・聖書の読み方 〔手島郁郎(原始福音、キリストの幕屋)〕
“ここで思い出したことがある。聖書塾が代々木に移ったばかりのことだ。
竹下、高橋、阿部、私の四人の伝道者が、聖書講義につき先生から訊かれた。
「きみたち、聖書講義はどのようにしてやっているんだ……。高橋くん?」
「ハイ、ぼくは何か具体的な問題を持っている人に合わせて、聖書のどこかを選び、そうやって、みんなでその問題の解決を祈ります」
「竹下くんは、どうだ」
「ハイ、ぼくも大体、高橋さんと同じです。前もって集まってくる人たちの問題がわかっていますので、その人に焦点を合わせて聖書の箇所を探し求め、そこを読んでいきます」
「なんだ、そうすると、きみたちは聖書のつまみ食いをしているわけで、聖書より偉いんだ。な、そうだろう?」
「いやー」と、竹下さんが頭をかいた。
「そんな聖書を毎回自由に選んで、聖書より高い所に自分をおいていて、どうやって聖書から学ぶんだ。ぼくは、そんなことせんなぁ……。ぼくは、マタイ伝ならマタイ伝を、毎週連続して読んで講じていく。生命はズーッとつながって流れているんだから、ぼくは一年かけても二年かけても切らずに続けて読んでいく。それを丹念にやらずして、どうやって信仰の成長が遂げられるんだ。つまみ食いの聖書読みでは、伝道者にしても幕屋にしても、信仰の向上は望めないと思うんだが、どうだね」
ここまで言われると、だんだん頭が上がらなくなるが、この先が聞きたくもなる。
「ところでね、連続講義でみんなが行き詰まるのは、自分の得意の箇所でなく、何のひらめきも湧いてこないとき、どうするかということだ。そりゃね、その聖書の箇所を辞書ひいて原文で読み、それを二、三日胸に抱いて暖めて過ごすとね、実に不思議と、その聖句に、そのドラマにピタリと当てはまることが起きたり、思いがけない人から手紙が来たりするものだよ。きみたちが、その聖書の箇所を深く瞑想しながら御前に過ごしさえすれば、必ずそういう導きというものがあるものなんだ。ぼくは、そうだなぁ……」
聴いていて深い嘆息が出てしまい、またそんな気持ちにもなってしまうのだった。
ところが、その沈黙を阿部さんが破った。
「先生、聖書には、ことさら聖書講義なんかするまでもない箇所がありますね」
「ほお、それ、どんなとこだい」
「ハイ、『夫たる者よ、汝の妻を愛すべし』です。これなんか、世界中どこに行っても守らるべき永遠普遍の真理で、これに『然り、アーメン!』と言えばすむことで、これをわざわざ講釈する必要なんか、さらさらないと思うんですが……」
すると、先生は身を乗り出して阿部さんに言われた。
「そうだろうかぁ……。ねぇ、阿部くん、きみんとこは相思相愛の理想的な夫婦だから、まぁ、そうだろうけど、世の中には、いや、きみんとこの幕屋でも、自分の夫を妻を愛することができずに、言うに言われぬ苦しみを抱えている夫婦がいるもんだよ。でも、そんな人でも一度キリストの御霊を受けてコンバージョンしたら、今まで大嫌いだった相手を、ああ、わが肉の肉、骨の骨と言って泣いて愛せるように変わるじゃないか。きみの伝道でそういうことはないのかね……。
その『夫たるもの、汝の妻を愛すべし』という聖句は、ぼくには涙なしには読むことも講ずることもできない、実にありがたい聖句なんだけどなぁ……」
ああ、ややもすると道徳倫理として受け取りがちなこの聖句を、先生はどこまでも福音の言葉としておしいただいておられた。”
(財津正彌「キリストの火に 手島郁郎とその弟子たち」ミルトスより)
・聖書通読の恵み 〔エドガー・ケイシー〕
“ケイシーの霊や精霊を見る力は、7、8歳くらいまで持続したようですが、少年期に入ると急速に失われました。それと入れ代わるようにしてケイシーの心を捉えたのが、イエス・キリストの物語でした。
ケイシーが9歳のとき、地元ホプキンスビルに巡回伝道にやってきた伝道師の説教を聞いたことがきっかけで、イエス・キリストに対する興味がかき立てられたのです。すぐに自分専用の聖書を買ってくれるよう両親に懇願し、聖書を与えられるや、それを片時も離さず熱心に読むようになりました。13歳になるまでに聖書を13回も通読したといいますから、その熱の入れようがわかります(その後、ケイシーは毎朝、日の出と共に聖書を読むことを日課とし、1年に1回聖書を読み通す習慣を貫きました)。
いつしかケイシー少年は、将来は医者になって病人を治療する仕事をするか、牧師になって悩める人々を救いたいと願うようになりました。
聖書の13回目の通読が終わってまもなくの頃、ケイシー少年はある神秘体験をすることになります。”
(光田秀「眠れる予言者 エドガー・ケイシー」総合法令出版より)