「愛善みずほ会」の創立 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “開祖は人ごとに天地のみ恵みを説かれたが、それは開祖の長い間土に親しまれた体験を通して、人間が天地の恵みにつつまれて生かされているという有難さを、痛切にお感じになっていたのであろう。菜の葉一枚も粗末にできない、という御言葉や、七十歳を超えてもなおクワをお持ちになられた御生活がその御信仰から生まれるところに、魂にひびく尊さがあるのである。このような方は、売買のかけひき話とソロバンの音に明け暮れる巷から生まれなかったであろう。

 

 宗教には、罪の自覚から聖なるものを求めて神の愛にふれる途、人生の悲哀に徹して達観の世界にいたる途などさまざまの途があり、人は機根によって好むところを選びその霊魂は救われるが、大本は唯心的あるいは現世否定の宗教とみちを異にしていて、国祖国常立大神をはじめ素戔嗚大神、金勝要大神(きんかつかねのおおかみ)たち大地の神々の御出現にはじまり、その信仰の基礎を、人類が国祖たち世におちておられた神々の因縁御苦労を知って、天地の恩徳を感謝しつつ現世の生業をとおして、地上完成への神業に奉仕すべきもの、との自覚におかねばならぬとしているごとき、その神観、世界観、人生観は、大地をもととしていて、現世を軽んぜず生産を重視するところにある。霊体一致といい、信農一如というのも、教えの基本が大地を離れぬ所以である。

 

  あらがねの土は万有産出のもといなりせばおろそかにすな 聖師

  お土からあがりしものを大切にせざればこの世は治まることなし 同

  天の父ちちよちちよと人はよべど母なる大地とく人ぞなき 二代苑主

  天はちちは母いづくにましますぞ母は大地お土なりけり 同

 

 二大苑主の思い出話によると、父政五郎の若い頃田畑は殆ど手ばなされてしまったらしいが、父上に伴われて田圃の仕事に行った記憶がうっすらとあるそうだから、開祖は町家の御出身といいながら、出口家に嫁がれてからは百姓らしい御生活もあったと察せられる。明治二十五年、神懸かりになられて、一家の人たちは気が狂われたのかと案じられたが、八木にかたづいていられた三女福島久子さんが見舞いに来られ、手みやげの代わりにと些かのお金をあげられると、そんなものはいらん、お前の子にまんじゅうでも買ってやりな、それより私がお前にこれをやるとて、カマボコ板ほどの木片に土をのせて渡された。久子さんは噂のとおり母上は気ちがいになられたと思ったという話、これは後に筆先が出るようになって意味深いなぞであることがわかったが、その後筆先のひまひまには、当時僅かに残っていた屋敷の内の三十坪そこそこの畑に出て蔬菜をつくられ、ときには人力用のスキを借りて土をすき起こされたこともあるとか。草一本も生やすことがお嫌いであったので畑はいつもきれいで、見事な蔬菜のできであったそうである。 

 神様が開祖をいたわられて、水垢離と畑仕事はやめよと仰せられるけれども、といわれながら水垢離のとき腰を痛め足が不自由になられた明治の末まで、畑仕事をおやめにならなかったということで、猫のひたいほどのお土も粗末にせず、天地のお恵みをいただいてつくったものは、金で買ったお供え物よりも誠心がこもっていて神様はお喜びになる、と仰せられた開祖は、畑にできたものを日々お供えしたのち家庭の用にあてられたそうである。

 お土はこの世のもとであると仰せられ、大地を拝んで畑仕事をなさった開祖の御精神、これを忘れ去ったとき、信仰は観念的となり、或いは霊に偏ったものとなって大本的生命を失うのである。

 

 大正七、八年ごろ、綾部の神苑に近い一反歩足らずの畑に、神饌用の蔬菜を特につくりはじめたのが大本農園の濫觴ともいえる。その後、奉仕者の増加につれて自給菜園の必要も加わり、神苑と天王平附近に水田や畑が増えて農場奉仕者もおかれたが、第二次大本事件中、小作に出したため農地法にかかって、人手に渡った田もあり買い取ったものもあって、現在一丁五反の田畑が総本苑の農場となっている。亀岡においては、一町餘の田をもって感化事業をしていた理想郷農園を昭和二年に買収、六 ― 七年ごろ周囲の田をあわせて二町数反歩となって、神饌と当時の四百名に近い天恩郷奉仕者用の蔬菜がおもにつくられていた。

