きが、ピタッと止まってしまったのです。それも片足を挙げたまま。

「あれ?」

 オヤジさんを注意深く見ていたわけではありませんが、なんとなく目の端で捕らえていました。それがピタッと停止したからびっくりです。自転車に乗ったまま足を着いて止まり、オヤジさんの様子をしっかりと見ましたが、やはり歩いている途中、まるで時が止まったように片足を浮かして固まっていました。

「オヤジさん、なにしてんだ?」

 パントマイムのように完璧に止まっているオヤジさんに目をぱちくりさせていると、左側にある防風林の上から、いきなり巨大なワニの親分みたいな顔がドテッと現れたのです。……(中略)”

 

 “ふと見ると、オヤジさんは相変わらず動いていません。依然として地面から片足を離したままで、構図も変わっていません。そのときようやく頭が動き、

「もしかしたら、時間が止まってるんじゃないの?」

と思いました。

 次の瞬間、巨大なワニの親分は、防風林を曲がったところにある松の木に移動していました。どアップの顔しか見えなかった先ほどと違い、離れてみてようやく全体像がつかめました。

 龍でした。

 そこで初めて自転車から降りました。オヤジさんの足が止まって龍の顔が目の前に現われてからは、あまりに驚きすぎてからだの動きもほとんど停止していたのです。

 龍がとまった松は、むかしからそこに2本並んでいる松でした。1本は細く、隣に太い松がありました。

 巨大な龍ですから、太い松のほうにいるのかと思ってよく見ると、なぜか細い松の先端にしっぽだけを引っかけるようなかたちで空に向かって伸びていました。すずめが乗ってもしなるような松の先に絡まりながら、軽々と浮いているのです。

「あんなにリアルに見える龍なのに、1グラムもないのかな?」

 そう考えながら、しばらく見ていました。龍が頭を上げて天を見ていたこともあり、

「ああ、そろそろ帰っていくんじゃないかな」

と思ったその瞬間、空に向かって一直線に飛んでいったのです。くねくねとした動作ではなく、真っすぐに飛んでいきました。

 次第に小さくなっていく龍の姿を、一本の糸のようになるまで見送っていましたが、やがて雲の中に消えていきました。

 横を見ると、オヤジさんが歩き始めていました。なにもなかったように、止まる前から続く動作のように自然に歩いていました。

 わたしはこのとき、人間が感じている時間と、そうでない時間、その両方を認識できたのではないかと思います。その中間地点に入ったのかもしれません”

 

             (木村秋則「すべては宇宙の采配」東邦出版より)