天の岩戸開き (すべてのものが光り輝く) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・天の岩戸開き (すべてのものが光り輝く)

 

 “こんど天地の岩戸が開けたら、草木も、人民も、山も海も光かがやいて、まことにそこら中がきらきらいたして、たのもしい世のおだやかな世になるぞよ。これが誠の神世であるぞよ。

 雨も欲しい時分にふり、風も欲しい時にふいて、人民の身魂も清らかになり、天下太平、天地のみたまが勇む世になるぞよ。月も日ももっと光がつよくなりて、水晶のように、ものがすきとおりて見えだすから、悪の身魂のかくれる場所がなきようになるぞよ。用意をなされ。”(明治三十六年旧六月五日)

 

          (「大本神諭 第三集」より)

 

 

・臨済宗、山田無文老師の体験

 「天の岩戸はたちまち開かれ、天地創造の神わざが無限に展開された……」

 

 “山田無文(太室無文。一九〇〇~一九八八)は明治から昭和にかけての人である。運送問屋に生まれ、大正八年(一九一九)、東洋大学インド哲学課に在学中、チベット留学者、河口慧海(一八六六~一九四五)の雪山精舎においてシャーンティデーヴァ『入菩薩行』の講義を受けたことをきっかけに、発心して雪山精舎に寄宿し慧海に師事したが、発病してやむを得ず帰郷した。同十年、臨済宗の河野大圭の指導によって快癒したことをきっかけに、同十一年、大圭のもとで出家し、臨済宗大学に入った。同十三年、臨済宗大学の学生全員が、毎学期、京都府八幡市の円福寺に一週間の接心に行っていた頃、秋の大接心において見性した。

 昭和四年(一九二九)、妙心僧堂に掛塔したが、天龍僧堂に転錫し、関精拙(本署一〇三頁)に参禅し、さらに嗣法した。のち、妙心寺派管長(一九七八~一九八二)となった。

 以下のことばは昭和四十年(一九六五)に刊行された本人の著書『手をあわせる』による。

 

 秋の大接心のときであった。わたくしたちはめいめい、座布団と日用品をかついで、八幡の円福寺へ籠城した。広い禅堂であったが、五、六十人のものが坐ると、ぎっしり、いっぱいだった。そのとき、わたくしの真向かいに坐っておるクラスメートが、じつに坐禅に熟達しておった。彼は学校に入る前に、博多の聖福寺で数年、坐禅をしてきておるのである。

 わたくしが足が痛くなったとき、ふと彼を見ると、彼は坐ったままぴりっともしていない。わたくしが眠くなってふと彼を見ても、彼は動かない。わたくしが体がだれて、どうにもならなくなってふと彼を見ても、彼はさゆるぎもしない。わたくしは大いにファイトをわかした。負けてなるものかと坐りこんだ。

 四、五日たつと、わたくしも坐って坐ることを忘れ、立って立つことを忘れ、心身を忘却するところまで進んだ。まことに神人合一の静寂さである。そして第六日ごろ、参禅の帰りに、本堂の前の真黄色な銀杏を見たとき、わたくしは飛び上がるほど驚いた。わたくしの心は忽然として開けた。無は爆発して、妙有の世界が現出したではないか。隠寮へ走って参禅したら、公案は直ちに透り、二、三の問題を出されたが、その場で解決してしまった。

 天の岩戸はたちまち開かれ、天地創造の神わざが無限に展開されたのである。すべては新しい。すべては美しい。すべては真実である。すべては光っておる。そしてすべては自己である。わたくしは欣喜雀躍した。手の舞い足の踏むところを知らずとは、まさにこのことであったろう。

 天地とわれは不二である。世界とわれは不二である。人類とわれは不二である―― このような直観の心境が、どうして喜ばずにおられようか。「いまこの三界はことごとくこれわが有なり、その中の衆生はみなこれわが子なり」と証言された釈尊のお言葉が、けっして誇張でもなく、欺瞞でもなく、自覚の実感としてしみじみ味わわされたのである。

 人類と世界に対する不二の愛情こそ、人間性の真実であることを自覚できたのである。かつて人類のために自分の一生をささげると誓った菩提心こそ、人間性の本質であって、わたくしの発心があやまりでなかったことを、わたくしは親しく体験したのである。

 その時の師家は、当時の学長であり、のち妙心寺派管長となられた神月徹宗老師であり、そのときの向かい側に坐っていたクラスメートとは、現平林寺僧堂の師家、白水敬山老師である。よい道友を持たなければ道は成就しないことを痛切に味わわされて、わたくしはいまも敬山老師に感謝しておる。(山田無文[1965:94-96])”

 

     (大竹晋「『悟り体験』を読む 大乗仏教で覚醒した人々」新潮選書より)