親和体道(親英体道) 〔鎮魂の武道〕 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・親和体道(親英体道) 〔鎮魂の武道〕  井上(のり)(あき)(方軒)

 

 …… 一番最初に総論として申し上げてみますと、〈親和体道は鎮魂の(わざ)である〉ということになります。鎮魂を目的としてやる業であるとね。これが総論になるんじゃないかと思います。そうして、その実践としましては、日出麿先生から頂きました『どうかして受け身になりたや枇杷の雨』という御句を本としてお稽古をしております。ですからこの体道の全ての動きはファイトをもってかかるのでなく、いっさいが受け身になりきるようにもっていっております。ここが、これまで皆さんが武道についていだいておられたものと根本的に違うところでしょう。体の動きいっさいが受け身でありたいということは、われわれの精神に天上界から内流してくるものに対し、いつも敬虔な気持ちでそれを全く受けきろうということに通じることであります。そうした心意と密着したところに体の動きをもってゆくことが、わたしたちの修練の目的です。……

 

 (「親和体道」という名は) 昭和二十二年七月二十二日に瑞霊真如聖師さまから頂いたのです。それについて、いろいろの話はありますが、聖師さまは「この体道は、これから必要なのだから、いままでお前に修行さしておいたんや。これからはワシの云う通りにしてゆきな」とおっしゃって下さり、御一緒にいらっしゃった二代様が「先生の云われることは素直に頂いてやらしてもらいな」と申し添えて下さったことにより、発足さしてもらいました。私としては、あまり責任の重大な事であり、考えさせられたのですが、二代様のお言葉まで頂いたことであり、やらしていただくことに決心し、今日までお力をいただいて進んできたのです。……

 

 人間の主体は精霊でありましても、現実界においては肉体によって表現し、活動してゆくのでしょう。ですから、精霊の向上と密着した肉体をもつことが必要であります。これはまた肉体の組織的な修練によってより高い霊線と結びつくことも出来ます。それを、ごく簡単に具体的に云いまして、私のお稽古は、人間の所作の一切の上に、万事きれいな線を出さしていただくところにもっていっておるわけです。又それが人間が世上における大切な努めであると、こう思わさしてもらっております。その基本を体道の業のうちで身につけさしてもらえるように仕組まれているわけです。

 

 (体操やバレーなどとの違いについて)……動作の美ということは、よく云われますけれども、それを人間として具現することは、愚かなことであって、そこにはどうしても信仰がなければ、さしていただけないことです。大宇宙は神の御心によって具現しているのであって、私達はその使命においてただ動かして頂いているのですから、どこまでも御心を頂いて美わしい世界を造り上げよう、こう念じ、励んでいるわけです。ですから、そこに自ずから精神的態度も違い、仕組まれている業も自然のリズムから流れてくるものであり、私たち人間の生理の活用であります。……

 

 強いとか弱いとかいうことは申しておりません。むろん武術の世界においては強くなければならないのでありましょうと思いますが、しかし立派に美わしいものを描き出したときに、始めてそれが私は強いものじゃないのかしらと思うのです。美というものはわたくしたちの魂の働きとして表れるもので、そこには、むろん勇だとか親だとか愛だとかという四つの働きがありますが、この働きというものは、魂の四つの働きが一つになったとき、勇もあれば愛もあれば親も智もある、そこにほんとうに立派なもの、美なるものが現われてくるのであります。……

 

 私は聖師さまから承ったのですが、あるとき「武の現われというものは如何なるものでございますか」とおたずねしました。聖師さまは「それはやはり言霊の威力によって現われたものや。それを一つの道として具現したものにすぎない」とご教示下さいました。でありますから、よく言霊の幸はう国、言霊の生ける国と申されていますが、武は善言美詞の言霊の現われであります。したがって、その徳によって悪いものは退散する、善には力が満ち満ちていて、邪悪なものに身心ともにおかされない。そこに、武のあり方があるというのです。よって、武というものは千差万別に現われてくるのであって、投げたり、切ったり、はったりするのが武ではない。本来は千差万別に現われてくるものの一つの大きなる組織を勉強するためにある、とこう感じたのであります。

 

 信仰があれば体道はほんとうに容易に治めることが出来ます。これは断言してもよろしいと思います。又ひるがえって、只今私たちの親和体道をお稽古している方には、どういうわけか、私は信仰についてはお話ししないのでありますが、不思議に神の実在というのですか、これは神の力によってここまで出来たものであると、おそらく信仰がなければこの神秘的な動きはできないのである、人間が如何に動いてもある点まではいくが、それ以上のことは信仰がなくしては不可能である、とこれは今私とここに来ておられる信仰のない人らが云うのです。その現われは、毎月の大神様のお祭りには、私が何を云わなくても必ずお参りしています。ですから、親和体道と大本の信仰というものは、これはもう切り離せないのであります。非常に傲慢な言葉でありますけれども、信仰と親和体道というものは不可分に働かなければ、とうてい一つの業も満足に出来ないということが断言さしていただけると思います。で面白いことなんですが、外国の人が来ております。その外国の人々ですら、親和体道をやって行けば行くほど信仰がますます必要であるということ、神さまに祈るということが必要であると如実にわからしていただきましたと、こういうことを云っています。

 

 ……いままで私がお話しをさして頂きましたことは、いずれも聖師さまからお教え頂きましたことです。いずれも聖師さまからお教え頂きましたことをお取次さしていただいたようなものですが、聖師さまが私にお話し下さったことの中で、初心の方の信念として申し上げてよいかは別としまして、聖師さまは「どんな人でも、これをやっているうちに自然と惟神(かむながら)に神様を拝ましてもらえるようになる。これをやっているうちに大酒呑みはだんだんと酒が呑めなくなる、気の小さい人はだんだんと気が大きくなる、やればやる程全身が非常に柔軟性を帯びてくる。全身が柔軟性を帯びるということは、心に柔軟性が出来てくることで、それだけ心にゆとりが出来てくる、まあ見とってみい、必ずそうなるから」という意味のことをお話し下さったことがあります。

 

 ……聖師さまも「これはまつりのわざである」と申されました。親和ということは、真とまつりあわしてゆくことです。……

 

 だんだんね。邪心が起こってくるのを処理するというよりも、起こらなくなってきますね。兵法では相手が意志的行動をとった瞬間にこちらが動いてゆくのです。それを相手を思わさす前にこっちが思わささないように持ってゆくのが親和体道です。あいつ何ッ、と思わさす前に、もっていくのですね、ですから先に云いました、まつりの状態になるでしょう。

 

 惟神に心が動き、肉体を動かそうとする以前に肉体が自ずから動いていきます。それは単なる言葉ではなく、守護神の本来の活動による、心と体が一体になる境地のことで、そこまでになってゆくのです。ですが、そういう話までは普通の人には言いません。

 

 ……体道とは人間の本にかえる勉強で、表面は武道であっても武道じゃない、武とか兵法なんていうのは歴史的に云って途中のものですね。私の勉強した範囲では、やはり古神道から出たもので、結局惟神の道に帰ることなんじゃないでしょうか、誠の道にね。

 

      (「おほもと」昭和32年11月号 『親和体道を聴く 語る人:井上方軒』より)