数=音楽=宇宙 〔ピタゴラス〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・数=音楽=宇宙  〔ピタゴラス〕 

 “……ピュタゴラス派の人々は数と音楽と宇宙との間に接点を見い出そうとしたのではない。その三つは同じものと考えたのである。音楽とは数であり、同時に、宇宙とは音楽だということである。
 ピュタゴラスは音楽を三つの種類に分けて考えていた。すなわち、もっと時代が下がってから用いられた専門用語を使うなら、まず「器楽の音楽(ムーシカ・インストルメンターリス)」。これはごく普通の意味でリラを爪弾いたり葦笛を吹いたりするときの音楽をいう。次が「人間の音楽(ムーシカ・フマーナ)」。これは、たえず鳴り響いているのに人間には聞こえてこない音楽のことで、人体の諸器官、諸臓器が発している音楽であり、とくに精神と肉体の関係が協和的に(あるいは不協和的に)共鳴し合って発する音楽をいう。そして最後が「宇宙の音楽(ムーシカ・ムーンダーナ)」である。これは宇宙そのものの発する音楽のことで、後に天界の音楽として知られるようになる。
 現代の人間の眼からすれば、こうした音楽を三段階に分けてもそれぞれ尺度が違う、と言わざるを得ない。ところがピュタゴラス派の人間に言わせると、三段階に分けられてはいても、それらは本質的にまったく同一のものである。つまり、葦笛が鳴らす音楽でも宇宙が発する音楽でも、同じ音を発しているはずだというのである。そういうふうに考えるのも、ピュタゴラスにとって音楽は、いわば純粋に数学上の問題だったからである。だからこのように三段階に分けられてはいても、それぞれの音楽に差異はないことになる。それはちょうど、手のひらに描いた三角形と、三角形の形をした建物の壁と、空の三つ星を結んで描いた三角形との間に差異がないのと同じ事なのだ。つまり、「三つの角があるもの」というのはいわば永久不変の概念であり、この概念に基づいて表現されたものは、すべて本質的に同じものになるのである。
 音楽に関していえば、法則こそが最も重要であった。というのも、音楽の法則が、目で見たり耳で聞いたりして知覚できる世界のみならず、知覚できない世界も含めた全領域を支配していると考えていたからである。ピュタゴラス本人は、自分は治療者であると思い込んでいた。そして、さまざまな病気を治す一種の治療薬として音楽を用いた。器楽の音楽(ムーシカ・インストルメンターリス)も人間の音楽(ムーシカ・フマーナ)も本質的に同じものであり、もとはといえばどちらも同じ真理から現われたものである以上、リラを爪弾いて誰かが音楽を演奏したとすると、その音楽がいわば人間という楽器に共鳴するような感じを呼び起こすはずであると考えた。ポルフィリオスの話では、ピュタゴラスは「さまざまなリズムや歌、呪文などで精神や肉体の興奮を和らげ、個々の信奉者の状況に応じてそれを変化させながら用いた」という。ギリシャの伝説には、音楽には実際に不思議な力があり、そのおかげで残忍な気持ちが収まったという話が到るところにある。古代ギリシャの文献にはそういう逸話が数多く収められているが、これから紹介する話もそれに類するもので、ポルフィリオスの弟子イアンブリコスが残したピュタゴラス伝をもとに、わかりやすく書き改めたものである。それによると、
 タオルミナという所から一人の若者がやってきて、友人たちと徹夜で騒ぎまくった。その宴席で、フリギア旋法で作られた歌がいくつも歌われたが、このフリギアという調は、聞く人の心に凶暴な気持ちを掻き立てる煽情的な旋法として有名であった。こうして、いささか凶悪な気分になっていたその若者が、一人の娘に一目ぼれしてしまう。そうして、夜明け前に仲間の家から千鳥足で出てくると、その娘の家に火をつけてやろうと考えた。偶然にも外で星を観察していたピュタゴラスは、この若者が狼藉を働こうとする場に出くわした。ピュタゴラスは笛を吹いていた人間に、フリギア旋法をやめて、長・長格の、精神を安定させる効果のある韻律の歌を演奏するよう命じた。すると、その若者に取り憑いていた狂気が消え、理性を取り戻した。ほんの数刻前まで、愚かにもこの偉大な哲学者に罵声を浴びせていた若者が、今度は物静かに語りかけてくるようになり、普通の状態で家に帰っていったという。”

          (ジェイミー・ジェイムス「天球の音楽」白揚社より)