 そのころ聖師はしばしば車で農園におこしになり、田植頃にはお若い頃とられた慣れたお手つきで牛を追って田を鋤かれ、本部役員たちもそろって田植に出るなど、天恩郷年中行事の一つとなっていた。聖師が稲の二期作の研究家大阪府三島郡の二反長氏の熱意をかわれて試験田を農園に設けられたり、山形県米沢の信徒相原藤三郎、斎藤清両氏の考案した陸稲の干魃防止栽培法を、人類愛善会をして全国にわたって大々的に普及させられ、この農園で試作したのもこのころであった。大祭には天恩郷更生館に陸稲の一株品評会が催されるなど、農業改良運動の芽はたくましく伸びようとしているとき、昭和十年大本事件となったのである。しかし、当時普及された愛善陸稲栽培法が各地に行われていて、昔を知る農家から感謝の言葉をきくことがある。

 

 このように、開祖のご精神は聖師により、人口食糧問題打開の方法として先には蒙古入りの御壮挙ともなり、また農業改良、食糧増産運動と発展せしめられたのであるが、太平洋戦争中の深刻な食糧不足にあったとき、わたくしたちは食料の豊富な十数年間に米の減反運動が行われたことを顧みて、いまさらながら感にたえないものがあった。また昭和八年南洋ポナペ島に二百町歩の開拓農場をはじめられ、十数人の信徒が千古の密林を拓いて経営緒につこうとした時に、大本事件にあったのである。

 苛烈を極めた第二次大本事件、あらゆる建物がこぼたれ、神苑まで人手にわたって、形あるものは官憲の意図するままに地上から抹殺された後に、たびたび強引な売却処分を迫られながら一つ残ったものがあった。それは大本農園である。出口家の男子がみな未決監に入っていた留守中、婦人子供は亀岡の農園に安住の地を得ることができた。三年が過ぎ七年を経て、保釈出所した家族を迎えたのもこの農園である。保釈中の不自由な身柄に許されるものは、土に親しむ生業である。漸くきびしくなった食糧不足の世情の中にあって、開祖の御言行をしのびながら稲を育て、黍を培こう生活が授けられたことは偶然とは考えられない。田植は聖師御夫妻の植え初めで始まり、在住の信徒を交えてにぎやかな家族の田植え組に、田の畔から御言葉をかけられる御夫妻、カマをとって不慣れな家族の誰彼に稲の刈り方をお教えになる聖師、家庭をかえりみる暇もなかった事件前の御生活にくらべて、多勢の子や孫に囲まれてまことにしあわせそうに見られた。こんな家族らしい生活を味わったのは初めてだと御夫妻はいくたびか語り合っていられたが、家族にとっても最も楽しかった時代である。こうして深刻な終戦前後の食糧難の中に、四十人近い大家族が比較的苦労のない食生活をしてゆけたのは、全く土に生きるものの恩寵というほかはない。やがて愛善苑の発足となり、農事課がおかれて、米黍甘藷その他主要食糧の増産技術の研究と、柴田欣志氏の酵素農法に着目して研究を始めるなど。愛善苑信徒を中心に農事講習会をたびたび開催していたが、黒沢浄、植村登、伊藤恒治、山中重信氏たち全国的に著名有力な篤農家と愛善苑有志と相図って、昭和二十三年節分祭を期して愛善みずほ会を創立した。大本愛善苑の宗教目的を、この人口食糧問題に苦しむ日本に打ちたてる上に必要欠くことのできない運動として、また国民の半ばをしめる農村に、物心両面の安定をもたらす社会事業運動として、大本愛善苑の強力な支持協力のもと、数年を出ずして、全国に三千五百餘の支部と五万の会員を擁して民間の農村振興団体、食糧増産団体のうち、最も大きな存在となったのである。

 愛善みずほ運動は、農家の思想、信仰の異同を問わず、求めるものに、生活安定の方法を教え、農村繁栄の途をひらく。信徒会員は立教の精神を体して、この運動を支援し或いは挺身する。かくして大本信仰の光が農村に真の平安をもたらし、食糧自給度の向上を通して社会に安定を與えることを祈ってやまないのである。”

 

       (「神の國」昭和27年2月号 出口新衛『大地はほほえむ』より)