ローマ字運動(正しい日本語の保存のために) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 「日本語の正しい発音(言霊)は消滅しつつある」

 

 “……大本七十年史を開いてみると、上巻(七〇〇~七〇一頁)に、一九二三年(大正十二年)―― 十一月十日の大本秋季大祭の夜には、村瀬伝一郎の「日本式ローマ字について」という講話があり、翌十一日には、聖師さまによっても、エスペラントとローマ字の必要性が力説されて、次のように述べられた。 『この頃大本にエスペラント語やローマ字を採り入れたことに就いて、いろいろな批評をするものもありますが、自分は大いにこの国際語を勉強して、早く世界に神さまの道を弘めねばならぬと信ずるからしてエスペラントを奨励しているのである。また、日本国内においては進んでローマ字を採用して、今後は「筆先」も凡てローマ字で発表する考え方である』―― と記されている。

 

 こうした聖師さまのお言葉は、ローマ字への学習にも拍車をかけ、EPA(エスペラント普及会)とならんで、RHK(ローマ字普及会)が設立され、各地で講演会を開催し、支部を設け、機関紙“Kotoba no Hikari”{言葉の光}が発行され、その学習が奨励されたのである。

 また、七十年史下巻(一二六八頁)には、―― 一九四六年(昭和二十一年)二月十四日はじめて制定された愛善苑会則の第四条のなかには、「国語・国字ノ改善トエスペラント其他外語ノ講習」と記されている―― とあるが、この「国語・国字ノ改善」とあるのは、ローマ字運動を指示されたものであると思われる。かつて私は、

 

 「聖師さまが大正十二年にローマ字を採用された目的は、日本人の発音を正しく保存するためであった。世界がいろは四十八文字、すなわち正しい日本語で治まるという大本神諭の啓示にもとづくことは申すまでもない……しかし、ローマ字にはなかなか時間がかかり難しいので、まずエスペラント運動に全力投球する……」

 

と、もれうけたまわったことがある。

 このお言葉どおりに、現在ローマ字界では「ローマ字のともしびを消すな」「ローマ字のともしびを増やそう……」と叫ばれ、ローマ字運動には時間のかかる難しさを見せているのである。

 ローマ字書きの学習は、エス語のように、単語の一つ一つを覚えて操るのに対して、日本語そのものであるから、単に書き方=わかち書き等の勉強だけでよいが、実は日本語の性質―― 幸はう言霊の表現にまで深めて行くようになると、興味が湧いてきて、学習が面白くなるのである。しかも、ローマ字書きをしてみると、日本語が漢字(語)によっていかに乱されているかということを知り、その多様性が浮かび上がってくるので驚くのである。”

 

 “……ローマ字を媒体として、各国の人々が日本語(原文)を勉強され、祝詞奏上を通して実践される時代に入ったことは、 『ローマ字は真の善言美詞の日本語を保存して行くうえに大なる必要があるのである』との聖言を裏付けたことであり、神の御経綸の片鱗をうかがい得て、よろこびにたえない次第である。”

 

   (「おほもと」昭和53年11月号 安藤武夫『いろは四十八文字で世界統一』より)

*出口聖師が『ローマ字は時間がかかり難しい』と言われたのは、学習が難しいということではなく、当時はローマ字学習の意義が理解されず、国粋主義的な風潮もあって、学習すること自体が多くの人に拒絶されたことを言われたようです。しかし、戦後の国語改革によって「ゐ」や「ゑ」は消滅してしまい、また「を」の発音も既に江戸時代から「お」と同じになっており、もはや「いろは『四十八文字』」ではなく、『四十五文字』になってしまっているのが現状です。ローマ字というものがもっと意識されていれば、「い(i)」と「ゐ(wi)」、「え(e)」と「ゑ(we)」、「お(o)」と「を(wo)」の違いは誰にとっても明らかであり、このように言霊が乱されてしまうことはなかったはずです。言霊の力が完全に発揮されるためにも、ローマ字の重要性について、もっと多くの人に知っていただきたいと思います。ちなみに、聖師が採用されたのは日本式ローマ字であって、ヘボン式ではありません。

 

 

・言霊と和歌の徳

 

 “「三千世界の立直しをして、元の昔に返すぞよ」ということが筆先にあるが、元の昔とは、神代にするということである。神代にするということは、第一に言霊を純粋に、正しくするということである。世が乱れて来たもとのいっさいは、みな言霊の乱れ、にごりからである。”

 

 “神代には、言霊は今のように混濁していなかった。日本の言霊がこんなに乱れてきたのは、漢字が渡来してからである。

 神代には、すべて物事いっさいが、簡単に言い表されていた。後世では、意志を伝えるに手紙などを用いるようになったが、神代では、いっさいが三十一文字の歌によった。和歌によっていっさいの意志表示が出来ていたのである。

 それがだんだんと、漢字、漢音が使われるようにしたがって、日本の純粋の言葉が失われるようになった。それとともに、ますます世が乱れてきたのである。それが今日にまでおよんで、日本の言葉をいっそう混乱させてしまった。”

 

 “そこで、それらを改めて、正しい言葉を使うように変えなくてはほんとうの「正しい世の中」にはならないのである。

 まず言葉を正さなければ、ミロクの世は来ないのである。言葉を純粋に、正しくするために、世を立直すためには、いずれも、和歌を詠むようにならなければならない。

 大神様にお願い事をするにしても、和歌を詠んでお願いするようにしなければならない。”

 

 “これからの大本の人は、皆和歌を詠めるように精進しなければならぬ。和歌はすべて、善言美詞(みやび)の言霊によって森羅万象を美化し、人間社会ことごとくを美化せしむる。その徳を養わねばならぬ。”

 

       (「おほもと」昭和53年9月号 出口王仁三郎『言霊と和歌の徳』)